My Life

春夏秋冬~日々の徒然や思うことを綴った倉庫です。

美輪さんのこと

2017-07-31 13:38:15 | 雑記

今日もふくおかは猛暑におそわれております。

猛暑にくわえて、台風の心配もある。被災されたみなさんのことをかんがえると

心が痛みます。

さて、かなり前になりますが、美輪さんの舞台をみる機会がありました。

たしか双頭の鷲だと記憶しています。


いままで社会性にとぼしいということで、家族は心配していましたが

新聞の美輪さんの記事をよみ、福岡公演があることをしりました。


母親に話すと、みたいならまずチケットを買う必要があるが、問い合わせてごらん、

といわれ、電話するとまだ席があったので、夜、タクシーで変える条件でいくことになりました。



舞台はすばらしく、最後はスタンディングオベーションと拍手につつまれ、それから

花束を持った若い女性が、花束をもって、ひとりひとり美輪さんにわたしていました。


そのときに美輪さんが「こんなにきれいな花束ありがとうね、高かったでしょう?」

ほほえみながらそういわれて、握手をされていました。


本当に慈愛あふれるやりとりに、私は本当に感動しました


それから一年に一度くらい色々な美輪さんの舞台をみにいくようになりました

ツレとは黒蜥蜴(くろとかげ)を見に行きました。

どうかなーと思ったんですが、彼もおもしろかったねと満足したみたいで、その後は



結婚で家庭にいるので、みる機会がなかなかないのですが

社会性も問題は今はさすがにないんですが

本当に美輪さんの舞台、音楽会は、一回でいいので見る価値は十分あるとおもいます。

お年ですし、今年も音楽会をするそうなので、ぜひご覧になってみてください


かならずなにかを得ることができるとおもいます。


いじめ

2017-07-28 13:38:07 | 雑記

私ごとですが、幼稚園から大学入学までいじめをうけました。

いじめは「無視」です。

お友達をつくろうと思っても、みんなが声をかけるどころか

さけるので悲しい思いをなんどしたことかわかりません。

たまに転校生がやってきて、転校生と友達になっても、転校生はいじめっこに声をかけられ

私はまたひとりになりました。


高校では卒業アルバムに私の写真が一枚もありません。

なので両親にはみせませんでした。


いじめられていると親にそうだんすればよかったのかもしれませんが


かえって悪い結果をまねくとおもったので、家ではつとめてふつうにすごしましたが。

いじめられていることをさとられまいと、昼休みはかならず図書館にいきました。

読書の習慣がついたのもそのころです。


私たちの世代は、なんでもグループをつくって行動するのが常でしたので

遠足でもお昼には一人ぼっちになってしまうため、先生がみかねてどこかのところ(グループ)に

はいってたべていました。


普通は遠足といえば、みなさんはたのしいものとおもわれるかもしれませんが

わたしにとっては悲しく苦痛でした。遊ぶ相手もいなかったからです。


しかしなぜのりきれたかというと世の中は常に変化しており、未来がかならずくるので希望を持つようにと

そう恩師がはげましてくれたからです。


この言葉をささえに、いままでいきてこれたのです。

今はいじめられることはありませんが、


未来がある、真っ白な未来が用意されていると未来に希望をもって生きていると

かならずそのときはくるものです。


未来はないと失望して自殺を考えるひとがいるとなんとなく気付いたら

未来はある、かならず状況は変化するのだから大丈夫と、伝えてあげてください。

希望をもつようにと。








日野原先生 ありがとうございました

2017-07-18 12:32:44 | 雑記
生涯現役だった、聖路加国際病院の名誉院長(たしか)の

日野原重明先生が逝去されました。

享年105才

多々いろんな功績がおありになるなかで一番印象に残った点を書こうと思います。

平成四年

 病院の新病棟をたてるときに

一般的な病院よりも広いロビーや礼拝堂施設をつくったので


批判の声もあったなかで

、三年後の7月3日のオウム真理教の大規模テロでは、630人を受け入れるなど


