ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(生ベビ考~150621幕張~入場前編)

2015-06-21 14:04:10 | babymetal
6月21日、朝、目覚ましが鳴るよりも1時間前に目が覚めてしまった。
ネットのサイトをいくつか見ると、すでに物販の長い列ができているようだ。
こっちはまた京都の自宅にいる。これから新幹線で向かい、幕張には2時ころ着く予定。
それから、まずTシャツでも買って…なんて思っていたけれど、甘すぎたらしい。
まあ、今回の最大の目的は、もちろん「BABYMETALライヴ初体験!」であり、
3万人の会場の熱気の中に浸ることだから、いいのである。
(でも…やっぱり、Tシャツほしい…グヌヌ…)

昨日は、仕事で神戸へ行き、
『OVERTURE』を、レジへ持って行く前に、立ち読み、MIKIKO(MIKIKOMETAL)のインタビューを読みながら、涙が出そうになって困った。
なぜ?
自分でもよくわからない。ライヴの前日で昂揚していたのは確かだが、客観的に見れば、泣くようなことは書かれていないはずなのに。
たぶん、それは、このインタビューの中に、僕が感じているBABYMETALの核心が語られていたからではないか。「ああ、やっぱりそうなんだな」という感動の涙であったような気がする。

で、幕張へ向かう新幹線の中で、MIKIKOMETALの発言を、探究しているのだ。

例えば、こんな箇所

-(踊りを)歌詞に合わせるということですか?
MIKIKO そうなりますね。振りを作るとき、作詞家や作曲家の方が喜んでくださるようにというのはよく考えます。作詞家の方から「そんなつもりで書いたわけじゃないのに……」って思われないようしっかり意味を理解してから振り付けに入ります。あと意識しているのは歌詞をそのまま振りにするのではなく、ちょっと変化球にするということ。たとえば「未来」っていう言葉が歌詞で出てきても、未来のイメージをそのまま身体で表現するのではなく、「み」から連想して数字の3を表わしてみる。その3にはメンバー3人の未来、という意味も意識していたり。見れば見るほど奥行きが感じられるように振り付けられるといいなと。


そうなのだ!奥行き!
BABYMETALの舞踊が、(単なる)ダンスではなく「演」奏だ、ということの核心のひとつは、この奥行き、なのだ。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」での舞踊も、一元的に、「イジメはぜったいダメだ」というメッセージを表現するものならば、それはヘヴィ・メタルという音楽の「演」奏にはなりえない。例えば、YUI・MOAが笑顔で「ポイ捨て禁止!」「イエスタデイ~」なんて煽るのが、お説教ではなく、音楽の楽しさ、である。

あるいは、「4の歌」の、4・4・4の、「シーッ(静かに)」の振り。
(それでいて、後半には「もっと出せるでしょ!」なんて煽られるんだから、たまったものではない)。

あるいは、「メギツネ」の、「大和ナデシク」のところの腕ナデナデ、とか。

観客の僕らが享受している、歌詞や楽曲とは、また別の角度から攻めてくる。
いわば、<4次元攻撃>なのだ。BABYMETALの演奏は。

また、
―BABYMETALも、アイドルの振り付けっていう意味では特殊ですよね。
MIKIKO ベビメタの場合は、KOBAMETALがかなり長くコンセプトを作り込んでいるんですね。曲をもらう段階で、歌詞の横に「ここは全員でヘドバン」とか「ここで土下座ヘドバン」とかまで書かれていて、盛り上げる箇所のイメージができている。ファンの人が客席でどう盛り上がるかが重要で、たとえば間奏部分にも振り付けを入れていたりすると、「いや、ここはヘドバンだけでいいです」って削げ落とすように言われたりします。なぜなら、そっちのほうがお客さん的にノリやすいから。ただ踊らせればいいっていうものじゃないんです。引き算の美学もあるので。歌詞に全部振りを当てたりすると、それはそれで印象に残らないケースもありますし。


これは、目から鱗、の発言だった。
ここに、BABYMETALの、ヘヴィメタルとしての革新性の核心がある!

いや、もちろん、「ヘドバン」第1号で同趣旨の発言は読んではいるから「知ってはいた」のだが、実際自分がライヴの前日にこんなにもライヴが楽しみで楽しみでならないという心理状態になっているなかで、この発言を目にし、このことの「真意が圧倒的な臨場感をもって迫ってきた」のだ。
微妙な言い方になるが、僕たちはBABYMETALに結果的に嵌った、のではなく、嵌まるように作られた仕掛けに楽しませてもらっている、のだ。
と、こういう書き方をすると、ディスっているようだが、そういうつもりはもちろん全くない。

とんでもなく美味しい料理屋。とんでもなく面白い映画。とんでもなく楽しいアミューズパーク。
どれも、お客さんを楽しませるにはどうしたらよいか、徹底的に考え、実際に試し、その反応を見て修正を重ね、という丹念な工夫がなされているはずだ。
それを、ヘヴィメタルにおいて行っているのがBABYMETALなのだ。
緻密に観客の反応を考え抜いて作られた映画、これを批判する人は、そうはいまい。
ましてや、料理屋やアミューズメントパークでは、お客さんの反応を考え抜き、どうしたら喜んでもらえるかに細心を尽くすことは、賞賛されこそすれ非難されることは全くない(当たり前だ)。

