ぼくの軌跡
原稿用紙4枚に自分の生きてきたみちを書いてみな!と誰かに言われた。誰だか忘れたがやってみるか。ノートにキーワードを並べてみた。それをちょっと文にしてみた。お粗末なものだ。まだ誰にも原稿を見てもらっていない。間違っている場面も多々あると思う。ご指摘をしていただければ幸いです。また、こんなこともあったよと追加する場面があったら教えて欲しい。
かまどでご飯を炊いたり、さつまいもやジャガイモを茹でたりしたことを書き忘れた。かまどのご飯炊きは難しい。「はじめちょろちょろ中ぱっぱ・・・」、こんな言葉なのか歌なのかあったな。
http://www.okome-adv.jp/knowledge/cat2/post-20.html
白菜の漬物だ。たくさん買ってきて(リヤカーで引っ張ってきた思い出がある)割って干すのが私の役割。母は漬物が得意だったらしく近所の人たちの分も作っていた。
まだまだ積み残しはいっぱいあるが、現時点でのまとめを紹介したい。
私は昭和21年1月8日、東京都北多摩郡武蔵野町で、父角一・母ミツエの長男として生まれた。歴史を、戦前、戦中、戦後に分けると私の育ちは戦後だが、種の起源は戦中になるのか。「8・15」の時は5ヶ月で母のお腹の中にいた。当時の武蔵野町の人口は4万人強。(2016年10月6日現在 145,296人)東京の郊外と言われた。住宅は中島飛行機の社宅あと。我が家は倉庫を改修したバラックの6畳一間。隣は松井医院。広場があり集会場があり、まわりには八百屋、魚屋、雑貨屋、お茶屋、米屋、床屋などの小さいお店が並んでいた。
私が小さい時の思い出を三つあげると、一つはアメリカ(連合軍とは思わなかった)に占領され、すべてが怖かったこと。その中でも立川飛行場が近くだったので、大型輸送機の騒音がすごいのです。電灯が大きく揺れ、頭が叩きつけられるようです。また未舗装の五日市街道はトラックとジープのガタガタ音で威圧された。特にMPの黒人がでかく近くに来ると逃げた記憶がある。二つ目は迷子になったこと。電車内は傷痍軍人がいて気持ち悪く怖かった。巣鴨の刺抜き地蔵に行った時。どうしようもなくて泣いた、声が枯れるほど泣いた。やっと母が迎えに来てくれた。吉祥寺でも迷子になった。北口の公衆便所の前で泣き続けた。三つ目は自然が綺麗だったこと。小川が流れタニシもとれた。堰き止めてプールみたいにして遊んだ。鶏が首を絞められるのを見てそれ以来鶏肉は苦手。多摩の山々の上に富士山がどっかりと浮かび、本当に近く見えた。
目を閉じ小さい頃を思い浮かべてみてもはっきり浮かんでこない。ほのかな思い出を紹介したい。
小さいながら一番苦労したことはなんですかと聞かれれば即座に水汲み・水運びと答える。共同の井戸が一本道を挟んだ前のうちの庭にある。ぎったんばっこんやって水を汲み上げ、バケツに入れて両手で自分の家に持ってくる作業。日に何回やったのだろう。井戸端会議という言葉はここから生まれた。
子どもたちは夕方になると七輪を出しサンマを焼く準備。新聞紙、マッチ、炭を用意。焼き加減が難しい。町じゅうサンマの煙と匂いになる。楽しみだったのは自転車でくる紙芝居。黄金バットを見るより飴が欲しかった。広場で映画会が行われた。スクリーンを立て夜暗くなるとみんなゴザを引いて場所を取る。なぜか一番覚えているのは「のんちゃん雲に乗る」。
盆踊りは町会の最大行事だった。役割分担がきちんとされていた。丸太でやぐらを立てるのは、太鼓を叩くのは、踊りは、金銭出納は、放送は、書き手は・・・。炭坑節、井の頭音頭、東京音頭が繰り返される。子どもたちは小遣いをもらって友だちと屋台を回るのが楽しみだった。夜外出できるのはこのような時だけ。
「ばくだん」というお菓子も思い出がある。巡回業者が子どもが集まる広場などにポン菓子製造用の器具を持ってきて、目の前で作ってみせ、ボンという音に惹かれて集まった。
家の前の掃除は子どもたちの役割。どこの家庭にもコンクリートのゴミ箱があった。誰に言われなくても掃除はきちんとした。行商といえば富山の薬屋さん。各家庭に薬箱があってその中を入れ替えていく。お土産が楽しみだった。年に2回来るのかな。
遊びはかけっこが主流だった。広場での相撲。ベーゴマ・ビー玉遊びはもうちょっと大きくなってから。
一時期、隣に歯医者ができた。電動モーターがない時代だから人力だ。足踏みモーターは回転数が上がらず痛いのなんの。ヤブ医者だからなおさら痛い。