そのロビーや礼拝堂が救急応急処理場となり、被害をおさえる役割を担ったのでした。



そのときにもし受け入れ先がなかったらと思うと、ぞっとします。

若い皆さんはしらないとおもうけど


また医学をこえて様々な分野で活躍された先生でもあり、著書もたくさんあります。


それで、なにかのときにはみていただきたいな、とも

母の病気の時に思ったものです。



日野原先生 おつかれさまでした。

ほんとうにありがとうございました。

毒親

2017-07-18 08:28:23 | かきもの

いつものように、夫をおくりだした、七月のある日

カレンダーに丸印をみつけ、なんのひだったか、どうしてまるをつけたか

わからなかった。

とりあえず掃除をしてからにして、いつものように子供たちを送り出し

私は手帳をとりだした。


もともと忘れっぽいので手帳にもかいてあるはずである

で、手帳をみると母の命日とかいてある

そうか。


うかつにもすっかりわすれていたので、母にはもうしわけないような気持ちになった。

昨年七回忌をしたばかりで安心したせいなのか。


ある意味毒親だった母のことを書いてくれという依頼があったのもすっかり忘れており

締め切りまで間に合うか、締め切りの日をみると三日後だった。


毒親というのは、子供を丸ごと親の支配下に置く親のことを言うのである。

いわゆる自分の思ったように親の線路をあるかせる親をいうのだが、最近多くなってきたので

書いてくれということだった。


母は私が幼稚園のころから、エリート校にはいるのだと、何回もそれが口癖だった。

本当は絵の勉強をしてみたかったのだが、それを話すと雷がおちた。


「才能もないのになにをいってるのか。食べていけないでしょう」


結局は不本意ながら、進学校にすすむことになり、大学も親のいうとおりにさせられた。


そんなときにヒットした曲が槇原敬之さんの「どんなときも」だった。


どんなときも、どんなときも、僕が僕らしくあるために、すきなことはすきといえる気持ち

だきしめてたい。どんなときもどんなときも迷い探し続ける日々が答えになることぼくは

しってるから


曲を聞いたとき、わたしだけでなく多くの若者が、同じように悩んだりしているのだろうと

おもったし、今でも支持があるのは、どんなときもそういう毒親が少なくともいるということだと

思う。

で、母の思ういいところに就職できたかといえば、就職氷河期で、当時アルバイトしかなく


結局は天が味方してくれたのか、なんとか図書館の仕事にありついて働いていた。

さすがに母も心になにかあったのだろう。


図書館の仕事にはもうなにもいわなくなり、よろこんでいたようであった。


そして数年後、結婚が決まって、夫に引き合わせると、夫の手をにぎり、「よろしくお願いします」

と泣き笑いで、はやくも、結納をしたいが、お金がかかるしどうしようか、ホテルも高いので

会食会もいいとおもうし。 

まず先方にあいさつにいきたいし、そんなことを楽しげに三人で話し



その日は無事すんで、夫もうれしそうであった。


そして一年後


体調不良で、精密検査のために入院し。

末期のがんで、骨転移もしているといわれた。



病室に、戻った母に


爆弾が爆発したように、びっくりして、おどろいて

かけることばを必死にさがしても、かけることばがなく、そんなとき

「わるいことはわかってる」


 ぽつりと母がいった。その光景はたぶん一生わすれないとおもう。


とりあえず緩和ケアに入院し、



三週間後、母は静かに永眠した。享年70


ここまで思い出した私は、仏壇にお線香をたて、祈った後、


家事をおおかたすませ、原稿を書き始めた。






災害

2017-07-09 13:24:38 | 雑記

いま、福岡や大分などで未曾有の災害がおこっていますよね。。

私の家(福岡)は九州の北部で、南部や大分県がひどかったので

難をのがれましたが



まだ七月上旬で、台風もあります。





、救援活動やボランティアで現地にはいってくださるみなさん

本当にありがとうございます。




つづることばがみつからないほど、状況は凄惨きわまりないです。

はやくおさまればいいですが。