はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

生まれ出(いず)る心に 5

2018年07月15日 09時34分55秒 | 生まれ出る心に
景の案内で中に入ると、さらに意外なことに、そこはまったく普通の、明るく清潔で健全な精神の気配がある家であった。表の陰惨な光景との差が激しい。
こほん、こほんと咳をする、弱弱しい女の気配がある。女と知れるのは、その咳のやわらかさゆえである。
景は、しばしお待ちを、と言って、正面からすぐにらせん状に二階にあがる階段を、やはりこれも規則正しく、たんたん、と上っていくと、奥まった部屋に入っていく。
妻女が? 
宦官でも妻は持てようが、とあれこれ奇妙な想像を働かせながら待っていると、景が、ふたたび顔を出した。
「母でございます」
景に母親がいた、ということを、偉度は、これまた初めて知り、やはり驚いた。室内の、古びた、元妓楼という淫靡な雰囲気のあるなかにも、それにも勝る清浄さがこの家にあるのは、景の母とやらが、家をきちんと仕切っているからなのだろう。景が劉備とさほど変わらない年頃だということを考えれば、おそらくかなりの高齢であるにはちがいないが。

家屋は、簡素ながらも、趣味がよかった。
仰々しく、高価なものをごてごてと見せびらかせる豪華さ、というものがあるが、それとは対称的に、静かな空間に、計算されて、よい物がぽつんと目を引くように置かれている、というふうだ。
二人は、元妓楼の、凝った家屋のつくりに感心しつつ、客間に通された。
景は手早く茶を用意して、ふたりのために淹れてくる。
思わぬ、茶、という最上のもてなしに、さすがの偉度も恐縮しつつ、景に、さっそく用件を切り出した。
「押し込み強盗の件であるが、こちらでは何か噂になっておらぬか」
「近々、いらっしゃるのではと、思うておりました」
「おまえの口ぶりからすれば、遅いくらいであった、というわけかな」
間近で見る景の顔は、男とも女ともつかぬ、あいまいな柔和さを持っている。
孔明もやはり、男女の境が曖昧な顔を持っているが、あちらは鋭角的で冴え冴えとした清浄さがあるのにくらべ、こちらは、柔和で曲線的であるが、どこか影がある。
「いいえ、こちらがそろそろ、偉度様のところへお伺いせねばと。遅くなって申し訳ございませぬ。母の容態が、このところ思わしくないもので、なかなか家を空けることができなかったのでございます」
「おっかさんは、肺を病んでらっしゃるのかい」
と、劉備が目を細めて尋ねると、景は寂しそうに、もう歳でございますから、と言った。
「ところで強盗の件、自分がやったのだと吹聴する者がおりまして」
やはり、と劉備と偉度は顔をあわせた。
さすが年の功、劉備の読みはぴたりと当たったわけである。
「前々から、評判の悪い男でございます。まあ、このあたりをうろつく者に、まともな者はおりませぬが、あれは、特に折り紙つきでございます」
「どのように」
「妓女を、ふつうに扱うことが嫌なのでございますよ。さきほど、阿片を買うための金をもとめて、立っている女たちがいたでしょう。あの中から、見栄えのよい者を選んで、声をかけるでもなし、肩を叩くでもなし、いきなり連れ出して、値段を交渉することなしに、人気のない道端、あるいは廃屋に連れ込んで、いきなりことに及ぶのでございます」
「そいつぁ、女もたまらねぇな。怖えぇだろうし、痛ぇだろうに」
「女が痛がったり、悲鳴をあげたりするのを聞くのが、楽しい、という男なのでございますよ。女が抵抗すれば、容赦なく殴りつけます。
そのような趣味がありますので、すっかり有名になってしまいまして、表の妓楼はもちろんのこと、この界隈でも、その男が顔を出しただけで、店に足を入れるのを断るくらいなのでございます。
