ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』07)

2015-09-27 23:53:33 | babymetal
『メタル・エヴォリューション』第7回は、<革命!グランジ・ロックの光と翳>と邦題のついた、グランジをめぐる考察の回である。

『メタル・エヴォリューション』全11回のなかでも、いちばんこのブログで語りにくい回であった(あと4回残っているが、たぶん間違いない)。
仕事が忙しくてなかなか手をつけられなかった、という物理的な事情もあったのだが、今回までのブログの更新がなかなかできなかったのは、このグランジという対象に手をやいていた、ということも大きかったのだ。

具体的に言えば、この回に出てくる、ニルヴァーナ、パールジャム、サウンド・ガーデン、アリス・イン・チェインズ、ニッケルバック、といった数々のバンドについては、名前はもちろん知っているし、いくつかアルバムを買ったり借りたりしたこともあるのだが、残念ながら「愛聴」してきたと言えるバンドもアルバムも曲も、ひとつもないのだ。
むしろ、忌避してきたというのが正直なところだ。

僕がヘヴィ・メタル(別に、ハード・ロックという呼び名でも構わない、シェンカー時代のUFOなんてヘヴィ・メタルと呼ぶのにはむしろ違和感があるのだが)に求める<激情・疾走・様式美・感涙>といったツボのない、むしろその対極にあるともいうべき「グランジのかっこよさ」は、ひと言でいえば、苦手なのだ。

日本人には合いにくい、などと一般化するのは乱暴だろうか?(もちろん、乱暴だ。)
むしろ、世代差なのだろうか?(多少はそれもあるはずだ。)
でもまあ、結局は、単なる好み、あるいは、出会うタイミング、等等からくるものなのだろう。僕と同世代のおっさんでも、上にあげたバンド(のいくつか)を「愛聴」してきた方も大勢いらっしゃるだろうし。
ともかく、仮にグランジがメタルの進化形だとしても、それは僕にとっての「俺(たち)のメタル」ではない、そう感じて避けてきたのだ。

その苦手・不得手な対象に、今回、このブログを書くためにぶつかってみたのであった。
ヘヴィ・メタルの「通史」(進化史)の上でBABYMETALを考える、というのが、このブログのそもそもの指針なのだから、苦い汁でも飲んでみなくてはならない、大袈裟にいえばそんな覚悟で、『M・E』第7回を観、BABYMETALと突き合わせて考え、その上でまた観直す、ということを何度か繰り返してみた。
結果として、それなりの実りはあったと思う。
グランジと併せて考えることで、自分なりに、BABYMETALについて改めていろいろと発見・納得できたのだ。
その実りを、今回ここに記してみる。

まず、
BABYMETALはグランジか?
と問われて、Yes、と答える人はほとんどいないだろう。
そう、もちろんBABYMETALはグランジではない

では、その、BABYMETALがグランジではないということの内実とは何なのか?
それを考えることは、BABYMETALとは何か?をグランジという角度から逆照射することでもあろう。
(しかし、意外なことに、番組のこの回を見終わって感じたのは、グランジとBABYMETALの(より深層における)共通性でもあったのだ。後述。)

それ以前に、
果たして、グランジはメタルなのか?
そもそも、グランジとは何か?
メタル・エボリューション第7回は、そうした問いからはじまる。

グランジはメタルなのか?
メタルの進化史にグランジが果たしてきた役割があるとすればそれは何なのか?
逆に、グランジのミュージシャンは、自分たちをメタルと位置づけているのか?

そうした問いに対しての、番組内での、グランジ・ミュージシャンたちの発言をまとめるならば、グランジとは、とりわけヘア・メタル(”なぜか”日本ではLAメタルという呼称が定着しているが、この「メタル・エヴォリューション」では、ヘア・メタルあるいはグラム・メタルという呼び方がされている。確かにその方が”性質”の謂いになっているからより”正確”であろう。おそらくBURRN!誌に発するであろう「LAメタル」という呼び方にいまさら異を唱えようとなどとは思っていないが、このブログでは今後もヘア・メタルあるいはグラム・メタルと呼ぶことにする)に対するアンチテーゼとして出現したものだ

しかし、音楽スタイルは、明らかにメタルの先人たちの影響を受けてもいる。実際に、何人もの口から、影響を受けたバンドとして、アイアン・メイデンやヴァン・ヘイレンやモーターヘッド等の名前があがっていた。グランジも、ヘヴィであることを核心にした音楽、ではあるのだ。(そうでなければ、『メタル・エヴォリューション』にグランジなるものが登場してくるはずもないのだから、これは当たり前の話だが)。

では、その、アンチテーゼとはどういうことか?

