はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

生まれ出(いず)る心に 4

2018年07月14日 10時45分05秒 | 生まれ出る心に
この声。
偉度は、刃は突きつけたまま、すばやく顎を持つ手を離し、ぐいっと男の顔だけをこちらに向かせた。
ぐき、と男の首が嫌な音をたてて軋んだが、頓着しない。
「痛え! 鞭打ちになったぞ、絶対に!」
「主公? なにをされておいでですか!」
偉度は、刃を突きつけたのとおなじ速さで、素早く短刀をしまいこみ、そうして、今日は、悪趣味な赤頭巾をかぶっていない劉備の真正面に立った。だが、拝跪はしない。
こんな路地で、こんな状態の家でウロウロしている、このひとが悪いのだ。
主公だろうとしるものか。
そうして、ふてぶてしくしていられるのが、偉度という青年であった。

劉備は、といえば、イテェ、イテェ、と言いながら、妙な具合にひねった首をさすっている。
「孫の悪戯です。笑って許してください」
「おまえなぁ…まったく、孔明の苦労が偲ばれるというか、あいつはやっぱりすごいというか…しかし偉度よ、おまえが薛家にいるということは、例の姑娘のことか」
「主公のお耳には、なぜに入ったのでございますか」
「そりゃあ、おまえ、左将軍府の出入りの商人ってのは、宮城と同じやつもいるからな。そいつらが、まあ、あの美人が川に身を投げた、って話をしているじゃねぇか。それで、おどろいて来て見たのだよ。ちゃんと、おまえの言うとおり、赤頭巾だって脱いできったって言うのに、これかい」
偉度は、ちらりと、劉備の長い特徴的な手足を見た。
蜘蛛のような…なるほど、あの賄い女、素朴な顔をしてはいたけれど、詩人だな。
「しかし、途中でよく、だれにも見咎められませんでしたな」
「そりゃおまえ、ここに来るまでは、赤頭巾でいたからよ」
「左様で…」
劉備は腕をぐるりと回し、それから偉度をしっかりと見据えた。
「なにか判ったらしいな」

軍師は、この方には、人の心が透けて見えるのだよ、とおっしゃっていたが、本当だな、といささか薄気味悪く思いつつ、偉度は、賄い女から聞いた話を劉備に包み隠さず、すべて話した。
話しているうちにも、ふつふつと怒りが沸いてくる。
声が震えなかったり、狼藉者に対する、乱暴な言葉がでてこなかったりするのは、やはり偉度の偉度たる所以である。
すべてを聞き終わったあと、劉備は路地の隅に座り込み、深い深いため息をついた。
「ひでぇ話だな。でもって、腸ン中が、煮えくり返りそうな話だぜ」
「おそらく、ほかに被害に遭った家には、すべて妙齢の娘がいるはずでございます。主公の気にかけておられた女官も同様に。
賊に押し込みをされたうえに、娘を辱められたとあっては、家人がみな、世間の目をおそれて沈黙するのもわかり申す。被害に遭ったと声をあげれば、生涯にわたり、傷物になった女と蔑まされる。
しかも縁談が決まっていた娘となれば、夢も希望もなくしてしまったのでございましょう」
「賊…か。そいつ、狙いは女で、金品なんかじゃねぇんだな」
「多少はほかのものも盗みはするでしょうが、おそらく本来の目的は女かと」
劉備は深いため息をついたあと、じっと地面を見つめたまま、言った。
「偉度よ」
「なんでございましょう」
「儂は、ここにくるまで、いいことばっかりやってきたわけじゃねぇ。中には、とてもじゃねぇが、お天道さまに顔向けできないようなことまでやったこともある。でもよ、たったひとつだけ胸を張っていられるのは、女子供にだけは、どんなときだって、絶対に手を出さなかったってことだ。
俺たちは、武器をもつ野郎どもだけを相手に戦ってきた。戦う理由だって、女を掠め取ったり、子供を殺してまで金品を奪ったりするためじゃねぇ。
張飛が、夏侯氏のトコから今の嫁を攫ってきたときだって、いくら一目ぼれしたからって、誘拐は誘拐じゃねぇか。わしは、あいつが血の小便を垂らすほど、殴りつけてやったくらいなのだ。女に無理強いさせる男なんてな、その場で宮刑にしてやっても足りねぇくらいだぜ」
偉度は、不意に泣きたくなっている自分に気付いた。
おなじことを言ってくれる人が、『村』にいたら、と思ったのである。
よわよわしい感情に流されそうになる己をぐっとこらえ、偉度は怒りをじっと抑えている劉備に言った。
「これは、成都太守たる法孝直さまか、軍師将軍の管轄の話かと。お二人のどちらかに、相談されるべきでございます」
「いいや」
劉備はすぐに、きっぱりと偉度の言葉を否定した。
「ダメだ。被害を受けた家は、みんな、コトが公になることを恐れて、沈黙をしているのだ。コトを公にして、だれが一体、得をするってんだ? だれも得なんかしやしねぇ。いまだって、娘なり、女房なりの恥が、どこからか漏れるのじゃねぇかと、びくびくしている者たちがいっぱいいるのだ。わしは、この地の主として、そんなことを許すわけにはいかねぇよ」
「しかし、それでは法が」
「偉度」
劉備は、顔を上げると、厳しく偉度を見据えた。
「本音で話そうぜ。法だのなんだのというのなら、なんだっておまえは、わしにさっき、刃を向けてきた。わしがちょいとでも抵抗したら、おまえはわしを殺すつもりであっただろう。それは法か」
偉度は返事に詰まりつつ、首を振った。
「いいえ」
「被害を受けた人間は、沈黙を守っている。なのに、噂があちこちに流れている、ということは、その盗賊の大馬鹿野郎は、てめぇのやったことを、誰かに自慢したくて、自慢したくて、仕方のねぇ野郎なのさ。そういうふざけた野郎が、粋がってそうな場所は、どこだと思う?」
「妓楼か……賭場か、闇市でございましょうか」
「蛇の道は蛇、ってものだ。妓楼のいちばん多い場所…長星橋へ行くぜ」