しかし、阿片のために体を売る女は、たとえ痛い目に遭わされても、とりあえず、金払いはよいので、男を拒みませぬ。しかし、その男」
と、ここで景は言葉を切り、肩を揺らして、気味悪く笑った。
こうして声を殺して笑う癖は、あてにはならぬが噂によれば、洛陽でついたものなのだそうだが。
「生意気にも、たいへんな面食いなのでございますよ。ですから、見栄えの悪い女には見向きもいたしませぬ。まあ、阿片のために身を持ち崩した女というのは、そもそも、わけのわからぬことを口走るもの。それゆえ、噂が広がるのが遅かったのでございます。おそらく、これは嘘であろう、とそう思われてしまったのです」
「ふむ、女たちのことばを、なぜにみな、信じるようになった」
「押し込み強盗の噂はあるのに、どこのだれが被害にあったのか、誰も知りませぬ。それなのに、その男は、どこそこの家の女をやっつけてやった、と、具体的に口にいたします。
あまりに詳しすぎますので、わたくしめが調べましたところ、たしかに、男の言ったとおり、なにかその家は様子がおかしい。縁談が決まっていた娘が、突如として浮屠教に入信してしまったり、あるいは、理由もなく自害したり」
「それだ!」
偉度は思わず腰を浮かせて、劉備を見る。
「間違いございませぬ。その男、いますぐ捕らえましょう。今宵も、どこかの家に忍び入っているやもしれませぬ。いいえ、この界隈をうろついているかも」
おう、と意気込み、うなずく劉備と、さっそく、と席を立とうとする偉度に、景はおだやかに手で二人を制した。
「お待ちを。それだけであれば、わたくしとて、すぐさま偉度様にご報告申し上げました。問題がございます」
「うむ?」
「その男の身元は、判っております。その気になれば、いますぐにでも捕縛は可能でございましょう」
「まことか」
景はこくりと頷くが、劉備と、それから偉度を、なにか試すようにして交互に見る。
その視線にぴんときたのか、劉備が口を開いた。
「その野郎、金払いがいい、と言ったな。もしや、士大夫なのではないかい」
「さすが左将軍さま。しかし、もっと悪い。漢嘉太守の黄元のご子息で、名を淵というお方が、賊の正体でございます」
「なんだと?」
「正嫡ではございませぬ。妾腹なのでございますが、正妻にずいぶんつらく当たられて育てられたのを、父の黄元さまが不憫に思い、できうる限りのわがままを尽くさせたそうでございます。ところが、その結果が、とんでもない暴虐の徒になってしまったのですよ」
偉度は、思わず机に座りなおし、景の淹れた茶を一気にすすり、ため息をついた。
「黄元か…成都の黄家は、軍師と仲が悪い。黄元は、揚武将軍と軍師の両方に賄賂を送りつけ、軍師には不潔の徒と蔑まれ、揚武将軍には、軍師と両天秤をかける不届き者といわれ、どちらにも嫌われておる男でございます」
「ああ、知っているよ。なんだか手前勝手な面をした男だろう。あんまり気に入らなかったのだが、黄家がうるさくなるといけねぇので、特に問題のなさそうな漢嘉の太守に据えたのだが」
「黄家の者に手を出せば、おそらく何らかの形で、旧来の豪族どもが反抗して参りましょう。これを抑えるには、法揚武将軍にお話をせねばなりませぬ。となると、やはり女たちのことを、公にしなければならなくなりまする」
「でなけりゃ孔明か? しかし益州の豪族を押さえつける役は、やっぱり法正だろう。となると、四角四面なあいつのことだ、豪族の名誉優先で、女たちのことを民草にばらしてしまうだろう。ああ、八方塞だな。その黄元の息子とかいうのは、ちゃんとそういうのも、弁(わきま)えているにちがいねぇや。忌々しい」
たしかに忌々しいことはまちがいなかったが、巴蜀の主たる劉備、細作の若き長・胡偉度、元宦官の景の三人で、ああでもない、こうでもないと相談したところで、よい知恵が浮かぶわけもなく、結局、その夜は、なにもできないままとなってしまった。


