ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(「聖性」考1)

2015-07-25 23:50:57 | babymetal
「紙芝居」を観ながら、泣いてしまう。そんな経験はないだろうか?

とりわけ、英語版で言えば、
Three Giris were chosen and given the holy metal name by the FOX GOD. He named them "BABYMETAL"...」の、「Three Giris were chosen」のところだ。
繰り返し繰り返し鑑賞を重ねた今でも、やはり時々眼頭が熱くなり、鼻がつんとしてしまう。何ともいえないせつない気分になる。

これはいったい何なのか?

僕(たち)(とりわけおっさん)が、BABYMETALになぜ惹かれるのか?、泣いてしまうのか?を考えていくと、「宗教」にも通じる「聖性」を(も)BABYMETALに感じている、ということに思いいたることは、前回、前々回にも触れたが、
「紙芝居」で泣いてしまうというのも、その一例なのだろう。

では、その、BABYMETALの、「宗教」にも通じる「聖性」、とは何なのか?

これは、(たぶん)たいへんなテーマで、僕などの手に負えるはずもないのだろうが、そのひとかけらずつでもこつこつと探究を重ねていくことで、うっすらとでもその正体を浮かび上がらせることはできるのではないか、とは思う。
そうした楽観的な期待を支えにしながら、BABYMETALの「聖性」についての探究を、(何回かにわたって・不定期に)行なっていこう。
一回一回の探究は偏っていたり中途半端だったりするだろう(もちろん今回も)が、漆を何度も塗るように考察を重ねていけば、きっと、何か見えてくるものがあるはずだ、と期待して。

今回、まずその導きの糸にするのが、たまたま蔵書の中にあった立川武蔵著『聖なるもの 俗なるもの』(講談社選書メチエ)である。
全体的には「仏教の神学」を論じている五冊シリーズの一冊目だが、BABYMETAL中毒者である僕から見ると、(例によって)まるでBABYMETALのことを論じているかのような箇所が、いくつも目にできる。

この書によってまず確認できたのが、
「宗教」とは必ずしも「教義」「教理」が必要なものではない、ということだ。
つまり、BABYMETAL教というものがあり、例えば、「ライヴではWODすべし」と教え込まれた多くのおっさんたちが盲目的にその教えに従うというようないわば洗脳状態、そうしたことのみを(たとえそれに似た事実があったとしても)BABYMETALの「宗教」性・「聖性」と考える必要はない、ということだ。
(「教義」「教理」「教典」については次回以降に考えていきたい)。
そういうふうに狭く限定する必要はなく、「宗教」「聖性」とはもっと広い射程を持つ言葉なのだ、ということがこの『聖なるもの 俗なるもの』を読んで僕がまず理解したことである。(もちろん、これは僕の曲解かもしれないので、あくまでも責任は、そう理解した僕にある)

では、広義の「宗教」とは何か?

宗教行為とは、「聖なるもの」と関係を結ぶことである

実にシンプルだが、だからこそ深い定義だと思う。

これにしたがえば、僕たちがBABYMETAL(の歌・「演」奏)を「聖なるもの」と感じているかぎり、視聴に没入したりライヴで一緒に歌い踊ったりという行為を通して、陶酔の悦楽・幸福を感じてしまうことを、「宗教」だと称することは、決して的外れではないということになる。
単に、細かな言葉づかいにこだわっているのではない。
BABYMETALの現象面を表面的に語るための大仰な比喩として「宗教」という言葉を使う、というのではなく、BABYMETAL体験のまさにど真ん中に、真の意味での「宗教」性・「聖性」がある、という事実、まずそれを上記の定義に基づいてきちんと確認しておきたいのだ。