長星橋の賑わいのなか、偉度は迷わず裏路地に入ると、入り組んだ、あまり人気のない界隈の、さらにまた、支流のように、うねうねとつづく路地に入っていく。
そこは、いわゆる特殊な妓楼がならぶ界隈でもあった。
ふつうの妓女では満足できない客を相手にする店があったり、あるいは、表立って商売をすることのできない女ばかりが、集っている店であったり、あるいは、表通りでは旬が過ぎ、うれなくなった妓女たちが集められている店もある。
いわゆる孔明や董幼宰の、もっとも嫌うところの、どんな時代の都市にも、必ず存在する『必要悪』をあつめた界隈が、このあたりなのである。

一度、あれで、あんがい潔癖な揚武将軍が、このあたりを徹底的に取り締まろうといったことがあった。
それを聞き、偉度は孔明に、言ったものである。
撲滅や排除などしてしまえば、かえって彼らは、その姿を闇の奥に隠してしまう。いまの、そこにあり、おぼろげに見える程度の距離に置いておくことが、いちばんなのだ。
見えなくなった彼らは、いつしかあなたも知っている、『壷中』のように変貌してしまうかもしれませんよ、と。
孔明は偉度のことばに従い、揚武将軍と話し合って、この界隈の取締りを徹底的に、ではなく、営業時間などをきびしくする程度に留めようと決めた。
孔明が、そのとき偉度をどう思ったか、偉度は考えていない。
考えたくなかったから、切り捨てた。
『必要悪』こそが、自分の故郷なのだ。好むと、好まざるとにかかわらず。