それは、例えば、「メタルにありがちな超絶テクニック」への反感だ。
ヘヴィ・メタルは常にテクニック至上主義があったんだ。下品な露出狂めいた傾向があった。
とか、
(当時のメタルには)派手派手しいケバケバしい要素があった。それに対してグランジのバンドはストレートな表現を志していた。火炎噴射もなければ大量のマーシャル・アンプを並べたり、巨大なドラム・キットもない。音楽的な才能はどうであれ、機能としての音楽がそこにあった
とか、語られている。

そうした、ヘヴィ・メタルの持つある種の装飾性(悪く言えば虚飾性)への反抗として、より「知的」な「ストレートな表現」を志向した音楽、それがグランジだと定義してもよいだろう。
(その「ストレートな表現」とは、音楽的に言えばパンクとの融合ということになる)

例えば、サウンド・ガーデンのキム・セイルは
当時ファッションとされていたのは(ラットの「派手」なメンバーの写真が映る)若い女子向けな髪型とか音楽だったんだ。(ヘヴィはヘヴィだったけど・・・)あんなチャラい音はまるでパートリッジ・ファミリーさ
なんて言うし、他にも、
退廃的で自堕落でのノータリンの体育会系な音楽なんて、まともな人達には通用しなかったのよ
とか、
俺たちにしてみれば、あいつらのヘアスプレー音楽はジョークでしかなかった。大バカ用の音楽だね
なんて言葉が、様々なグランジ・ミュージシャン達の口から出る。

ひどい言われようだが、でも、まあ、よくわかる。それはそうだ。
今から振り返るとなおさらだが、「LAメタル」全盛の当時であってさえ、僕もヘア・メタル・バンドを「愛聴」することなんてなかったし、そうした嫌悪感は感じていた。

さて、では、
BABYMETALは、グランジか?それともグランジが否定しようとしたヘア・メタルか?
と二択式で問うならば、
明らかに、ヘア・メタル側に入ると答えなければならないはずだ。
例えば、「超絶テクニック」が大きな魅力の一つであり、「火炎噴射・大量のマーシャルアンプ・巨大なドラムキット」的な演出は(初期に比べればかなり減衰してきたともいえるが、それでもやはり)ふんだんである。
だいいち、ステージ上で可愛い女の子3人が高速激音にのって歌い・踊りまくる(これがBABYMETALの「本質」だ)なんて、「チャラい」といえばこんなチャラいものはないとも言えよう。

だから、BABYMETALはその音楽性・演出面においてグランジとは対極にあるというべきなのだが、しかし、もっと俯瞰して眺めるならば、意外な共通性もある、ということを、この回全体を通して観て、痛感した。今までもそれなりにわかっていたことであったのだが、グランジと比較対照しながら考えることで、それが鮮明になったのである。(今回の探究の「実り」だ)。

<共通性その1>
これは以前の回でも触れたことではあるが、
このシリーズの制作過程でわかったことは、音楽が誕生するには発祥の都市に理由があることだ。60年代にメタルが誕生したバーミンガムから80年代のベイエリアまで。・・・シアトルはどのようにしてグランジを生むことになったのだろうか
とサム・ダンも語るような、
音楽性の本質と発祥地との極めて深い関わり(必然性)、だ。

シアトル。この街だからこそ、グランジが誕生した

何人かがシアトルについてこう語る。
天候や経済かな。低賃金の仕事。とにかくシアトルはやることがない上に雨が多くて退屈なんだ。
シアトルは貝の中に住んでいるかのように湿っているんだ。未成年の飲酒が多発していたな。・・・ついでに成人の飲酒もな
シアトルには飛行機を作ったり木を伐採したりというブルー・カラーな伝統が元々あった。だからハード・ロックやメタルは割と受け入れられやすかった。シアトルは学生の町でもあったから80年代にはホワイト・カラーであるヤッピーもいて、ハード・ロックやメタル好きな労働者とパンクやアンダーグラウンドが好きな学生がいることによってグランジができたんだ。小さな町で全く異なった音楽が融合したんだ。