ライヴを楽しく。お客さんをノセる。

BABYMETALは、そこを原点にして、全てのパフォーマンス、ステージング、いやそれ以前に、楽曲、振り付けを作っているのである。
で、その、ノセる対象のお客さんの中心は「メタルヘッズ」なのだ。
そりゃ、(僕たちは)当然嵌まるよ、というわけである。

ヘイターによってBABYMETALと対照させられる、楽曲を自分達でつくり演奏を行う、いわゆる通常の「自発的なバンド」は、そこまで「お客さんの反応」を第一には考えないはずだ。
お客さんを楽しませるためにヘヴィメタルのギタリストになったんだ!
なんて、1人もいるはずはない。もちろん、ある程度売れ、ファンがついたりすれば、コンサートに来たお客さんに楽しんでもらおうとはするだろう。しかし、おそらく世界中のほとんどすべてのバンドは、その徹底度においてBABYMETALには及ばない。そもそもの成り立ちが違うのだ。(どちらの方がよい悪い、という話では、もちろんない)。

アイドルのコンサートで、「合いの手」を会場全体で入れる楽しさ。
例えば、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」という楽曲の、ヘヴィメタルとしての新しさは、それを疾走抒情チューンに持ち込んだことにある。こんなものは空前絶後である。
メタル風のアイドルにおいても、おそらくこうした「合いの手」は、まず真っ先に捨象されるはずだ。だってまさに「合いの手」こそ、非メタルなのだから、メタル風にするためにはこれを抹殺しなければならない。
しかし、BABYMETALは、YUI・MOAの「合いの手」を、楽曲のキモにするのだ。なぜなら、それが、

ライヴを楽しく。お客さんをノセる。

ことを具現するからだ。
そして、まさにその通りのことが、世界各地で起こっている。

こうしたことを考え、具現化した、KOBAMETALの発想、というよりも実行力は、やはり凄い。もちろん、いくらアイディアがあってもそれを実行・具現化できるスタッフ、演者がいなくてはならず、BABYMETALは、やはり「奇跡」という言葉を使うしかないほどの人材が、見事に集まった。まあ、集めた、のだろうが、しかし、いくらオーディションを重ねても、YUI・MOAは見つからない。応募もしないだろうし。やはり、奇跡、である。

さらに、MIKIKOMETALの発言は示唆的である。

―教え子から逆に教わることは?
MIKIKO しょっちゅうありますね。特に思うのは、私が関わっているアイドルの子たちって本当に全力なんです。スキルがどうかというより、そのがむしゃらさがお客さんを感動させると思うんです。さくら学院なんてリハーサルのときから泣きそうになります。みんなが一生懸命すぎて。キラキラしている。その輝きを失わせたくないから、作っている人たちも全力でぶつからないといけない。褒めるべきところは、きちんと褒めますし、いやっていうほど練習しますし(笑)。アミューズは手間暇かけてタレントを育てる事務所だと思うので、そこは私にとっても恵まれてますね。


BABYMETALがアイドルである、とは、まさに上の傍線部のような意味を持つ。おっさんである僕らが、泣いてしまう成分の多くは、上記にあることは間違いない。
単に、可愛い少女が歌い踊る、というのではなく、まさにアイドル=本当に全力・がむしゃらさ、が、国境を越えて多くの人たちの胸を打ち、一流のミュージシャンからも肯定的に受け取られている秘密(のひとつ)なのだろう。

だから、BABYMETALはアイドルではなくアーティストだ、などと言ってはいけないのである。上記の意味において、まさにBABYMETALの3姫は、アイドルの権化、なのだ。

そして、MIKIKOMETALの振り付けは、そのアイドル=全力・がむしゃらさを前面に押し出す。
極端なかたちでの、アイドル=がむしゃらのアウトプット。
それが、他の多くのアイドルグループとの差異であり、ヘヴィメタルとしての先鋭さを持つのだ。これが「カワイイ(Kawaii)」メタルの構造だ。

―振付師として、今後の目標などはありますか?
MIKIKO 今の音楽シーンで「振り付け」が担っている役割ってけっこう大きいと思っていて。だからこそ振付師っていう職業も、作詞家や作曲家と同じくらい、音楽のひとつのジャンルとして世の中から認められたらうれしいですね。今はダンス人口も増えたけれど、その分濃度が薄まる怖さも逆に私は感じているんです。ただ上手く踊れるから誰でもデビューできる、ってわけじゃなく、本物が残っていくべきですから。歌はそうじゃないですか。カラオケが上手いっていうレベルじゃ、プロの歌手にはなれませんよね。内面から訴えかけるものがないと伝わらない。ダンスも心・技・体・センスが伴った本物を作りたいし残していきたい。ダンスというジャンルの底上げに対し、もっと自分も力になれたらいいなと思っています。


MIKIKOMETALの思いを、SU-、YUI、MOAは、かなり高いレベルで実現しているはずだ。
これからもまだまだ修練は続くはずだが。

ほんとうに、僕も、とりわけYUI・MOAに出会って、ダンスという音楽(表現)、僕の使っている言葉でいえば「演」奏というものがあるのだ、とわかった。
それは、こうして新幹線で幕張までおっさんをわくわくさせながら急がせるだけの実効力をもったとんでもないものなのだ。

さあ、そろそろ新幹線は東京に着く。
乗り換えて、いよいよ、幕張へ。
3万人のうちの1人になる、のだ。

いよいよ。生ベビメタを体験する時間が迫っている。
楽しみ、DEATH!

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