※
実のところ、偉度は気絶などしなかった。
たった一度だけ拳を叩きつけられたくらいで、気を失うような、ヤワな鍛え方はしていない。
避けようと思えば避けられた。
事前に、男…黄淵は、女を殴りつけてくる、ということは景から聞いていたし、人間という物はなぜか、悪事も善行も、いつも同じ方法を踏襲したがる。
わかっていながら、それでも避けなかったのは、女たちの味わった苦痛を、自分も同じように感じたかったからだ。
感じた上で、怒りと憎しみを、巫女のように呼び寄せて、この男にたっぷりと返してやるつもりであった。
けして、ただではおかない。
肩に担がれているのがわかる。
黄淵は慣れているのだろう、足取りもしっかりと、軽くはない偉度を木材でも運ぶように、息もほぼ乱さず歩く。
そのくせ、ぶつぶつとしきりに独り言を言っているのだが、それはほとんど意味を為さないもののうえ、早口なので、偉度には、はっきりと聞き取ることができなかった。
極上の獲物を得ることに成功した、狩人の気持ちなのであろう。
赤頭巾の殿様、下手に飛び出してこないと良いな、と偉度は思ったが、さすが、修羅場をいくつも潜り抜けてきた男だけあり、劉備は、いまのところ、様子を伺うことにしているようだ。
たしかに、この状態では、「女の格好をしていた男を懲らしめてやっただけ」と言い逃れされかねない。
黄淵は、やがて、偉度をどこか、ひと気のない廃屋へと連れ込んだ。
荷物のように、地面に落とされることを覚悟していた偉度であるが、意外にも黄淵は、そっと大切なものを扱うように、偉度を地面に横たえた。
いや、地面ではない。石畳の上のようだ。
うっすらと目を開くと、にじんだ月が真上に見える。
そして、痛みに呻くフリをして、手を動かすと、手の甲に、なにかが、柔らかさを含んで崩れたのが感じられた。
煙った香りが一瞬だけ感じ取れた。
そうか、火事で消失したものが、そのままになっている家、か。
偉度は合点しながらも、自分を、鼻息荒く見下ろしている男の気配をおぼえ、気絶のふりをつづけていた。
視線に敏感な偉度には、男が、やわらかな月光をたよりに、偉度の容姿が、自分の基準に合うかどうかを、じっくり確かめているのがわかった。
男が、蝋燭や行灯などを持っていなかったのは幸いである。
まさか、自分が攫ってきた者が、男だと言うことには、気づいていない様子だ。
頬を触れられる気配があり、肌の感触を確かめているのだと知れた。
このまま、手は襟元に行くか、それとも胸元にいくか、そうなったら、目を覚まさねばな、と思って身構える偉度であるが、男の手は、頬をなぞったあと、離れる。
そして、偉度は初めて、男の足音を聞いた。それが、離れていく。
なぜ離れる?
もしや、攫う男と、襲う男と、別人なのか。
なればやっかいだな、と、ふたたび、うっすらと目を開き、闇の中に、もう一人の気配を探るが、廃屋は思った以上に狭く、見れば、焼け残った戸口から、男がきょろきょろと、こちらに背を向ける格好で、あたりを探っているのが見えた。
大胆な犯行を重ねながら、妙なところで神経質な男だな。
嫌悪と共に、偉度は思った。
無防備な娼妓を殴りつけて攫い、襲う。
それでは足らなくなり、今度は、市井の、気に入りの美人の家を狙って、押し込み、襲う。
そして我は黄家の息子なり、と、沈黙を無理に押し付け、去っていく。
この男は、卑劣な臆病者なのだ。
「だれかいるかい、黄家の若旦那」
黄淵が、ぎょっとして、こちらを振り向いた。
その顔。陳叔至と同じくらい、いや、輪をかけて特徴のない、それこそ、どこにでもいそうな顔をした男であった。
あまりに平凡な面構えをしているので、偉度は拍子抜けした。
もっと、醜怪な容貌をしているとか、悪鬼のような面構え、というのであれば、女たちを襲う理由、その歪んだ理由も、容姿がまずくて、女たちに相手をされないことを恨んで、ということで、説明がつけられたであろう。
しかし、黄淵は、あまりに普通の容貌をしていた。
加えて、父親に甘やかされ放題に甘やかされ、食うにも困らない生活をしている。
なにが気に入らない? なにに飢えている?