これは、シアトルの街の雰囲気・たたずまいを語っているのだが、確かに、これはそのままグランジという音楽のもつ冷ややかな空気感の謂にもなっている。

ここの発生の論理は、まったくそのままBABYMETALに置き換えることができる。

日本、とりわけ、東京だったからこそ、可愛いアイドルとメタルの融合、などという馬鹿げたものがとんでもない高次元において生れたのだ
(これは、例えば、オフィシャルのトレーラー「BABYMETAL - My First HEAVY METAL in TOKYO 2012」で、BABYMETAL陣営自身が宣言していることでもある)。

余談だが、だから、LAメタルなんて呼称を考え出した(とは、勝手な憶測だが・・・)BURRN!誌は、本来、いわば「東京メタル」とでも称してBABYMETALを新しいメタルのかたちとして取り上げるべきなのだ。海外のバンドではないから、などといって取り上げ(られ)ないのは、実に頓珍漢な自縄自縛の事態であろう。まあ、ごく近いうちに、必ず「回心」してくれるはずだ、と僕は信じ、その日を楽しみにしているのだが。


<共通性その2>
なぜグランジという”新しい”音楽が生まれたのか?について、番組内にこんな語りがあった。
それでヘア・メタル・バンドが潰れるならどうぞどうぞ。実際潰していたからね。
レコード会社はひどい音楽を送り出し、自分自身を隅っこに追い詰めていた。まともで聴き心地の良い音楽を探していたんだと思うよ。まともな人間が作る、感情のこもったー、そして少しばかりのオリジナル性がある音楽を求めていたんだ

そう、単に、異質なものを融合して、魅力的・刺激的な「新商品」を造り上げた、というのではない、「まともな音楽」という意味での新しさ、だ。
僕たちメタルヘッズがBABYMETALに夢中になるのは、まさにそこに(も)核心があるのではないか。
これが、今回、グランジの考察のなかで、改めてBABYMETALについて認識したことである。

それにしても、改めて考えてみれば、これは何とも凄いことだ。
まさに「AWESOME!」としか言いようがない。
だって、美少女アイドルの歌や高速ダンスと融合させることで、沈滞していたメタルを「まとも」にする、って!

今や、BABYMETALが確かな「実績」を積み重ねているから、「そういうこともある」とか「みんな考えてはいたんだ」なんて感じたり言ったりしてしまうかもしれないけれど、BABYMETAL出現以前に、こんな馬鹿げた、与太な文言は、誰も受け入れないどころか、そもそも、思いつきもしないし、ましてや、実際に、膨大な人と時間とお金と手間をかけて実行しよう、なんてするはずもない。

重要なのは、それが、単に、奇抜なアイディア商品、というのではなく、「まともな音楽」を真摯に実現しようとし続けている、ということなのだ。

先日の、FM802 REDNIQS出演の最後に、SU-METALが、いつもの「アイドルでもメタルでもなくBABYMETAL」という台詞の前に「アイドルでもメタルでもあり」と付け加えていたのが個人的にはとても印象的だった。

最終的な目標として、私たちはアイドルでもメタルでもあり、アイドルでもメタルでもない、新しいジャンル、BABYMETALっていう新しいジャンルを作りたいと思っていて、これからも自分たちの信じる道を進んでいく、のみかな、って思っています。

ああ、いつものあれだな、とか、KOBAMETALが書いた文言をそのまま喋ってるだけだ、なんて思った方もいるかもしれないが、僕はそうは思わない。
これは、(もちろん、方向性はFOXGODから与えられたものだろうが)SU-METALの心からの本音だと思う。
昨年末放映の『BABYMETAL現象』の収録からも約1年、ワールドツアーも2年目を迎え、さまざまなフェスにも参戦しながら、他のヘヴィ・メタル・バンド等と自分たちの違い、つまりBABYMETALの独自性をSU-METALじしんが肌で感じたからこそ出てきた言葉だろう。

