着物を本格的に着始めて、思えば十年以上になる。
着物の出会いは、祖母と母の影響が大きかった。
まだ幼いころ、隠居部屋の和室で祖母が着物を仕立てていた。
祖母は仕事は遅いが、とても丁寧だということで、ひいきにするお客さんがいたらしいのである。
まだ、アルバイトや、内職、などという言葉を知らなかったので、
おばあちゃんが、こんなに年とっても仕事なんて、うちは貧乏なのだ、と単純に思っていた。
毎日、十円のパンでどれだけすごせるのだろうか?こんなことも真剣に考えていたことを
思い出す。昔から、ほんとうに筋金入りの「心配性」だったのだと思う。
初めて着物らしきものをきたのは、幼稚園の盆踊りの浴衣だった。
たぶんゆかたは母が生地を買ってきて縫ってくれたのだとおもう。
浴衣に向く生地がたくさんとってあり、子供はすぐ大きくなるので、浴衣の生地は形をかえて、甚兵衛
やシンプルな普段着のワンピースなどにもさりげなく使いまわされていた記憶がある。
小学生になって、着物通でしられた幸田文さんの本にはまり、たくさん出てくる着物の描写が
面白く、母を質問攻めにして困らせた記憶がある。
幸田先生の時代の着物は、そのころはすたれてしまい、母もあまり目にしないようなものだったので
「ごめんねえ。おかあさんもみたことはあまりないから」
ばつの悪そうに謝る母に、これ以上聞いても
「そんなことより、幸田さんのが好きなら、少しはきちんと
なさい。着物の前に家事でしょうが!」こう言われるに決まっていた。
ネットなどないので
百貨店から来る「着物セール」のちらしやら、テレビの演歌歌手の着物やら
後は、母の着物の手入れの様子、まだまだ若いころは着物は頭の中のものでしかなかった。
初めてお正月に着物を着てみたい、と思ったのは高校生の頃だった。
寒いのでウールの着物がよかろうと、母が珍しく買ってくれた。
紺地のウールなので着せてもらうともっさりと重たくてちくちくした。
帯は気楽な細帯で後ろでリボンに結んでもらったが、しんどいものであった。
三社参りを済ますころには、「も~たくさん!」と着物をきこなすどころか、着物に負けてしまい、以後ぷっつり、それっきりその着物に袖を通すことはなかった。
母も母で、浴衣や着物の話になると、本をさしだし、これで覚えろと、必ず「自分で着なさい、」と言った。
背格好は母の着物を着るのにはちょうど良い体格でよかったのだが、着物は「着る」というより
まとう、というもので、着物(長着)をうまく着られても帯でてまどった。
手間取っていると長着がだらだらと崩れてくる。
見かねた母が、うまくいかなかったら、取り繕うより、羽織で隠せ、と教えてくれた。
羽織はコートと違い、脱がなくてもよいのでなんとかなるというのである。
そして三十歳手前で、ようやく「自分なりの着付け」でお正月に親戚に「母の晴れ着」を着ていくことができた。
先方はとても喜んでくれて、叔父が写真を記念にとってくれた。それがツレ(旦那様)への見合いの写真になったのは、面白いめぐりあわせだな、と思う。
ある本によると、十年で買った着物を見直さないといけないらしく、やはり着物本体は年をとらないものなのだと感じた。
帯のとりあわせや、帯の締める位置も微妙に変わるもので、
今までピンクにベージュや白系の帯でよかったものが、いわゆる「中年のおばさん」になると、黒のほうがしっくりくるのだった。
逆に言えば、叔母からもらった着物などは、少し派手な明るい色の帯でアンチエイジングをはかる、というふうに、
とりあわせや、着物の着方で、ある程度の年齢の幅を着る、その区切りの幅がとりあえず「十年」なのではないかと思う。
着物は「懐かしい未来」のような気がしている。
帯も、これからの体の負担を考えて、作り帯にちょくちょく仕立てをお願いしている。
手がまわせなくなると、帯が結べないようになるので、帯がすぐ結べると本当にストレスが減るのを
実感したからだ。
これから若い人には、気楽に着られるように思い切って帯を作り帯にすることをお勧めしたい。
それか、格調のある細帯もある。
普通に前でリボン結びを浴衣の感覚でしめて、後ろに回せば完了。
お太鼓ができなくとも、若い人には「お太鼓」は逆におばさんくさいのでよろしいかと思う。
ただ、無料の着付け教室は、必ず「買わせる」のでご用心。