おそらく問うても、本人にすら、うまく答えられないであろう。
手が届きそうで届かない、しかし確実に胸のうちに巣食っている、悪夢の塊。
ああ、またか、と偉度は暗然とし、上半身を起き上がらせると、うろたえている黄淵に尋ねた。
「だれもいやしないだろう。あんた、ここでこうして、いっつも女を手篭めにしていたのか」
「おまえ…男か?」
声でそれと知れたのだろう。
今更なうろたえぶりが可笑しくて、偉度は声をたてて笑う。
「そうだよ。残念だったね、女じゃなくて。今度から、獲物を吟味する時は、咽喉元に余計なものがないか、見ておくのだね。ただし、あんたの『今度』はもうないけれどね」
偉度は、にやりと不敵に笑みを見せると、隠し持っていた、愛用の短刀を抜き放つ。
それはおぼろな月の光を受けて、銀色に凶悪に輝いた。
黄淵の顔から、血の気が引くのがわかった。
「おや、もしかして実戦経験、ほとんどない? そうか、あんたは女を選ぶ時に、あまり戦わずに女を襲える家ばかり狙っていたのだな。臆病だから」
最後の、臆病、のひとことで、黄淵の頬がぴくりと動いたのがわかった。卑劣漢のくせに、誇りの高さは人並み以上、というわけだ。
「だれかを呼ばれて、武芸達者なり、警吏なりが追いかけてきたら、恐ろしいから、わざと女の身元がはっきりわかるような所持品を奪い、そしてあえて名乗ったのだね、漢嘉太守をつとめる黄家の息子だと。だから、自分の家より格式の高い家は狙えなかった。これも、怖いからさ」
「ちがう!」
黄淵の声は震えていた。しかし、それはおのれの悪事を掌握している偉度への怯えではなく、偉度の決め付けが許せないから、という様子である。
「おれは、臆病なんかじゃない! 臆病じゃないから、訴えられても怖くないから、名乗ったのだ!」
ふざけるな。
偉度は腸が煮えくり返るほどの怒り、というものを、はじめて他人のためにおぼえた。
この男の、なんと身勝手で醜い物言いか。
こいつは、自分以外を人間だと思っていない。
感情のあるものだと理解していない、偉度の天敵ともいうべき係累に属する、真の悪であった。
「臆病じゃない? それは、とてもいいことだと思うよ」
偉度は、ゆっくりと石の寝台から起き上がる。そして、女装を解かぬまま、短刀を構えた。
「では戦おうではないか」
黄淵は口ごもり、言葉を発さない。偉度は目を細め、己の頬から笑みを消した。
「あえて名乗らぬ。おとなしく死ね」
黄淵の、ぜっ、と息をのむ音が聞こえた。
戦うこともできない、こんなヤツのために、なぜ、苦しまなければならない人々がいるのか。
黄淵が戸口から、外へ逃げ出そうとする。
偉度は、領巾に仕込んでいた鏢を投げつけると、黄淵の足元に絡ませるようにした。
とたん、黄淵はもんどり打って倒れる。
偉度は、そのまま、領巾が引きちぎれるまで、容赦なく、黄淵をおのれの方に引き寄せる。
黄淵は、必死に逃れようとするものの、不様にあがくその指には、廃屋の泥が埋まっていくだけである。
「どうしたい、若さま、臆病じゃないのなら、なぜ女の格好をしているわたしから逃げなさる? 戦ってみたら如何か。それとも、女ならば勝てるけれど、男には勝てないと?」
「ち、ちが」
ちがう、と言いたいようであるが、偉度は聞かなかった。
そして、領巾で押さえつけるようにして、うつぶせになっている黄淵を蹴り飛ばして仰向けにし、まずは、のしかかるようにして、膝をうまく使い、相手の利き腕である右肩を外した。
黄淵のぶざまな悲鳴が廃屋中に響いた。
「なぜに嘆かれる、黄家の若さま。おかしいじゃないか、女だって、こうして泣いたり、叫んだり、許しを請うたりしただろう。それを聞かなかったあんたが、なぜに嘆くのだ」
「貴様、俺は、漢嘉太守の息子だぞ!」
「だからなんだね。わたしの知ったことじゃない。あんたが、女たちの幸せなんぞ、知ったことかと思ったように、わたしもあんたが誰であろうと、知ったことじゃないのだ!」