他のバンドとは異なる「ウケ方」、それが自分たちが「美少女アイドル」であることから来る、ということを各地での歴戦を重ねながら(「ミュンヘン事変」も含めて)ひしひしと体感しただろう。
最新の、ギミチョコ!!での3人で顔を寄せての「シンギーン!」なども、そうした自己認識の深化からきた、パフォーマンスの深化・先鋭化だろう。

話は少し逸れるが、馴染みのなかったグランジ・バンドのなかで、例外的に、クリードだけは、今までも僕が「愛聴」に近い聴き方をしてきたバンドだった。
のだが、番組後半で「グランジ第二世代」として取り上げられ、グランジ第一世代のミュージシャンからも評論家からも、
「嫌いだったな。独創性がまったくないのが頭にくるんだよ」
「詐欺師バンド」
「ただの猿マネだよな」
「まるっきり凡庸だった」
「作為的なラジオ受けのいいイミテーションだ」
「レコード会社の思惑・・・少しばかりの苦悩感とメロディが書けるバンドを探そう、あまり挑戦的なものでなく、大衆に受け入れてもらえるものをやってみようってね」
等々、ひどい言われようであった。
・・・確かに、このように批判されるのはわかる。でも、いい曲はあると思うけど・・・。
でも、その「いい曲」という甘口が批判されているのだ、と言うことを痛感したのだ。

そう、上で触れた、「まともな音楽」と「いい曲」(ヒットする曲・大衆にウケる曲)とは違う、ということだ。
簡単に言えば、それがロック・ミュージックであり、ヘヴィ・メタルである以上、何らかの「なんじゃ、こりゃ!」的な衝撃・異質感を持っていなければならない(持ち続けなければならない)ということだ。

ヘヴィメタル然としたヘヴィメタルが、いかにもヘヴィメタルであるがゆえに「ヘヴィ」でも「メタル」でもないという自家中毒的な逆説。

アイアン・メイデンの先日リリースされた新譜にも、残念ながら、僕はそうしたものを感じてしまった。いかにもメイデンらしい重厚な楽曲が続く、「おう!これがメイデンだ!」と思いながら、3回ほど聴いた後ではもう、「聴きたい!」という燃えるような思いを持たせてくれる魅力が褪せてしまったように感じてしまったのだ。ひと言でいえば、安心感はあるけれども、裏切りがない。なさすぎる。(新譜がお気に入りの方、ごめんなさい。個人的見解です)。

BABYMETALが「まともな音楽」だというのは、そうしたヘヴィメタルがヘヴィメタルであるがゆえにもつその退屈さ(あくまでも個人的な、でも正直な実感です)を吹き飛ばす、「なんじゃこりゃ!」を常に伴っている、ということだ
異端、異形だからこそ、ヘヴィメタルとして(広く言えばロックミュージックとして、あるいは音楽として、あるいはエンタテイメントとして)「まとも」だ、ということ。
これもまた大きな逆説だろう。


<共通性その3>
『M・E』の、他の回と同じように、グランジをめぐるこの回でも、新しく生まれたムーヴメントが、次第に(あるいはあるきっかけで急激に)認知・支持され、やがてメジャーレーベルと契約し、人気が大規模に爆発し、「商品」として売れまくり、そして、やがて干からび衰退していく、という、その「盛衰」ぶりが語られる。

1994年のカート・コベインの自殺は、グランジ衰退の象徴ではあっても、原因ではなかったと。
実際にカートの自殺はシアトルのシーン、そしてグランジの進化にどのような影響を与えたのだろうか?
カートが自殺した時には、すでにグランジもピークを過ぎていたから、残っていたのは商業的に活動をしていて、大手のレコード会社に所属していたバンドだけだったよ。90年代のビジネス・プランにのっとった活動をしているものだけ。オリジナルの源泉はとっくに干上がっていたんだ。
もうその頃のバンドは楽しむために音楽を演奏してなかった。大手のレコード会社と契約をしてお金儲けをするためにシアトルに集まっていた。もうシアトルのシーンは様変わりしていたんだ

このあたりも、まさに『メタル・エヴォリューション』、すなわち、進化の機微だろう。

このグランジさえも免れなかった衰退を鑑みたときに、気づくのは、
いかに(爆発的にヒットして「消化されつくす」ことなしに)長く鮮度を保ち続ける、音楽的な「意味」を保ったユニット、刺激的な存在であり続けるか?
KOBAMETALを中心にしたBABYMETAL陣営の「戦略」は、すでにその次元を見すえているようだ、ということだ。
(だから、「こうすればもっと売れるのに、それをしない陣営はアホだ」といったファンの発言こそ、とんでもなく的外れだ、というべきなのだろう。メタル進化史のうえに累々と積み重なる「屍」を見よ!)

