My Life

春夏秋冬~日々の徒然や思うことを綴った倉庫です。

1970年代の情景~博多人形~

2014-10-02 13:26:20 | 想い出の箱
この頃、伝統工芸館などに行くようになって

また、「体験」なんかもするようになって、思い出す情景がある。



1970年代の情景である。

昔は、近所に「工房」がたくさんあった。博多人形師のひよっこさんの「工房」がたくさんあった。

その周辺は空き地があって、空き地のとなりに少し広い敷地がある。

その敷地にいわば「土器」みたいな素焼きのかけらや、「型」の残骸がたくさん無造作に

散らかっており、当時幼稚園くらいの私たち子供にとってはとても魅力のあるものなのだった。

もったいない「人形」もなかにはあった。


当時は「車」も通らないところだったので、夏は窓や戸は開けっ放し。

子供が工房の中に入ってきても「職人さん」は何も言わなかった。

見学しても、子供には目もくれず「土」と格闘していたり、絵付けの練習をしたりなど

ほとんど子供には話しかけない。



子供も「お仕事」なのは、知っていて、余計なことやいたずらをすることはなく、見たい子は

見学するし、飽きてくると、そっと外に出る。



ただ、危ないことだけ、簡単に教えてもらい、「失敗作」で、外でままごとなど

遊んでいいといわれていたのを覚えている。



当時は博多の家にはどこでも「博多人形」はあったので、今は天才、としのばれる「与一」先生も

一職人でしかなく、たくさんの人形師がしのぎをけずっていた時代だった。

そしてテレビでもその様子はよく紹介された。

一番の、きも、は、やはり「目」だという、人形の成形過程のテレビを鮮明に今でも覚えている。

博多人形は、型を使うので、同じものの量産は可能なのだけれど、絵付けを弟子に任せても

「目」だけは、師匠が描く、というのが一般的なのだという。

でも手書きなので、一体一体、微妙に表情は違う。ここもやはり究極は一点ものという魅力なのではないかと、思う。

近所に工房があった影響で、人形師もいいな、と幼いころは思っていた。

なので、幼いなりに真剣に親に話したことがある。


しかし親にあっさりいいくるめられた。

「土練り三年というが、土をこねるのは労力がいるものだよ。非力なお前にできっこない。

けんしょう炎になるのが落ち、だから、やめておくがいい、男でも大変な作業だよ」


たしかに、土で遊んだことがある。職人さんが、やってみるかい、と少し土を触らせてくれるのだ。

重い粘っこい土だった。へえええ、こんなの練るのは大変だなーとびっくりしたが

土の感触はぺたぺたと気持ちはよかった。


親はちゃんとそんなことも知って言っているのだ。確かにそのころは男性の人形師が大半だった

と記憶している。

たしかに母親は「陶芸」をしたくとも「土練り」がだめだとあきらめていたので、そのこともあり、

いつの間にか

町が変わるにつれ、与一先生が亡くなって、博多人形がいつのまにか「お土産品」でしかなくなりつつ

なるにつれ、そういう思いは少しずつ、思い出とともに消えていった。

昔はどこの家にも競うようにあった「博多人形」・・。

現在ははどれだけの家庭にあるのだろう。



それから、月日が経って「与一賞」という若手作家の登竜門ができて、第一回目の受賞が

女性の方だとニュースで知り、幼いころ聞いた親の話を思い出した。



現在は、女性もたくさんデビューを果たされていると聞く。

昔ののどかな情景とともに、今頑張っている女性の若手の職人の皆さんに、エールをおくりたいと

現在あらためて思っている。

忘れられないおべんとう

2013-06-16 11:00:21 | 想い出の箱
母はもともとキャリアウーマンでした。

しかし、田舎の大家族の中で育ったので、外の仕事だけでなく、家事・・たとえば料理も自然に覚えたそうです。
田植えの時期、炊き出しをまかされ、三十人分くらいいつも食事をつくっていたと
聞きました。

母は結婚して専業主婦になったので、料理はいつも手づくり。
子供に良い食事・・ということで「カップラーメン」など総菜も買ってくることはなかったです。

料理は上手い方だったと思います。

そんな母の料理の中で、忘れられないものがあります。

公立高校の受験のときのお弁当です。

午前中、全く問題がとけなくて、とても落ち込みました。
とりあえず、食事の時間になったので、お弁当をとりだしました。
そのとき、バスケットなので、あれ?と思った。
いつもはお弁当箱なので、違うな?と思いました。