この定義によれば、「宗教(的)」とは、単に、熱狂・集団的な狂乱を(比喩的に)表現したものでもない、ということになる。
これも、実感に極めて合致している。
つまり、他のヘヴィメタルバンド(等)への熱狂とBABYMETALにむやみやたらに「泣いてしまう」こととの差異だ。
もちろん僕も、今までに他のヘヴィメタル(等)のバンドに熱狂し、音盤を繰り返し聴き込み、鳥肌を立てたり時には涙ぐんだりし、運よくライヴに参加できたらそこで集団的な狂乱の一員となって腕を振り上げたり、咆哮したりなどしたこともあるが、そこに「宗教」を感じたことなどは一度もなかった。
それは、端的に言えば、そのバンド・楽曲・演奏に「聖なるもの」を感じることがなかったからだ。

つまり、
この定義を基にすれば、
BABYMETAL体験の唯一独自性、空前絶後性とは、
α BABYMETAL=「聖なるもの」
β 観客である僕たちがαととりむすぶ関係

この2つの独自性・唯一性(の積?)にある
、ということになりそうだ。

まず、
α BABYMETAL=「聖なるもの」とは、いったいどういうことか?

ここで、『聖なるもの 俗なるもの』には次のような(BABYMETAL「信者」=僕にはうってつけの)一文が載っているのだ!

「聖なるもの」とは、崇高、優美あるいは清浄というのみではなくて、非日常的で不気味であり、人を魅惑するものであり、しかもそれに対して敬虔さを持って接しなくてはならないようなものであります。

これは、まさにBABYMETALのことだ!
(そう思いませんか?)

① 崇高、優美あるいは清浄
② 非日常的で不気味
③ 人を魅惑するもの
④ それに対して敬虔さを持って接しなくてはならないようなもの

例えば、前々回に挙げた、「赤い夜」の「BABYMETAL DEATH」など、まさにこの①②③④が凝縮・体現されている。
それは、BABYMETALの場合、単純に分析すれば

Ⅰ ヘヴィメタルであること
Ⅱ アイドル(超美少女)であること
Ⅲ 真摯・純情・懸命であること

の縒り合わせからもたらされることだ。

特にキモなのが、「② 非日常的で不気味」である。
ここにたいへんな逆説がある(たぶん、そうした逆説こそが一般的に「宗教」的構造―「奇跡」「不合理ゆえに吾信ず」-のキモなのだろう)。

つまり、BABYMETALの3姫とは、「Ⅱ アイドル(超美少女)であること」において「① 崇高、優美あるいは清浄」という属性を持っているのだが、それに対する「② 非日常的で不気味」とは、「Ⅰ ヘヴィメタルであること」であり、例えば音楽的には本格ヘヴィメタル(超高速・轟音・デスヴォイス)であるということであり、視覚的には骨バンドや神バンド(7弦ギターや6弦ベースも含めて)、針の振り切れたライティング(映像盤『Live in London』の眩しさはアイドル映像作品としては失格モノだろう)、ということになるのだろうが、
「Ⅰ ヘヴィメタルであること」という立ち位置側からすれば、その、「Ⅱ アイドル(超美少女)であること」、日本人の超美少女3人が歌い・踊って「演」奏する、ということが、すなわち「② 非日常的で不気味」になってしまう、ということだ。この逆説!ヘヴィメタルにおけるBABYMETALの衝撃力とはまさにこれだろう。
(逆に言えば、日本のアイドル界―もはや何でもありのカオス状態―を立ち位置にするならば、BABYMETALの3姫の「② 非日常的で不気味」はあまり先鋭化されず、泣いてしまうほどの聖性を感じる、なんて言っても、「キモい…」という反応が返ってくるだけなのかもしれない)

「なんじゃこりゃ!」「ありえない!」
僕たちメタルヘッズのBABYMETAL受容は、まずそこから始まるのだが、それこそがすなわち「聖なるもの」を受容した反応だということなのだ!
まずは、ソッ閉じからはじまる。そこにこそBABYMETALの聖性がある、って、まさに「パウロの回心」と同様の構造なのではないか(これも次回以降いつか詳しく考えたい)。