肩の痛みに呻きつつ、なおも起き上がろうとする黄淵の顎を、偉度は地面に押さえつけるようにして掴んだ。
ごん、と地面に後頭部がぶつかる音がする。
「わたしもいろいろ考えてね。あんたをどうするか、本当に真剣に考えた。笑わせるじゃないか。このわたしが、おまえなんかのために、頭を使わねばならなかったんだからね。それはたいしたものだよ、誉めてあげよう。
だがね、若様、あんたを殺しても、あんたに死に追いやられた娘は戻ってこないし、女たちの傷は癒えない。どうだろうね、若様。わたしにはたくさんの知り合いがいてね、あんた位の年の男の宦官を、捜している人間がいるのだよ」
「か、宦官?」
黄淵の引っくり返った声がする。
それが滑稽だったので、偉度は思わず残酷な笑みを浮かべた。
「そうだよ。宦官さ。ただね、そいつはちょっと変わった男でね。宦官といっても、自分の女に身の回りの世話をさせる男を、捜しているのじゃないのだ。つまり、女の代用品として、宦官が欲しいのだそうだ。あんた、いままで、さんざん手前勝手にいい思いをしてきたのだ。今度は、自分が役に立ってみないかい」
「い」
いやだ、と答えようとした黄淵は、いつのまにか、偉度の刃が股間にぴたりと当てられているのに気がつき、息を呑んだ。
もはや偉度は笑っていなかった。暗い目をして、黄淵を見据える。
「あいにくと、痛み止めもなにも持っていない。血があんまり出過ぎないことを祈るよ」
衣を割られ、冷たい刃の感触が、触れるか触れないかのところで感じ取れたのだろう。
それまで、恐怖と痛みに顔をゆがめ、震えていた黄淵が、突如としてされる直前の牛のように大暴れをはじめた。
しまった、追いつめすぎた、と偉度は後悔したが、遅かった。
馬乗りになった体の下で、黄淵は激しく暴れ、身をよじって、偉度を跳ね飛ばすと、外れた肩を抱えたまま、立ち上がった。
「待て!」
黄淵は聞かず、廃屋の戸口から、転がるように逃げていく。
必死な人間の抵抗の強さを、偉度は計算に入れていなかった。
震えて怯える黄淵の姿を前に、獰猛な苛虐心しかなくなった。
それとて、弱さである。
己の性を押さえつけられなかったことを呪いつつ、偉度は逃げる黄淵を追った。
と、暗闇から、黄淵の前に立ちふさがる影がある。
赤頭巾の殿様か、と思った偉度ではあるが、そうではなかった。
「黄家の息子だな? 娼妓たちから、おまえが今日もこのあたりをうろうろしていると聞いてきたのだ。ここで会ったが百年目ぞ! 蕭花の仇をとってくれよう!」
蕭花の婚約者であったという、奉であった。
なんと間の悪い、と偉度は舌打ちをした。
奉も決死の覚悟できたのだろう。
その手には剣が握られているが、握り方からして、まるで武芸をかじったことのない男の物腰だとわかる。
黄淵も敏感にそれを感じ取ったらしく、外されていない左腕を振り上げるや、奉の横面を難なく殴り飛ばすと、その手から剣を奪い、横倒れになって呻いている奉の咽喉元に、剣を突き立てた。
「止まれ! さもなくば、こいつを殺すぞ!」
「とことんまで腐った男だね」
憎まれ口を叩く偉度であるが、言われたとおり、黙って従うしかない。
足を止めると、黄淵は、咽喉元に剣を突きたてたまま、じりじりと後退していく。
偉度の脳裏には、つぎに黄淵がどうするか、たいがいの予想ができた。
かつての自分なら迷わずそうしたし、そうしろと、教えられてもいたこと。
すなわち、奉を刺し、こちらが手当てのために足止めを食らっているあいだに、逃げるつもりなのだ。
頭に差したままになっている銀の簪は、武器もなるものである。
ここで簪を手裏剣の如く投じて、黄淵の手から剣を奪うことも可能だが、しかしあまりに暗すぎた。
朧月夜のおかげで、だいたいの形はわかるものの、細かいところまでが見切れない。
下手にこちらが動けば、黄淵は迷うまい。
むしろ、さらに残酷な所業に、追い立ててしまうことになるかもしれない。
どうする?