いかに地盤をしっかり固めるか?

世界的にファンがじわじわ増えつつある今だからこそ、そこを見ている気がする。

今回のテーマとは直接関係はないが、黒ミサⅡでKOBAMETALの姿を(2~3曲の演奏中に)眼前1mくらいのところで見た(おかげでCMIYCでの3姫がよく見えなかった・・・)ことは少し書いたことがあるが、そのときの彼の姿は、率直に言って、「怖い」というものだった。

まったく首を振ったり身体を揺らしたりすることなく、両耳にイヤフォンを挿してじっと聴きながら、ステージと熱狂する観客席を冷静に厳しく観察している、そんな風に見えた。
(まあ、逆に、KOBAMETALが観客と一緒にノリノリで、笑顔で「キンキラリーン!」なんてはじけて跳ねていたりしたら、もうBABYMETALも終わりだろうが。)
だから、冷静に「仕事」をするのは当然といえば当然なのだが、冷徹ともいうべきたたずまいの「怖さ」に、今落ち着いて考えると、安心を感じるのだ。

おそらく、KOBAMETALも想定していなかった早さと大きさでBABYMETALの人気は世界規模の広がりを進めている。(というか、こんな奇妙なユニットが、こんなに受け入れられるなんて、誰ひとり想像できるはずがない)。
だからこそ、その広がりに、きちんと根を据える営み、それを、Zeppツアーや、ツタヤのレンタルや、(マイナーな)ラジオやテレビの情報番組のみの露出、というかたちで行なっているのかもしれない。

BABYMETALの「メタル・レジスタンス」は、すでにそうした次元に入りつつあるのではないだろうか。つまり、「上を向いて歩こう」ではなく、「地面を見て、確かな足跡を深い地層にまでくっきりとつけよう」という次元に。

いま、国内「ドーム」ツアーなんてやったら、(地方では完売にならないかもしれない、という心配などでは全くなく、逆に)、そこで消費されてしまう。そうした「怖れ」を感じているのかもしれない。そして、それは、今回の『M・E』を観ても、実に「正しい」姿勢だと思う。
もちろん、いくらそうした営みを重ねても、人気が爆発し、「消化」されてしまうかもしれない。しかし、できる限りの杭は打っておくべきだろう。

それは、もちろんビジネスとしての長期戦略である。
しかし、それはまた、BABYMETALという異形でありながら(あるからこその)とんでもない「逸材」をプロデュースすることにおけるメタル界(を超えたロック界、音楽界、エンタテイメント界)に対する使命感・責任感、でもあるはずだ。

こんなとんでもない3人が揃い、そして、こんなに見事にすくすく成長するなんて、奇跡としかいいようのない、空前絶後のこと、もう二度と起こりえないことである。
それは(言うまでもなく)、僕たちファン以上に、関係者皆がわかりすぎるくらいわかっていることなのだから。

初期の設定のような「少女期のみのユニットだから、もうすぐ解散…かもしれません」といった儚さをまとわせつつ、華々しく咲き・散る(だろう)、というコンセプトならば、プロデュースもずっとずっとたやすかっただろう。楽しかっただろう。

しかし、今のBABYMETALは、(永遠などということはありえないにせよ、しかし)覚悟としては永遠に刺激的(音楽的な意味をもった)な「生きた」ユニットでありつづける、そんな役割を果たすこと、それを目指しつつある。SU-METALの前述の宣言にもそれが表れている。
そこまで辿りつくためには、今なにをすべきなのか。
そんな「壮大な」考えで、いま動いているのだ。

最後はまったくグランジとは関係のない感慨になってしまったが、しかし、グランジの盛衰を観たからこその、実感である。
それほど頓珍漢なことを語ったのではないはずだ。