もちろん、そうした「非日常で不気味」なものを「聖なるもの」として感じるには、「④ それに対して敬虔さを持って接しなくてはならないようなもの」がなければならない。
BABYMETALの場合、それは、何といっても3姫の「Ⅲ 真摯・純情・懸命であること」からもたらされるし、あるいは、神バンドの演奏力や練りに練り上げた高品質の扇情的な楽曲が、メタルヘッズにとっての④であるのだろう。あと、(言うまでもなく)SU-METALの歌声が。

どうだろうか?(おっさんメタルヘッズとしての)率直な実感として、上記のような構造において、僕たちがBABYMETALを「聖なるもの」と感じて(泣いてしまって)いる、ということは確かなことだと思えるのだが。

やや余談になるが、ここで改めて確認しておきたいのが、
やはりBABYMETALは「奇跡」なのだ、ということだ。
僕たちの多くがそう感じているそのまんま、これも決して大仰なレトリックの文言ではなく、まさにBABYMETALの降臨というのは、①②③④、ⅠⅡⅢによる「奇跡」、ありえないことの実現、なのだ。

そうなると、前回で否定的なコメントをした「泣いてしまう」要素「9.儚さ」 が、むしろ、僕たちがBABYMETALに涙を流す最大の要素だと言ってよいのかもしれない、とも思うのだ。

BABYMETALは全く新しい音楽ユニットなのだが、単に今までになかった、というだけではなく、もう二度とこんなユニットは出てこない・出てくるはずがない、ということは明らかであり、そうした唯一無二性という意味での「儚さ」が僕たちを泣かせるという側面は、確かにある(ように思われる)。
というか、映像作品を観るたびに(あるいは、もちろんライヴの現場で)まさにそうした「奇跡」を痛感して僕(たち)は涙していたのではなかったか

もちろん、似たようなユニットを送り出すことはできる。
Ⅰ’ ヘヴィメタルであり
Ⅱ’ アイドル(まあまあ魅力的な少女)であり
Ⅲ’ 真摯・純情・懸命に見えるようなパフォーマンスをすること
はできるはずだし、すでにそうしたユニットも出現しているのかもしれない。
ビジネスとしては誰も非難できない(日本のお家芸?)し、効率はよい。

しかし、それは絶対にBABYMETALにはならない。
「聖なるもの」なんて感じさせるはずがないし、おっさんメタルヘッズたちが腑抜けになり通勤電車の中で音盤を聴きながら「泣いてしまう」、なんてなるはずがない。
って書くのも馬鹿馬鹿しいほど、皆さんおわかりのとおりである。
ⅠもⅡもⅢも、すべて本物で、どれも最高級の品質で、驚くほど真心をこめてつくってある。こんな「奇跡」的なユニットはもう二度と出てくるはずがないのである。
そんな「奇跡」にリアルタイムで出会えている、そんな涙。
(こう書きながら、書く本人が涙ぐんでいます…)
その何割かには「9.儚さ」もある、と言ってよいと今は思っている。

さて、
β 観客である僕たちがαととりむすぶ関係について、簡単に触れておこう(詳しくはまた考察したい)。

僕たちが、ライヴに参加することはもちろん、音盤や映像作品を視聴しながら涙を流すとは、「聖なるもの」にうたれている、という意味で、「宗教的な行為」なのだ。

儀式の本質は「行為によって意味を演ずること」です。(『聖なるもの 俗なるもの』)

これは、演者の側にも観客の側にも言える。
ダンスメタルユニット、BABYMETALの本質。
つまり、通常のバンドとは全く異なり、BABYMETALは舞踊によって(も)「演」奏するということが、「聖性」を本質的に帯びている、ということだ。
巫女の舞、をおもわせる舞踊は「メギツネ」や「BABYMETAL DEATH」ではっきりと目にすることができるが、それだけではなく、すべての楽曲における、とりわけYUI・MOAの「演」奏とは、上の定義の「儀式」であるのだ。
(これもまた改めて考察したい。それにしても、このブログの当初にはもやもやしていた、彼女たちの舞踊はふつうのダンスとは全く違う、ということの内実が、かなり具体的になってきた。こうしてブログを書きつづけていてよかった…)