忸怩たる想いを抱えたまま、それでも喧騒の日々は過ぎていく。
ちょうど左将軍府の仕事が増えたこともあり、偉度は蕭花と、卑劣な盗賊について、考えずによくなった。
考えずによくなったところで、安堵していたわけではないし、偉度は面倒を忌避したかったのではない。
想いをかけた娘、というほどのつながりもなく、不正も変わらず世にはびこり、いつもどこかでだれかが泣いている。『よくある話』であった。
それなのに、偉度の胸の中に、火傷のようにじわりと、にじむような痛みがある。それが、ふとした瞬間に…たとえばものを書き付けるときに、薛の納めた筆などをふと見て、蕭花の、恥じらいの笑みを思い出し、おもわず手を止める。そんな類いの、静かな、それでいて決して消えない痛みである。

とはいえ、よい知恵は浮かばない。

よほど孔明に相談しようと迷ったのだが、やはり劉備の、公にしてしまえば、女たちが哀れに過ぎる、という言葉にためらって、口を開くことができなかった。
薛は、蕭花が死んでから、しばらく左将軍府に顔を出さないでいたが、喪が明けて、ようやくあらわれた。
偉度が意外に思ったのは、その表情が、ずいぶん、さっぱりしているふうに見えたことである。
明るさはない。
しかし、なんらかの決意をかためた、いさぎよさが、薛の、白髪の増えた姿にあらわれていた。
商人仲間は、蕭花の死の原因を知らないから、あえて口をつぐんで、ふつうにお悔やみを述べて、あたりさわりのないところで薛に接している。みなは蕭花には、誰にも言えないことがあったのだろうと察し、父の薛に深くは聞こうとしなかった。
しかも、薛が、むしろ周囲に気を遣って、笑みさえみせるので、気の利いた言葉を言うのになれた者も、かえって何も言えなくなってしまう。

偉度は、なにもいわず薛の様子を見ていたが、蕭花のときと同様に、なにか奇妙な直感がはたらいて、薛が左将軍府を辞し、出て行ってからも、こっそりとあとをつけた。
薛は、左将軍府にいたときは、しゃんと背筋を伸ばして、しっかりとした足取りで歩を進めていたが、ひとたび、知り合いのいない大路に出ると、しょんぼりと背中を丸め、足取りもよろよろと、危なっかしい。
手にした荷物も重そうに、ぶらりと片手にぶら提げている。
薛が川べりの道を歩き始めたとき、偉度はもしや、と思い、距離を詰めてあとをつけたのだが、ほっとしたことに、薛は、一度だけちらりと川のほうを見たものの、飛び込もうとはしなかった。

このまま、ちゃんと家に帰るのだろうか。
そして、薛の屋敷にほど近い路地に入ったときである。
家の垣根に芙蓉の花の咲き乱れ、軒先の洗濯物がひらひらと風に泳いでいる。
子供たちが遊んでいる楽しそうな声が、路地の奥のほうから聞こえてきた。
風になぶられて後れ毛が視界を邪魔する。それをかきあげた瞬間、偉度はどきりとした。
薛の姿がない。
見失ったのか? 
あわてて飛び出し、狭い路地の、家々の連なる付近を見回す。すると、軒先に野菊の咲く家から曲がった先にあるちいさな袋小路に、薛はいた。
若い男がその肩を、つよく揺さぶっている。
まさか、あれが賊か?
偉度は身構え、隠し持っていた得物を取り出そうとしたが、様子がおかしい。
若い男は、地味ながらも、こざっぱりとした印象の、いかにも実直そうな、誠実そうな男であった。
それが、必死の形相になって、薛の両肩を揺さぶるようにして、言っている。
「お教えください、養父上、蕭花に、いったい何があったというのですか? 最後に会った時は、死ぬ素振りなんてどこにもなかった。婚儀の支度も順調であったでしょう。わたくしになにかしら落ち度があったというのなら、どうぞお教え下さい。そうではない、というのならば、なにがあった、というのです!」

つづく……


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