先立って連絡をしていたせいか、呼び出しの相手は、偉度たちがやってくると同時に、てっ、てっ、と規則正しい足音をさせて、背中をまるめてやってきた。この界隈でも情報通の男である。
前身は、漢王室につかえた宦官であったとかいう噂だが、本人はなにも語らない。ただ、偉度は、この小太りの中年男の胸と背中に、ひどい切り傷があるのだけは知っていた。
名前を景という。
「偉度さま、お久しゅうございます。そして」
と、景は、暗い路地のなか、皇帝にするように、丁寧な礼を劉備にした。
どこからか、脂臭い料理のかおりと、か細い女の歌声、筝の音が流れてくる。
劉備は、長星橋に行くのなら、これだ、といって、偉度がさんざん嫌がっても聞かず、例の赤頭巾をふたたびかぶっていた。
なので、いささかうろたえて、畏まる景に言う。
「おまえさん、わしを誰かと勘違いしてないか」
すると景は、くぐもった声で、肩を揺らして笑った。
「ご冗談を。その長い手足、星のように輝く双眸、たとえそのような珍妙な頭巾でお顔を隠していらしても判り申す、あなたさまは、劉左将軍さま。景は、ひとたび見た者の顔と名は、決してわすれませぬ」
「そうかい、そりゃあ、たいした特技だな。で、景よ、さっそくわしたちに教えて欲しいことがあるのだが」
「なんなりと。しかし、ここで立ち話もなんでしょう。偉度さま、主公をこのあたりの店にお連れするのは、心苦しい。ろくなおもてなしはできませぬが、我が家へいらしてくださいまし」
甲高い声で言う、元宦官という男のことばに、偉度はいささかびっくりした。
景は、決して自分の内側を人に覗かせようとしない男である。
偉度は、景がどこに住んでいるのか、一人なのか、家族がいるのか、それすら知らなかった。

こちらへ、と言いながら、景は、軽やかな足取りで、蛇のようにうねっている路地を進む。
それについて行きながら、途中、雨のように降ってくる、どこかの店の哄笑にぎょっとしつつ、偉度と劉備は道を行った。
やがて、まるで岩のように人々がうずくまって、動かなくなっている広場に突き当った。
広場、というよりは、広場であった、というべきであろう。
あきらかに、阿片の類いで心を壊された者たちが、寄る辺なく、場末中の場末たる場所からも見捨てられ、そこに集っているところであった。
さすがの偉度も、ここまで深部に入り込むのは、はじめてであったから、うつろな目をした者たち、うずくまり、ぶつぶつと何事かをつぶやいたり、意味もなく地面や壁を叩いたりしている人々を、避けて進んだ。

だれとも目を合わせることができない。
単純に、気味が悪かったからではない。
だれか、見知った顔を見つけてしまうのが恐ろしかったのだ。
孔明の元に残った『兄弟たち』は、みな結束が固かったから、問題なかったが、残らないと決めた者、あるいは故郷を目指した者の、その後の消息は知らない。
実は、孔明はかれらに、気持ちはわかるが、すこし時間をおいて、仲間たちと共に普通の生活に慣れてから、故郷に帰れと説得をした。
しかし、父母を恋しく思う気持ちには、どんな言葉も勝つことができなかった。
だが、孔明が心配したとおり、かれらが、すぐに普通の生活に適応できたかどうか…この中に、だれかの顔を見つけてしまったら、どうしたらよいのだ。
もう、ここまで流れ着いてしまった人間は、すっかり闇と同化してしまっている。陽の当たる場所には戻せない。

不意に、背中を、ばん、と強く叩かれた。
脇を見ると、背中を叩いたまま、自分の肩を抱き寄せるようにしている赤頭巾が、強い口調で言った。
「しっかりしろい。これだって、この世の有り様なのだぜ。わしたちは、こういう場所をほんのすこしでも、そしてここに来るやつを一人でも減らすのを目指しているのだ。結果ばかり見て嘆くな!」
「申し訳ございませぬ」
素直に、謝罪の言葉がでた。
と、同時に、肩を掴んでくるその大きな手が、優しく頼もしく思えた。
「お二方、ご不快をお許しくださいませ。もうすこしの辛抱でございます」
景はそう言って、広場の奥にある、石畳の階段をたんたん、と上っていく。
古びた建物、崩れかけた廃屋が並ぶ一角であるが、以前は、成都において、このあたりこそが繁華街の中心であったことが知れる。
かなり昔の話ではあろうが。
階段を登りきると、意外に清潔な構えの、元は妓楼であったものとおぼしき家に突き当たった。

つづく……


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