占領下の生活は貧しかったが、ぬくもりと温かさ思いやりのある社会だった。共同体という雰囲気だった。それは武蔵野という独特の自由と民主主義の地だったからだろう。畑と雑木林という武蔵野台地の環境もあったに違いない。
「8・15」を母のお腹の中で迎えた私の小さい時の想い出を書いてみた。酔っ払ってちゃぶ台をひっくり返す父親の姿はもう見れない。玉川上水の桜見物と土左衛門、グリーンパーク球場の人だかり、皇太子殿下の馬小屋の火事は脳裏から離れない。
たった70年で自然も文化も人の暮らしも何もかもが変わってしまった。プラスからマイナスへの移行で豊かさをどう保っていくのかが課題ではなかろうか。
私が小さい時の思い出を三つあげると、一つはアメリカ(連合軍とは思わなかった)に占領され、すべてが怖かったこと。その中でも立川飛行場が近くだったので、大型輸送機の騒音がすごいのです。電灯が大きく揺れ、頭が叩きつけられるようです。また未舗装の五日市街道はトラックとジープのガタガタ音で威圧された。特にMPの黒人がでかく近くに来ると逃げた記憶がある。二つ目は迷子になったこと。電車内は傷痍軍人がいて気持ち悪く怖かった。巣鴨の刺抜き地蔵に行った時。どうしようもなくて泣いた、声が枯れるほど泣いた。やっと母が迎えに来てくれた。吉祥寺でも迷子になった。北口の公衆便所の前で泣き続けた。三つ目は自然が綺麗だったこと。小川が流れタニシもとれた。堰き止めてプールみたいにして遊んだ。鶏が首を絞められるのを見てそれ以来鶏肉は苦手。多摩の山々の上に富士山がどっかりと浮かび、本当に近く見えた。
目を閉じ小さい頃を思い浮かべてみてもはっきり浮かんでこない。ほのかな思い出を紹介したい。
小さいながら一番苦労したことはなんですかと聞かれれば即座に水汲み・水運びと答える。共同の井戸が一本道を挟んだ前のうちの庭にある。ぎったんばっこんやって水を汲み上げ、バケツに入れて両手で自分の家に持ってくる作業。日に何回やったのだろう。井戸端会議という言葉はここから生まれた。
子どもたちは夕方になると七輪を出しサンマを焼く準備。新聞紙、マッチ、炭を用意。焼き加減が難しい。町じゅうサンマの煙と匂いになる。楽しみだったのは自転車でくる紙芝居。黄金バットを見るより飴が欲しかった。広場で映画会が行われた。スクリーンを立て夜暗くなるとみんなゴザを引いて場所を取る。なぜか一番覚えているのは「のんちゃん雲に乗る」。
盆踊りは町会の最大行事だった。役割分担がきちんとされていた。丸太でやぐらを立てるのは、太鼓を叩くのは、踊りは、金銭出納は、放送は、書き手は・・・。炭坑節、井の頭音頭、東京音頭が繰り返される。子どもたちは小遣いをもらって友だちと屋台を回るのが楽しみだった。夜外出できるのはこのような時だけ。
「ばくだん」というお菓子も思い出がある。巡回業者が子どもが集まる広場などにポン菓子製造用の器具を持ってきて、目の前で作ってみせ、ボンという音に惹かれて集まった。
家の前の掃除は子どもたちの役割。どこの家庭にもコンクリートのゴミ箱があった。誰に言われなくても掃除はきちんとした。行商といえば富山の薬屋さん。各家庭に薬箱があってその中を入れ替えていく。お土産が楽しみだった。年に2回来るのかな。
遊びはかけっこが主流だった。広場での相撲。ベーゴマ・ビー玉遊びはもうちょっと大きくなってから。
一時期、隣に歯医者ができた。電動モーターがない時代だから人力だ。足踏みモーターは回転数が上がらず痛いのなんの。ヤブ医者だからなおさら痛い。
占領下の生活は貧しかったが、ぬくもりと温かさ思いやりのある社会だった。共同体という雰囲気だった。それは武蔵野という独特の自由と民主主義の地だったからだろう。畑と雑木林という武蔵野台地の環境もあったに違いない。
「8・15」を母のお腹の中で迎えた私の小さい時の想い出を書いてみた。酔っ払ってちゃぶ台をひっくり返す父親の姿はもう見れない。玉川上水の桜見物と土左衛門、グリーンパーク球場の人だかり、皇太子殿下の馬小屋の火事は脳裏から離れない。
たった70年で自然も文化も人の暮らしも何もかもが変わってしまった。プラスからマイナスへの移行で豊かさをどう保っていくのかが課題ではなかろうか。
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