いちかばちか…
ゆっくりと、銀の簪に手をかけたそのとき、黄淵の背後にて、赤いものがあらわれた。
赤頭巾である。
両手には大きな石を持っており、偉度にばかり集中している黄淵は、後頭部に迫る赤頭巾に気づかなかった。
やがて、がつん、と音がして、黄淵の後頭部に石が落とされた。
つづく……
実のところ、偉度は気絶などしなかった。
たった一度だけ拳を叩きつけられたくらいで、気を失うような、ヤワな鍛え方はしていない。
避けようと思えば避けられた。
事前に、男…黄淵は、女を殴りつけてくる、ということは景から聞いていたし、人間という物はなぜか、悪事も善行も、いつも同じ方法を踏襲したがる。
わかっていながら、それでも避けなかったのは、女たちの味わった苦痛を、自分も同じように感じたかったからだ。
感じた上で、怒りと憎しみを、巫女のように呼び寄せて、この男にたっぷりと返してやるつもりであった。
けして、ただではおかない。
肩に担がれているのがわかる。
黄淵は慣れているのだろう、足取りもしっかりと、軽くはない偉度を木材でも運ぶように、息もほぼ乱さず歩く。
そのくせ、ぶつぶつとしきりに独り言を言っているのだが、それはほとんど意味を為さないもののうえ、早口なので、偉度には、はっきりと聞き取ることができなかった。
極上の獲物を得ることに成功した、狩人の気持ちなのであろう。
赤頭巾の殿様、下手に飛び出してこないと良いな、と偉度は思ったが、さすが、修羅場をいくつも潜り抜けてきた男だけあり、劉備は、いまのところ、様子を伺うことにしているようだ。
たしかに、この状態では、「女の格好をしていた男を懲らしめてやっただけ」と言い逃れされかねない。
黄淵は、やがて、偉度をどこか、ひと気のない廃屋へと連れ込んだ。
荷物のように、地面に落とされることを覚悟していた偉度であるが、意外にも黄淵は、そっと大切なものを扱うように、偉度を地面に横たえた。
いや、地面ではない。石畳の上のようだ。
うっすらと目を開くと、にじんだ月が真上に見える。
そして、痛みに呻くフリをして、手を動かすと、手の甲に、なにかが、柔らかさを含んで崩れたのが感じられた。
煙った香りが一瞬だけ感じ取れた。
そうか、火事で消失したものが、そのままになっている家、か。
偉度は合点しながらも、自分を、鼻息荒く見下ろしている男の気配をおぼえ、気絶のふりをつづけていた。
視線に敏感な偉度には、男が、やわらかな月光をたよりに、偉度の容姿が、自分の基準に合うかどうかを、じっくり確かめているのがわかった。
男が、蝋燭や行灯などを持っていなかったのは幸いである。
まさか、自分が攫ってきた者が、男だと言うことには、気づいていない様子だ。
頬を触れられる気配があり、肌の感触を確かめているのだと知れた。
このまま、手は襟元に行くか、それとも胸元にいくか、そうなったら、目を覚まさねばな、と思って身構える偉度であるが、男の手は、頬をなぞったあと、離れる。
そして、偉度は初めて、男の足音を聞いた。それが、離れていく。
なぜ離れる?
もしや、攫う男と、襲う男と、別人なのか。
なればやっかいだな、と、ふたたび、うっすらと目を開き、闇の中に、もう一人の気配を探るが、廃屋は思った以上に狭く、見れば、焼け残った戸口から、男がきょろきょろと、こちらに背を向ける格好で、あたりを探っているのが見えた。
大胆な犯行を重ねながら、妙なところで神経質な男だな。
嫌悪と共に、偉度は思った。
無防備な娼妓を殴りつけて攫い、襲う。
それでは足らなくなり、今度は、市井の、気に入りの美人の家を狙って、押し込み、襲う。
そして我は黄家の息子なり、と、沈黙を無理に押し付け、去っていく。
この男は、卑劣な臆病者なのだ。
「だれかいるかい、黄家の若旦那」
黄淵が、ぎょっとして、こちらを振り向いた。
その顔。陳叔至と同じくらい、いや、輪をかけて特徴のない、それこそ、どこにでもいそうな顔をした男であった。
あまりに平凡な面構えをしているので、偉度は拍子抜けした。
もっと、醜怪な容貌をしているとか、悪鬼のような面構え、というのであれば、女たちを襲う理由、その歪んだ理由も、容姿がまずくて、女たちに相手をされないことを恨んで、ということで、説明がつけられたであろう。
しかし、黄淵は、あまりに普通の容貌をしていた。
加えて、父親に甘やかされ放題に甘やかされ、食うにも困らない生活をしている。
なにが気に入らない? なにに飢えている?
