この頃、伝統工芸館などに行くようになって
また、「体験」なんかもするようになって、思い出す情景がある。
1970年代の情景である。
昔は、近所に「工房」がたくさんあった。博多人形師のひよっこさんの「工房」がたくさんあった。
その周辺は空き地があって、空き地のとなりに少し広い敷地がある。
その敷地にいわば「土器」みたいな素焼きのかけらや、「型」の残骸がたくさん無造作に
散らかっており、当時幼稚園くらいの私たち子供にとってはとても魅力のあるものなのだった。
もったいない「人形」もなかにはあった。
当時は「車」も通らないところだったので、夏は窓や戸は開けっ放し。
子供が工房の中に入ってきても「職人さん」は何も言わなかった。
見学しても、子供には目もくれず「土」と格闘していたり、絵付けの練習をしたりなど
ほとんど子供には話しかけない。
子供も「お仕事」なのは、知っていて、余計なことやいたずらをすることはなく、見たい子は
見学するし、飽きてくると、そっと外に出る。
ただ、危ないことだけ、簡単に教えてもらい、「失敗作」で、外でままごとなど
遊んでいいといわれていたのを覚えている。
当時は博多の家にはどこでも「博多人形」はあったので、今は天才、としのばれる「与一」先生も
一職人でしかなく、たくさんの人形師がしのぎをけずっていた時代だった。
そしてテレビでもその様子はよく紹介された。
一番の、きも、は、やはり「目」だという、人形の成形過程のテレビを鮮明に今でも覚えている。
博多人形は、型を使うので、同じものの量産は可能なのだけれど、絵付けを弟子に任せても
「目」だけは、師匠が描く、というのが一般的なのだという。
でも手書きなので、一体一体、微妙に表情は違う。ここもやはり究極は一点ものという魅力なのではないかと、思う。
近所に工房があった影響で、人形師もいいな、と幼いころは思っていた。
なので、幼いなりに真剣に親に話したことがある。
しかし親にあっさりいいくるめられた。
「土練り三年というが、土をこねるのは労力がいるものだよ。非力なお前にできっこない。
けんしょう炎になるのが落ち、だから、やめておくがいい、男でも大変な作業だよ」
たしかに、土で遊んだことがある。職人さんが、やってみるかい、と少し土を触らせてくれるのだ。
重い粘っこい土だった。へえええ、こんなの練るのは大変だなーとびっくりしたが
土の感触はぺたぺたと気持ちはよかった。
親はちゃんとそんなことも知って言っているのだ。確かにそのころは男性の人形師が大半だった
と記憶している。
たしかに母親は「陶芸」をしたくとも「土練り」がだめだとあきらめていたので、そのこともあり、
いつの間にか
町が変わるにつれ、与一先生が亡くなって、博多人形がいつのまにか「お土産品」でしかなくなりつつ
なるにつれ、そういう思いは少しずつ、思い出とともに消えていった。
昔はどこの家にも競うようにあった「博多人形」・・。
現在ははどれだけの家庭にあるのだろう。
それから、月日が経って「与一賞」という若手作家の登竜門ができて、第一回目の受賞が
女性の方だとニュースで知り、幼いころ聞いた親の話を思い出した。
現在は、女性もたくさんデビューを果たされていると聞く。
昔ののどかな情景とともに、今頑張っている女性の若手の職人の皆さんに、エールをおくりたいと
現在あらためて思っている。
また、「体験」なんかもするようになって、思い出す情景がある。
1970年代の情景である。
昔は、近所に「工房」がたくさんあった。博多人形師のひよっこさんの「工房」がたくさんあった。
その周辺は空き地があって、空き地のとなりに少し広い敷地がある。
その敷地にいわば「土器」みたいな素焼きのかけらや、「型」の残骸がたくさん無造作に
散らかっており、当時幼稚園くらいの私たち子供にとってはとても魅力のあるものなのだった。
もったいない「人形」もなかにはあった。
当時は「車」も通らないところだったので、夏は窓や戸は開けっ放し。
子供が工房の中に入ってきても「職人さん」は何も言わなかった。
見学しても、子供には目もくれず「土」と格闘していたり、絵付けの練習をしたりなど
ほとんど子供には話しかけない。
子供も「お仕事」なのは、知っていて、余計なことやいたずらをすることはなく、見たい子は
見学するし、飽きてくると、そっと外に出る。
ただ、危ないことだけ、簡単に教えてもらい、「失敗作」で、外でままごとなど
遊んでいいといわれていたのを覚えている。
当時は博多の家にはどこでも「博多人形」はあったので、今は天才、としのばれる「与一」先生も
一職人でしかなく、たくさんの人形師がしのぎをけずっていた時代だった。
そしてテレビでもその様子はよく紹介された。
一番の、きも、は、やはり「目」だという、人形の成形過程のテレビを鮮明に今でも覚えている。
博多人形は、型を使うので、同じものの量産は可能なのだけれど、絵付けを弟子に任せても
「目」だけは、師匠が描く、というのが一般的なのだという。
でも手書きなので、一体一体、微妙に表情は違う。ここもやはり究極は一点ものという魅力なのではないかと、思う。
近所に工房があった影響で、人形師もいいな、と幼いころは思っていた。
なので、幼いなりに真剣に親に話したことがある。
しかし親にあっさりいいくるめられた。
「土練り三年というが、土をこねるのは労力がいるものだよ。非力なお前にできっこない。
けんしょう炎になるのが落ち、だから、やめておくがいい、男でも大変な作業だよ」
たしかに、土で遊んだことがある。職人さんが、やってみるかい、と少し土を触らせてくれるのだ。
重い粘っこい土だった。へえええ、こんなの練るのは大変だなーとびっくりしたが
土の感触はぺたぺたと気持ちはよかった。
親はちゃんとそんなことも知って言っているのだ。確かにそのころは男性の人形師が大半だった
と記憶している。
たしかに母親は「陶芸」をしたくとも「土練り」がだめだとあきらめていたので、そのこともあり、
いつの間にか
町が変わるにつれ、与一先生が亡くなって、博多人形がいつのまにか「お土産品」でしかなくなりつつ
なるにつれ、そういう思いは少しずつ、思い出とともに消えていった。
昔はどこの家にも競うようにあった「博多人形」・・。
現在ははどれだけの家庭にあるのだろう。
それから、月日が経って「与一賞」という若手作家の登竜門ができて、第一回目の受賞が
女性の方だとニュースで知り、幼いころ聞いた親の話を思い出した。
現在は、女性もたくさんデビューを果たされていると聞く。
昔ののどかな情景とともに、今頑張っている女性の若手の職人の皆さんに、エールをおくりたいと
現在あらためて思っている。