そして、BABYMETALのとりわけライヴにおける僕たち観客の、幾重にもかさねられた儀式、例えば(生ベビ考でも触れたが)ベビメタ黒Tを着てライヴ会場に集結し、YUI・MOAの煽りに応えて大声を張り上げたり、一緒に「合いの手」をあげたり、(僕は避けたが)モッシュやそれこそWODに参加したり、という「行為によって意味を演ずる」儀式も、まさに宗教的行為なのである。

そして、この儀式は、まさに掛け算である。
BABYMETALという仕掛の「凶悪さ」がここにある。

<アイドルファンとしての儀式(合いの手など) × メタルヘッズとしての儀式(黒T、モッシュ、WODなど) → 他に類をみない、とんでもない陶酔・悦楽 → 滂沱の涙>

そう。アイドルとメタルの融合とは、(演者BABYMETALにひけをとらないほど)僕たち観客においてその意味を発揮しているのだ。

…御柱祭の場合、この祭りの興奮に酔っている者たちは、仲間意識を強く持っています。自分だけが行なっているのではなくて、「御柱祭という集団行為に参加している」という連帯感が生まれているのです。…このように、集団的宗教行為においてその参加者たちは、「聖なるもの」(御柱祭など)が引き起こした気分の中に、比較的容易に―つまり、長期における苦行とか修練がなくとも―「自分たちも聖なるものに接している」という意識を持つことができます。

集団における宗教的狂乱、とは、常識的にもよく言われることなのだろうが、BABYMETALを考える上では極めて大切なことだ。
ライヴ会場でのモッシュやWOD、あるいは観客が一体となった「合いの手」。これは、単に結果として観客全員が盛り上がった、ということではなく、その楽曲や振り付けにおいて演者のBABYMETALが意図していることである。ライヴに参加すれば、それは嫌というほど体感できる。ベビメタTシャツで占拠されていた幕張の街の壮観についても述べたことがあるが、こうしたことは通常のバンドにおいては付加価値なのかもしれないが、BABYMETALにおいてはその本質のひとつというべきものだろう。
観客を煽り、陶酔させるための、楽曲、演奏・歌・舞踊。
まさに「儀式」なのだ。

そして、(今回の)最後に、泣けるひと言を、『聖なるもの 俗なるもの』から。

宗教はこの上なく謙虚な営みでありますが、一方でこの上なく欲張りな営みであるともいえます。

「この上なく謙虚」で「この上なく欲張り」。
これもシンプルだが味わい深く、BABYMETALの核心に触れた文言だ、と読めてしまう。
僕たちが泣いてしまうBABYMETALとはまさにこれを体現したものだろう。

「この上なく謙虚」とは、もちろんまず何と言っても3姫の人柄・姿勢の謂であるのだが、ステージ上でのふるまいもそうだ。MCもなければ企画コーナーもない。ただただシンプルにわずか15曲ほどのレパートリーを全身全霊で歌い・踊る。それがそのまま「この上なく欲張り」な(例えば、音の面でも視覚面でも、超絶的に高品質で圧倒的な情報量の)ものになっているのだ。

さらに、売り出し方も含めたBABYMETALのありよう。
これもいろいろなところでそういう書き込みを目にするが、中元すず香、水野由結、菊地最愛、3人ともとんでもない才能の持ち主で、いろんなジャンルのいろんなシーンでいろんな活躍ができるはずだ。
そんな3人が「Three Giris were chosen and given the holy metal name by the FOX GOD. He named them "BABYMETAL"...」によって、ただただ真摯に、命を削りながらヘヴィメタルを「演」奏するのだ。
本当に楽しそうに、生き生きと。

それを観る・聴く、こんな贅沢があろうか。

そのありがたさに涙が出る

これも、おそらく、僕を含めた多くのおっさんメタルヘッズ(洋楽ファン)の偽らざる実感だろう。






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