おそらく問うても、本人にすら、うまく答えられないであろう。
手が届きそうで届かない、しかし確実に胸のうちに巣食っている、悪夢の塊。
ああ、またか、と偉度は暗然とし、上半身を起き上がらせると、うろたえている黄淵に尋ねた。
「だれもいやしないだろう。あんた、ここでこうして、いっつも女を手篭めにしていたのか」
「おまえ…男か?」
声でそれと知れたのだろう。
今更なうろたえぶりが可笑しくて、偉度は声をたてて笑う。
「そうだよ。残念だったね、女じゃなくて。今度から、獲物を吟味する時は、咽喉元に余計なものがないか、見ておくのだね。ただし、あんたの『今度』はもうないけれどね」
偉度は、にやりと不敵に笑みを見せると、隠し持っていた、愛用の短刀を抜き放つ。
それはおぼろな月の光を受けて、銀色に凶悪に輝いた。
黄淵の顔から、血の気が引くのがわかった。
「おや、もしかして実戦経験、ほとんどない? そうか、あんたは女を選ぶ時に、あまり戦わずに女を襲える家ばかり狙っていたのだな。臆病だから」
最後の、臆病、のひとことで、黄淵の頬がぴくりと動いたのがわかった。卑劣漢のくせに、誇りの高さは人並み以上、というわけだ。
「だれかを呼ばれて、武芸達者なり、警吏なりが追いかけてきたら、恐ろしいから、わざと女の身元がはっきりわかるような所持品を奪い、そしてあえて名乗ったのだね、漢嘉太守をつとめる黄家の息子だと。だから、自分の家より格式の高い家は狙えなかった。これも、怖いからさ」
「ちがう!」
黄淵の声は震えていた。しかし、それはおのれの悪事を掌握している偉度への怯えではなく、偉度の決め付けが許せないから、という様子である。
「おれは、臆病なんかじゃない! 臆病じゃないから、訴えられても怖くないから、名乗ったのだ!」
ふざけるな。
偉度は腸が煮えくり返るほどの怒り、というものを、はじめて他人のためにおぼえた。
この男の、なんと身勝手で醜い物言いか。
こいつは、自分以外を人間だと思っていない。
感情のあるものだと理解していない、偉度の天敵ともいうべき係累に属する、真の悪であった。
「臆病じゃない? それは、とてもいいことだと思うよ」
偉度は、ゆっくりと石の寝台から起き上がる。そして、女装を解かぬまま、短刀を構えた。
「では戦おうではないか」
黄淵は口ごもり、言葉を発さない。偉度は目を細め、己の頬から笑みを消した。
「あえて名乗らぬ。おとなしく死ね」
黄淵の、ぜっ、と息をのむ音が聞こえた。
戦うこともできない、こんなヤツのために、なぜ、苦しまなければならない人々がいるのか。
黄淵が戸口から、外へ逃げ出そうとする。
偉度は、領巾に仕込んでいた鏢を投げつけると、黄淵の足元に絡ませるようにした。
とたん、黄淵はもんどり打って倒れる。
偉度は、そのまま、領巾が引きちぎれるまで、容赦なく、黄淵をおのれの方に引き寄せる。
黄淵は、必死に逃れようとするものの、不様にあがくその指には、廃屋の泥が埋まっていくだけである。
「どうしたい、若さま、臆病じゃないのなら、なぜ女の格好をしているわたしから逃げなさる? 戦ってみたら如何か。それとも、女ならば勝てるけれど、男には勝てないと?」
「ち、ちが」
ちがう、と言いたいようであるが、偉度は聞かなかった。
そして、領巾で押さえつけるようにして、うつぶせになっている黄淵を蹴り飛ばして仰向けにし、まずは、のしかかるようにして、膝をうまく使い、相手の利き腕である右肩を外した。
黄淵のぶざまな悲鳴が廃屋中に響いた。
「なぜに嘆かれる、黄家の若さま。おかしいじゃないか、女だって、こうして泣いたり、叫んだり、許しを請うたりしただろう。それを聞かなかったあんたが、なぜに嘆くのだ」
「貴様、俺は、漢嘉太守の息子だぞ!」
「だからなんだね。わたしの知ったことじゃない。あんたが、女たちの幸せなんぞ、知ったことかと思ったように、わたしもあんたが誰であろうと、知ったことじゃないのだ!」
肩の痛みに呻きつつ、なおも起き上がろうとする黄淵の顎を、偉度は地面に押さえつけるようにして掴んだ。
ごん、と地面に後頭部がぶつかる音がする。