でてきたのはロールパンのサンドイッチ。
中身は私が好きな具が入っていました。

いつものお弁当だと眠気が来たり、トイレにいきたくなったり、そんなことが
あったらいけないと思ったのでしょう。
だからサンドイッチにしてくれたのだと思います。

食べていると、だんだん気持ちが落ち着いてきました。

おかげで後半は、落ち着いて問題を解くことができて、めでたく合格の運びとなりました。

合格は間違いなく、母のお弁当の助けがあってのことだったと思います。
忘れられないお弁当です。

母が生きていたころ、おにぎり、の話をしていて。
どうしておにぎりは普通のご飯以上においしいのだろう?という疑問に、
母は、「にぎる、という。おそらく作っている人の気持ちやエナジーが入るのだろう」
こう話してくれました。

現在、ツレが家で仕事をしているので、たまに変化をつけておにぎりをつくるときがあります。
やっぱり、へたくそでも、ごはん以上においしい気がします。

現在、包丁のない家があるとも聞きますが、下手でもいい、少しでもいい、「込めた」
「料理のエナジー」が間違いなく家族のバリアになってくれ、守ってくれるのだと
実感しています。






使わなかった離婚届

2013-06-02 10:46:04 | 想い出の箱
父と母は他界してしまい、あの世ではどうしているのかと思う。

両親はお互いを理解できないまま、それぞれ旅立っていったからだ。

幼いころ、小学生の時、あまりにも母が父のことで文句を言うので

「離婚すればいいじゃない、私は母さんについていく」ストレートにこう言った覚えがある。

母は「働けないから、我慢するしかない・・」こんなことを言ったので
「一度離婚届を見せてみれば?改心するんじゃない?」こう母に言った。


今思うと、本当にませた子供だったと思う。

考えてみれば、大学の卒論も「離婚について」だったっけ。

それからどうしたのかといえば、なんと本当に離婚届を、母が役所からもらってきて
父に見せたというのだ・・。

少しはそれで父も柔らかくなったらしいけいけど、ちょっとびっくりもした。

弟夫婦のところに行った時、小さいころの話になって、

両親が大喧嘩して、父が出ていこうとした時があって。

まだ二歳くらいの弟は、「行かないでー」
と大泣きして、父にしがみつきなんとか回避したことがあった。

もしあの時弟がしがみつかなければ、どうなっていたか、と、
つくづく子はかすがいというが、本当だと母が述懐していたことを思い出した。

私と言えば、じーっと無言で見ていたらしい・。

(ちなみにそう突っ込みを入れたのは弟。)

弟夫婦はいまのところ両親のようではないので、良かったと思う。
もし子供が生まれても「いい両親」になるような気がしている。

父と母の繰り返されたバトルのおかげで私たち子供はどうやら無意識に、
「相手(パートナー)とのほどよいかかわり」を刷り込まれて育っていったからかもしれない。

懐かしい風景

2013-03-22 13:37:30 | 想い出の箱
私が育った風景はもう、どこにも、ない。

今放映されているドラえもんは見ていないのでわからないが、
当時はリアルタイムでコロコロコミックスに連載され、小学生だった私は
本屋で立ち読みするのが楽しみだった。
家では漫画は禁止になっていたから、好きなマンガは全て本屋で立ち読みをしていた
のである。(中学になるとそれから興味は弟が読む少年ジャンプに移っていった
けれど)
文字通り「土管のある空き地」・・
普通にどこでもあった風景はほとんど今は実家周辺では消えている。

ずっと暮らしたところは福岡の下町で、数軒先は駄菓子屋兼酒屋だった。

その辺の子供たちは、学校から帰っておなかがすくと、そこで買った駄菓子を食べながら、思い思いの遊びをしていた。

車も少なかったので、夏には夕方、普通に飛んでいる「コウモリ」を「虫取り網」で
捕える・・なんて遊びがはやっていた時代。

まだそんな風景がどこかにあればいいな、と思う。

私の一番懐かしい風景は、二歳くらいの頃の風景だ。

夕方、一時期、かならず母と散歩をしていた記憶がある。

いつもなにかと忙しそうで気が張っていたような母が、唯一優しい遠い目をする
ひとときだったと思う。

ただ、どうして散歩していたかは覚えていない。

空き地に私の数倍の丈のあるコスモスが咲きほこっていて

「お花、綺麗ね、綺麗ね、」

良く見ようと、飛び跳ねては、立ち止まってはしゃいでいた幼子だった頃。
思えば一番平和な時代だったような気がする。

実家は今は駐車場になってしまって、おまけに他の家も右にならえとばかり、マンションか駐車場にしてしまい、まるっきり、よその町になってしまった。

商店街は、パチンコ屋と居酒屋がひしめくようになってしまった。

そして犯罪。まさか、とは思ったが「脱法ハーブ」の取引をしている輩まであらわれてしまったという。

それでも頑張って長く商っているお店は、変わらない人情がある。

人恋しさに、ついでに立ち寄ったつもりでも結局気付けば「買わされていた」なんてこともあり。

やはり懐かしい風景は心の中の箪笥にたまっていくようなもののようである。