はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

生まれ出(いず)る心に 10

2018年07月20日 10時48分02秒 | 生まれ出る心に


劉備は、暗くてよく見えねぇや、と言って頭巾を外すと、偉度と共に、さきほどの廃屋に気絶した黄淵を連れ込み、そして奉も助け出して、介抱してやった。
劉備はすっかり捕り物をするつもりだったようで、ちゃんと捕縛用の縄も用意していた。
ぐるぐる巻きにされた黄淵を転がしておき、奉の手当てがおわって、ひと段落ついたな、と偉度がほっとすると、とつぜん、それまで協力してことに当たってきた劉備が、偉度を殴り飛ばした。
「なにをなさいます!」
「黙れ、馬鹿野郎が!」
するどく重々しい叱責に、偉度は思わず口をつぐむ。
「偉度よ、おまえの前身がなんであろうと、わしはおまえを蔑んだりしねぇ。だがな、さっきのには呆れ返ったぜ。おまえ、拷問を楽しんでいやがったな。それじゃあ、こいつと何もかわらねぇじゃねぇか。しかも、宦官にして売り飛ばすたぁ、どういう了見だ! それがおまえのやり方ってやつか!」
「全部見ておられたのか」
二度も殴られた頬を庇いつつ、偉度は呻くように言う。
「孔明が見たら、泣き崩れるだろうよ。偉度よ、おまえが変わったのは表面だけか!」
孔明の名を持ち出された偉度は、相手が劉備だと言うこともわすれ、思わず声を荒げた。
「では、あんたはどうするつもりなんだ! せいぜい、そいつを警吏に渡して、法の裁きを受けさせるっていうだけなのだろう! それがあんたの正義なのか! 警吏に渡したところで、どんなに軍師が頑張っても、黄家の横槍で、こいつの罪は軽くなる。それが判っているのに、ただ捕らえて、役人に引き渡せと? それじゃあ、女たちの受けた苦しみはどうなる!」

劉備と偉度は、しばらく互いに無言のまま、視線を戦わせていた。

ふと、闇の中、くぐもった笑い声がする。
見ると、さきほどまで気絶していた黄淵が、目を覚まし、笑っているのであった。
劉備が、笑う黄淵に尋ねる。
「おまえ、なにが可笑しい」
「反省をしておりました、主公」
「わしの顔を知っておるのか」
「貴方様は特徴がございますゆえ、覚えておりました。どうぞ、それがしを警吏に引き渡してくださいませ」
ほう、と劉備は目を細めた。偉度は、いまいましさで、地面を蹴りたいくらいの気持ちであった。
反省だと? この男が、そんな殊勝な気持ちになるはずがない。
「あらいざらい、すべてお話いたします。どこの家の、どの女を襲ったか」
そういって、頭から血を垂らしつつ、笑う黄淵の笑みは、邪悪という表現がまさにぴたりと嵌まる、忌むべきものであった。
偉度は、本気で怖気を奮った。
この男の心根は、底の底まで腐り果てているのだ。
「そのときに、どんな様子だったか、中には、いやだいやだと言いながら、喜んでいる女もおりました。いえ、女という生き物は、所詮、力づくでものにされることを望んでいるのでございます。それがしは、女たちの望みをかなえてやっただけなのです」
「貴様、ふざけるな!」
介抱をうけていた奉が、黄淵に向かおうとするのを、偉度はあわてて引き止めた。
まさに、怒らせることが、この男の目的なのだ。
そうして、とことんまで人を苛めることを楽しみたいのだ。
黄淵は、鳩のような声をたてて笑いながら、言った。
「興味がおありでしょう、主公。すべてお話いたしますよ」
「いいや、いらねぇな」
偉度が初めて聞く、劉備の乾いた声であった。
はっとして見ると、その手には、奉が持っていた剣がある。
「おまえは警吏には渡さねぇ」
偉度は、劉備がどうするのかをすぐに悟った。
「お待ち下さいませ、主公が、御自ら手を下す価値のある男ではございませぬ!」
「いいや、偉度よ。警吏でも孔明でも、いまの黄家にゃ手を出せねぇ。あいつらの背後には、いまだわしらに心服してねぇ豪族どもがいるからだ。
だがな、この土地はわしの土地で、すべての責任はわしにあるのだ。こんな馬鹿野郎を今日までのさばらせてしまったのは、わしの徳が行き届かなかったからじゃねぇのか」
劉備は、ひきつった笑みをうかべ、剣を手にしたおのれを見上げる黄淵を、冷たく見据えた。
「漢嘉太守黄権の子淵よ、その名に免じて、おまえには、左将軍たるわしが、自らこの場にて裁きを下そう」
「ま…お待ち下さいませ、それがしは…!」
それ以上の問答はなかった。
ひゅっ、と空を切る音がした。
つづいて、どん、と重い一撃のあと、ごろん、と首の地面に落ちる音がした。
首を無くした身体は、しばらく血を吹いていたが、やがて均衡を失い、倒れた。