着物の出会いは、祖母と母の影響が大きかった。
まだ幼いころ、隠居部屋の和室で祖母が着物を仕立てていた。
祖母は仕事は遅いが、とても丁寧だということで、ひいきにするお客さんがいたらしいのである。
まだ、アルバイトや、内職、などという言葉を知らなかったので、
おばあちゃんが、こんなに年とっても仕事なんて、うちは貧乏なのだ、と単純に思っていた。
毎日、十円のパンでどれだけすごせるのだろうか?こんなことも真剣に考えていたことを
思い出す。昔から、ほんとうに筋金入りの「心配性」だったのだと思う。
初めて着物らしきものをきたのは、幼稚園の盆踊りの浴衣だった。
たぶんゆかたは母が生地を買ってきて縫ってくれたのだとおもう。
浴衣に向く生地がたくさんとってあり、子供はすぐ大きくなるので、浴衣の生地は形をかえて、甚兵衛
やシンプルな普段着のワンピースなどにもさりげなく使いまわされていた記憶がある。
小学生になって、着物通でしられた幸田文さんの本にはまり、たくさん出てくる着物の描写が
面白く、母を質問攻めにして困らせた記憶がある。
幸田先生の時代の着物は、そのころはすたれてしまい、母もあまり目にしないようなものだったので
「ごめんねえ。おかあさんもみたことはあまりないから」
ばつの悪そうに謝る母に、これ以上聞いても
「そんなことより、幸田さんのが好きなら、少しはきちんと
なさい。着物の前に家事でしょうが!」こう言われるに決まっていた。
ネットなどないので
百貨店から来る「着物セール」のちらしやら、テレビの演歌歌手の着物やら
後は、母の着物の手入れの様子、まだまだ若いころは着物は頭の中のものでしかなかった。
初めてお正月に着物を着てみたい、と思ったのは高校生の頃だった。
寒いのでウールの着物がよかろうと、母が珍しく買ってくれた。
紺地のウールなので着せてもらうともっさりと重たくてちくちくした。
帯は気楽な細帯で後ろでリボンに結んでもらったが、しんどいものであった。
三社参りを済ますころには、「も~たくさん!」と着物をきこなすどころか、着物に負けてしまい、以後ぷっつり、それっきりその着物に袖を通すことはなかった。
母も母で、浴衣や着物の話になると、本をさしだし、これで覚えろと、必ず「自分で着なさい、」と言った。
背格好は母の着物を着るのにはちょうど良い体格でよかったのだが、着物は「着る」というより
まとう、というもので、着物(長着)をうまく着られても帯でてまどった。
手間取っていると長着がだらだらと崩れてくる。
見かねた母が、うまくいかなかったら、取り繕うより、羽織で隠せ、と教えてくれた。
羽織はコートと違い、脱がなくてもよいのでなんとかなるというのである。
そして三十歳手前で、ようやく「自分なりの着付け」でお正月に親戚に「母の晴れ着」を着ていくことができた。
先方はとても喜んでくれて、叔父が写真を記念にとってくれた。それがツレ(旦那様)への見合いの写真になったのは、面白いめぐりあわせだな、と思う。
ある本によると、十年で買った着物を見直さないといけないらしく、やはり着物本体は年をとらないものなのだと感じた。
帯のとりあわせや、帯の締める位置も微妙に変わるもので、
今までピンクにベージュや白系の帯でよかったものが、いわゆる「中年のおばさん」になると、黒のほうがしっくりくるのだった。
逆に言えば、叔母からもらった着物などは、少し派手な明るい色の帯でアンチエイジングをはかる、というふうに、
とりあわせや、着物の着方で、ある程度の年齢の幅を着る、その区切りの幅がとりあえず「十年」なのではないかと思う。
着物は「懐かしい未来」のような気がしている。
帯も、これからの体の負担を考えて、作り帯にちょくちょく仕立てをお願いしている。
手がまわせなくなると、帯が結べないようになるので、帯がすぐ結べると本当にストレスが減るのを
実感したからだ。
これから若い人には、気楽に着られるように思い切って帯を作り帯にすることをお勧めしたい。
それか、格調のある細帯もある。
普通に前でリボン結びを浴衣の感覚でしめて、後ろに回せば完了。
お太鼓ができなくとも、若い人には「お太鼓」は逆におばさんくさいのでよろしいかと思う。
ただ、無料の着付け教室は、必ず「買わせる」のでご用心。