「わたしもいろいろ考えてね。あんたをどうするか、本当に真剣に考えた。笑わせるじゃないか。このわたしが、おまえなんかのために、頭を使わねばならなかったんだからね。それはたいしたものだよ、誉めてあげよう。
だがね、若様、あんたを殺しても、あんたに死に追いやられた娘は戻ってこないし、女たちの傷は癒えない。どうだろうね、若様。わたしにはたくさんの知り合いがいてね、あんた位の年の男の宦官を、捜している人間がいるのだよ」
「か、宦官?」
黄淵の引っくり返った声がする。
それが滑稽だったので、偉度は思わず残酷な笑みを浮かべた。
「そうだよ。宦官さ。ただね、そいつはちょっと変わった男でね。宦官といっても、自分の女に身の回りの世話をさせる男を、捜しているのじゃないのだ。つまり、女の代用品として、宦官が欲しいのだそうだ。あんた、いままで、さんざん手前勝手にいい思いをしてきたのだ。今度は、自分が役に立ってみないかい」
「い」
いやだ、と答えようとした黄淵は、いつのまにか、偉度の刃が股間にぴたりと当てられているのに気がつき、息を呑んだ。
もはや偉度は笑っていなかった。暗い目をして、黄淵を見据える。
「あいにくと、痛み止めもなにも持っていない。血があんまり出過ぎないことを祈るよ」
衣を割られ、冷たい刃の感触が、触れるか触れないかのところで感じ取れたのだろう。
それまで、恐怖と痛みに顔をゆがめ、震えていた黄淵が、突如としてされる直前の牛のように大暴れをはじめた。
しまった、追いつめすぎた、と偉度は後悔したが、遅かった。
馬乗りになった体の下で、黄淵は激しく暴れ、身をよじって、偉度を跳ね飛ばすと、外れた肩を抱えたまま、立ち上がった。
「待て!」
黄淵は聞かず、廃屋の戸口から、転がるように逃げていく。
必死な人間の抵抗の強さを、偉度は計算に入れていなかった。
震えて怯える黄淵の姿を前に、獰猛な苛虐心しかなくなった。
それとて、弱さである。
己の性を押さえつけられなかったことを呪いつつ、偉度は逃げる黄淵を追った。
と、暗闇から、黄淵の前に立ちふさがる影がある。
赤頭巾の殿様か、と思った偉度ではあるが、そうではなかった。
「黄家の息子だな? 娼妓たちから、おまえが今日もこのあたりをうろうろしていると聞いてきたのだ。ここで会ったが百年目ぞ! 蕭花の仇をとってくれよう!」
蕭花の婚約者であったという、奉であった。
なんと間の悪い、と偉度は舌打ちをした。
奉も決死の覚悟できたのだろう。
その手には剣が握られているが、握り方からして、まるで武芸をかじったことのない男の物腰だとわかる。
黄淵も敏感にそれを感じ取ったらしく、外されていない左腕を振り上げるや、奉の横面を難なく殴り飛ばすと、その手から剣を奪い、横倒れになって呻いている奉の咽喉元に、剣を突き立てた。
「止まれ! さもなくば、こいつを殺すぞ!」
「とことんまで腐った男だね」
憎まれ口を叩く偉度であるが、言われたとおり、黙って従うしかない。
足を止めると、黄淵は、咽喉元に剣を突きたてたまま、じりじりと後退していく。
偉度の脳裏には、つぎに黄淵がどうするか、たいがいの予想ができた。
かつての自分なら迷わずそうしたし、そうしろと、教えられてもいたこと。
すなわち、奉を刺し、こちらが手当てのために足止めを食らっているあいだに、逃げるつもりなのだ。
頭に差したままになっている銀の簪は、武器もなるものである。
ここで簪を手裏剣の如く投じて、黄淵の手から剣を奪うことも可能だが、しかしあまりに暗すぎた。
朧月夜のおかげで、だいたいの形はわかるものの、細かいところまでが見切れない。
下手にこちらが動けば、黄淵は迷うまい。
むしろ、さらに残酷な所業に、追い立ててしまうことになるかもしれない。
どうする?
いちかばちか…
ゆっくりと、銀の簪に手をかけたそのとき、黄淵の背後にて、赤いものがあらわれた。
赤頭巾である。
両手には大きな石を持っており、偉度にばかり集中している黄淵は、後頭部に迫る赤頭巾に気づかなかった。
やがて、がつん、と音がして、黄淵の後頭部に石が落とされた。
つづく……