偉度の隣で、奉が、地面に蹲るようにして、声を上げて泣いていた。
恐怖か、怨みが晴らされたことによる興奮か、それともこの世の無情に対してか。
無意識のうちに、偉度は奉の背中を撫でさすってやっていた。
いままで、『兄弟たち』にさえ、こんなことをしてやったことはない。
「偉度よ」
「はい」
「すまねえが、後始末は頼んだぜ。それと、その兄さんを、ちゃんと家まで送ってやってくれ」
「判り申した。お待ち下さいませ、景に言って、主公に見送りを付けさせましょう」
「いらねぇよ。一人になりてぇんだ」
いいつつ、劉備は偉度に丸めた背中を向けたまま、赤頭巾を被った。
そうして、あばよ、と言って、片手を上げると、そのまま闇へ消えていく。
偉度は、黙って、その背中を見送った。

泣いているのだ。
こんな人でなしのためにさえ、あの人は本気で涙を流している。

見下ろすと、黄淵の、己の身に起こることを、最後まで理解できなかった顔が、闇の中に転がっていた。
他者の心が理解できないものには、真に己の心も理解できない。
空疎な、心なき者の末路が、目の前に転がっていた。





息子の非業の死を知った黄権は、怒り狂い、孔明や法正に、下手人を早急に捕まえて欲しいと、何度も訴状を送ったが、それが真剣に取り上げられることは一度もなかった。
豪族たちのさまざまな突き上げにも、沈黙したままの法正と、公平さを旨とする、らしからぬ孔明の態度に、周囲の者たちは首をひねった。
だが、やがて、どこからか話が流れて、黄権の子の、思わず耳を塞ぎたくなるようなひどい実態が知れたため、同情する声もしだいになくなり、やがて噂にも聞こえなくなった。
だれが説明したわけでもないのに、この処置が、正義であったと、長星橋の裏側に住む住人は、口々に言った。
黄権に雇われた者が、住民たちに、なにがあったのかを尋ねまわったが、口を開く者は、ひとりとしていなかったという。
黄淵は妻帯者で、皓という子がいたが、これは祖父の黄権が引き取ったことが、のちに偉度の耳に入ってきた。





黄淵の件が落ち着いてからほどなく、顔を見せないでいた薛が、左将軍府に元気な姿をあらわした。
見れば、あの夜に一緒だった、奉という青年を従えている。
薛は、偉度を見るや、丁寧に礼を取って、深々と頭を下げた。
「三日の期日をお守りいただきまして、ありがとうございます。亡き娘に代わりまして、御礼申し上げまする。わたくしも、世には悪ばかりではないのだと、救われた思いでございます。偉度さまは、わたくしどもの恩人です」
「よしてくれ。わたしは何もしていない」
謙遜でもなんでもなく、偉度は本気でそう思っていた。

赤頭巾をかぶって、しょげかえって夜道を帰っていった劉備の背中は、弱弱しいものですらあった。
なのに、偉度には、それがひどく大きく、超えがたいものに見えたのである。
おそらくあの背中を、一生忘れることはないだろう。

薛は、憂いの含まれた瞳に、それでも笑みを浮かべて、言った。
「すべてはこの奉から聞いております。今日は、あらためて御挨拶に参りました。実は、このたび、この奉を、正式に養子に迎えましてございます」
奉は、照れくさそうに、偉度に笑ってみせた。
「そう。そうかい。それはよい話じゃないか」
「はい、互いに蕭花を通して、父子となるはずだったのです。娘が死んだとはいえ、あらためて親子となってもおかしくはないでしょう。
わたしには子はなく、奉に親はない。これもめぐり合わせでございます。
もし、貴方様があの夜、奉をお助けくださいませんでしたなら、わたくしは、二人も子を失うところでございました。あなたはわたしと、娘と、奉の、三人を助けて下さった。なんと礼を申し述べてよいのやら、わかりませぬ」
そういって、薛は、感極まって涙をこぼした。
混じりけのない、純粋な、感謝のための涙であった。

そんなことはない、と二度目の否定をすることは、偉度にはできなかった。
堪えようにも、涙があふれて、止まらなかったのである。
普段は強気な偉度の、その涙する姿に、ほかの主簿たちや左将軍府の人々は、何事かと目を集めてくるが、それでも、偉度は、涙を袖で隠すのが精一杯で、声をたてずに泣くことしかできなかった。

本編おわり。
番外編につづく……


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。