OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

やっぱり家光って……

2023-04-17 | 江戸時代
みなさま ごきげんよう。
最近、『自称小説家』に進化したゴマちゃんどぇ~す。
(マックのセットも買えないくらいの報酬だけど、いちおう対価をいただいているので、そう名乗ってもいいよね?)


はてさて、目下、無言のプレッシャーに背中をド突かれつつ、例のアレを執筆しているわけですが、いま書いているのが浅井江 ―― 2代将軍秀忠正室お江の最期。
(昨日の大河で画面をチョロチョロしていた赤ん坊が、たぶんソレでしょう)



お江さんの死については、どうもキナ臭い背景がありそうなのですが、今回そこはスルーして、大御台(お江)死後の家光の「ちょっとどうなん!?」な行動について触れてみたいと思います。

(とりあえずベタなこの曲で)

浅井江が亡くなったのは、寛永3年9月15日のこと。

このとき、夫・秀忠、将軍・家光、次男・忠長は京都に出張中でした。

9月11日、滞在先の京都に、江戸から「大御台 不例(お江さん、マジヤバいっす)」の急使が到着し、このとき立場的に比較的動ける忠長が、とりあえず帰府(江戸に帰ること)することになりました。

忠長は徒歩だと10日くらいかかる行程をわずか4日ほどで急行し、15日、なんとか江戸に到着しましたが、残念ながらその2時間ほど前にママンは旅立っていたのです。

秀忠と家光は、まだ京都でこなさなければならない行事等があったため、京都を出発できるのが10月初旬ころになる予定でした。
一方、葬儀は10月18~28日に行われることになったので、忠長が喪主を務めたのです。

ところが、どういうわけか、京都での用事が早めに片づき、家光は葬儀の前に江戸に戻ってきました。

しかーし!

葬儀は江戸城から目と鼻の先の芝増上寺で行われたにもかかわらず(ただし、荼毘所は麻布)、家光は葬儀に出なかったのです!


当然、常識アザラシのゴマちゃんは、「肉親の葬式を欠席しただと? なんでやねん!?」でモンモンとしはじめ、しかたなく調べてみたのです

するってーと、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(著:浦井正明氏、吉川弘文館)(☜ 家定の葬儀について調べたくて、以前買っていたラッキー)に、家綱の葬儀のとき、次の将軍である綱吉も、御三家の当主も、葬儀・法要に一切タッチせず、すべて臣下である老中などが執行し、綱吉たちは葬儀に参列すらしなかったと書いてあったのです。

綱ちゃんたちが法要に出たのは中陰(四十九日)以降で、これは天皇家のやりかたに倣ったもので、ようするに『死のケガレ』が貴人たちにつかないようにするためだったとか。

「あら? だったら家光くん、まちがってなくない?」

と、思われるでしょうが……ところがどっこい!

この本には、「徳川歴代将軍の葬儀や霊廟を考える場合、家光以前のそれらはいずれも過渡的なものと位置づけすべき」とも書かれているのです。

つまり、「お江さんのときは、そうじゃなかったかも」疑惑です。

そこで、ゴマは、チョッピリしかない脳みそと眼精疲労でショボつくまなこで裏付け資料を探した結果……ありました!


『増上寺と江戸幕府』(吉水成正氏)という論文に、
「将軍家光および大御所秀忠は、この法要(お江の葬儀)へは参加していない」
「母祟源院殿の葬儀には参列しなかった家光が、増上寺祟源院殿霊牌所へ初めて参詣したのは寛永5年9月10日である」

なんと、あのホモヤロー家光は、三回忌法要のとき ―― 死んでから2年経ってようやく参詣に行ったというのです!


……いや、まてまて。キレるのは尚早じゃ。親父のときはどうなのか見てから、キレるかどうか考えようじゃないか。


ということで、つづきを読んでみると……あいつめー(怒)!


秀忠は、寛永9年1月24日に亡くなり、翌25日に遺体が増上寺に移されて簡単な葬礼が行われ、本格的な法要は2月15~28日、14日間にわたって執行されたようです。

家光は、早くも2月3日に御三家当主(尾張義直・紀州頼宣・水戸頼房)らといっしょに増上寺に行き、法要にも15日・24日・28日、3回参列しています。


ようするに、

「将軍&親族に死のケガレがつくから、葬儀法要への参列ウンヌンな慣例は、お江のころにはまだなかった!」
(根拠:徳川姓の忠長が喪主をしている。秀忠のときは何度も法要に参列している)

「絶対おふくろがキライだったから、バックレたんや!!」

―― と、ゴマは勝手に結論づけて、いままで以上に家光がキライになったのでした。



 ※ ※ ※ ※ ※ 追記 ※ ※ ※ ※ ※


さっき(4/18 夜)気づいたんですけど、この記事を投稿した4/17って、ヤッさん(家康)の命日じゃないですか!

なんという偶然 
(じぇんじぇん意図してませんでした)


そして、本日のゴマは、もどき小説の次話 ―― 『忠長、柳生十兵衛にボコされるの巻』を書くために、親父の黄ばんだ本(山岡荘八著『春の坂道』1~3)を引っ張りだしたところでございます。

うぅっ、目が痛いよぉ~

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