エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターの生きる手応え

2015-07-17 09:09:42 | アイデンティティの根源

 

 ルターは祈りの人として、心の中にかすかに聞こえる「神の声」=「自分自身の声」に聴き従う道を見つけたのでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p212の 下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは、キリストが私どもの「ために」(私ども「ではなくて」という意味です)、身代わりで死んでくれた、と評価することを止めました。ルターはまた、見習ったり、卑屈に崇め奉ったり、あるいは、過去の出来事として行事の中で思い出したりする、1人の理想像として、キリストを見る見方も捨てました。キリストはいまや、クリスチャンが自分を確かにする核心になります。すなわち、quotidianus Chtist adventus 「(ラテン語で)毎日、キリストは来られます」、キリストは今ここに、私の中におられます。苦しみを受け身で体験することを肯定することが、毎日Passion「キリストの十字架の苦しみ」を体験することになり、Passion「キリストの十字架の苦しみ」は、人が「ただの人である」ことを、一番能動的に、一番見事に、肯定することによって、他者のためになる、一番大事な犠牲という意味での身代わりになります。Passion「キリストの十字架の苦しみ」は、ルター自身が巧みに選択すことを通して、ルターがこの世の中に確かに生きる手応えになるのです。

 

 

 

 

 ここも見事ですね。ルターは、今まで、中世世界で、「正しい」信者の態度やら、ものの考え方やらを捨てちゃいました。傲慢に見えますね。それは、自分の心が体験したことから、気付いたことだったのでした。自分の心にウソをついてまで、その「正しい」態度やものの考え方を是認するような、付和雷同はやらなかったんですね。

 自分の心に正直にやったら、それは、クリスチャンとして、今までなかった態度と、ものの考え方に、ルターは至ったんです。宗教改革は、あくまで自分に正直であること、自分自身に忠実であったことの結果であって、自己目的じゃぁなかったわけですね。そして、その態度とものの考え方は、私どもに繋がるものでして、それは、キリストの十字架の苦しみこそ、私どもの苦しみを、自分を確かにすることの要になる、圧倒的な悦びのはじめでした。そこには、自分を確かに生きることの出応えと、悦んで、陽気に楽しく生きる手応えが、必ずありますよ。

 ありがたいでしょ。素晴らしいでしょ。

 

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人を信頼すればこそ、人は希望が持てるもの

2015-07-17 08:04:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人が倫理的な人間力を身に着けるのは、道徳の授業で習ったからでは全くありません。自分自身が葛藤を繰り返し体験して、「何のために生きるのか?」と自らにWhyと問いかけて、問いかけて、問いかけ続ける中から見つけた態度なんでね。葛藤済みの、試練を経た上での、倫理的な人間力なんですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p60の3行目途中から。

 

 

 

 

 

それからね、これらの言葉にいろいろある、示唆的な意味に関して言えば、hope「困難があっても、希望を失わないこと」は、hop「ピョンピョン跳ぶこと」とも関係するみたいですね。hop「ピョンピョン跳ぶこと」は、跳ぶという意味ですし、プラトンが、≪陽気で楽しい≫ことのひな形は、子どもの動物が飛び跳ねことだと考えたことを、最大限に利用するのが常でした。とにかく、hopeは、期待した未来に対して、期待通りの飛躍を見込むゆとりがある感じをくれるものですし、それは、前向きなイメージであっても、些細な引き金になる行動であっても、、違いはありません。そして、そんな大胆さがあるのは、人が誠実であることに対して根源的に信頼していればこそでしょ。それに、人が誠実であることを根源的に信頼している感じは、お母さんから大事に世話されることによって、文字通りに言っても、比喩的に言っても、養われるものですし、その信頼が、とっても絶望的な嫌なことに出くわして、危うくなったときには、溢れるほどの慰め、ドイツ語ではTrost「慰め」 を戴いて快復するものでしたね。

 

 

 

 

 

 人が世の中を信頼できるのも、お母さんから繰り返し大事にされた遠くの記憶があればこそでしょ。同様に、困難にあっても希望を抱き続けることができる、という意味での希望hopeも、お母さんから繰り返し大事にされた遠い遠い記憶があればこそなんですね。その温もりに満ちた遠い記憶を望み見ることができるからこそ、将来に対しても、自分が期待する飛躍を、待ち望むこともできるんですね。

 

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選択のとき

2015-07-17 04:30:09 | エリクソンの発達臨床心理

 「〇〇を認めるならば、権力がもし欲すれば何事でも強硬できること、つまり万能であること認めることになります。権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません。一方を否認することは他方を肯定すること、他方を肯定することは一方を否認することです。これが私たちの前に立たされている選択です」。

 この「〇〇」に何が入ると思いますか? 「アベシンちゃんと悪魔の仲間たちが、2015年7月15日の昼過ぎから16日の午後にかけて強行した、戦争法案強行採決の暴挙」としても、意味をなしますね。

 でもそうではありません。

 実は、これは今から55年前、「1960年5月19日から20日未明に、岸内閣が新しい日米安保条約案を強行採決した暴挙」が入る所なんですね。まるでこの2つ暴挙が、パラレルであることが分かりますね。そして、この文書は、丸山眞男教授が1960年に記した「選択のとき」(『丸山眞男集』第四巻、p.347-350)です。

 今日は、丸山眞男教授第二夜です。

 丸山眞男教授は、ポツダム宣言が採択された翌日の1945年7月27日に、ポツダム宣言をラジオで傍受してたそうですね。その日の、自分の「備忘録」に丸山眞男教授は、

 「ポツダム宣言の全文をはじめて見た時『基本的人権の尊重は確立さるべし』という言葉、それを見た瞬間、からだ中がジーンと熱くなった」

と記してんですね(ポツダム宣言の「ジーンと熱くなる」感動 3訂版)。敗戦前から民主主義の大切さをいかに認識し、敗戦後には民主主義の社会に日本も生まれ変わることを知って、いかに感動していたか、が分かります。

 しかし、それから15年後の1960年には、岸内閣によって、新安保条約案が強硬採決され、民主主義が踏みにじられた事態を眼にした丸山眞男教授は、義憤に駆られてこういいます。

 「岸内閣は、民主主義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民主主義のありとあらゆる理念と規範を脱ぎすてて、単純な、裸の、ストリップな力として、私たちの前に立っております」と批判しました。これはそのまま、次のように言い換えることができますね。すなわち、

 「安倍内閣は、民主主義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民主主義のありとあらゆる理念と規範を脱ぎすてて、単純な、裸の、ストリップな力として、私たちの前に立っております」と。

 これを否認し、これと対抗するために、私どもはどうすればいいのか? 丸山眞男教授の教えを学びましょうよ。

 「(安保改定【戦争法案】の強行採決をしでかした)夜に起こったことを、私たちの良心にかけて否認する道は、ちょうど逆のこと以外にはないでしょう。すなわち、岸【安倍】政府によって、脱ぎ捨てなれた理念的なもの、規範的なものを、今こそことごとく私たちの側にひきよせて、これにふさわしい現実を私たちの力で作り出していく、ということであります」(もちろん、【 】は、引用者の挿入です)。

 私どもも、今まさに「選択のとき」に立っているんですね。

 

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