人生必ず死が来るというが
今日、いつものようにLEOくんと調布飛行場の小高い丘に行った。だーれもいない!でもあたらしい道が出来ている。ふと、一つの詩と一つの絵を思い出した。何か虫の知らせがあった。やっぱり悲しい知らせが入った。
ご報告です。
9月2日に主人が亡くなりました。
この2ヶ月はとても厳しい闘いの日々でした。
人前では気が張っていますが、一人の時は泣いてばかりです。
この道より我を生かす道はなし、
この道を行く。
武者小路実篤
http://www.mushakoji.org/saneatsu/life.html
「道」1950(昭25)
「残照」に引き続き、大きな評価を得た彼の代表作。
道は最初からそこにあるのではなく、
切り拓かれ何度も踏み慣らされて、やがてかたちを成してゆく。
人は今までもこれからも、そうやって「道」を作ってゆくのだろう。
絵の前に立つと、背中に今まで歩んできた道さえも感じられ、
目の前に潔くまっすぐに伸びる道は、
私たちに未来へ向かう希望を思い出させてくれる。
東山魁夷
http://www2.plala.or.jp/Donna/kaii.htm
世の中うまく運ばない。
いくら年を重ねようが。
何故だろう、未熟であり修業が足りないの一言。
生きるヒントを次の文からもらった。長いが全文を。
仕事の成果を決めるのは、その人自身が磨いた、五体に宿る総合力である
日経ビジネス 2015.09.07 賢人の警鐘
古森重隆(富士フィルムホールディングス会長・CEO
私は営業畑が長いのだが、その経験の中で実感したことがある。営業の成果を上げられる人というのは、人間性や知力、体力などのバランスがよく取れている。その後、それは優れた研究者や技術者、そして何より経営者も同じということに気づいた。
何事かを成し遂げられるかどうか、人のあらゆるパフォーマンスは、その人の持つ「五体」すべての総和、人間力の総和が決める。私が「ビジネス五体論」と呼んでいるこの考えについて、以下述べる。
まず競争相手よりすばやく、正確に情報をキャッチする力。これは「目や耳、皮膚」等に宿る力だ。視覚、聴覚、触覚、味覚といった感覚器官を研ぎ澄ませ、情報を収集する。時には「勘」と呼ばれるような、五感を超える「第六感」も必要になる。
そして、得られた情報を分析し、考える力。「頭」だ。五感から得られる情報の中に、因果関係を見抜き、本質を捉え、課題に落とし込んで戦略や戦術を立てる。左脳が司るとされる「論理」だけでなく、右脳が司るとされる「情熱」や「感性」、「美学」も動員して当たらなければならない。
「胸」とはハートだ。例えばある社員が、何か新しいチャレンジを思いついた。それを実行するためには上下左右、周囲の人を動かす力がいる。結局のところ、どれだけ頭で正しい判断をしていても、周囲の人々、ステークホノレダーが付いてくるような人でなければ、物事は動かないということだ。
つまり、人を受け入れ、人に受け入れられるかどうか。公のために尽くすことができるか。そうしたハートがなければ、周囲を巻き込んで大きな仕事をすることはできない。
しかし、以上の諸要素だけでは物事は成し遂げられない。加えて度胸、勇気、ガッツが必要だ。これらは所謂「腹」に宿る力だ。
昔から好きな言葉に知識・見識・胆識というものがある。知識はただ知っているだけ。そこに自分の価値観を込めて血肉としたものが見識だ。「これは正しい」「すべきことだ」。そ こまで踏み込むことで知識は見識になる。だが、見識だけでも不十分だ。さらに、「正しい」と信じて下した決断を、結果に対して責任を負いつつ、行動に移せるかどうか。そこで問われる胆力を伴う見識を胆識と呼ぶ。危険や痛みを伴った、しかし必要な決断を貰き、実行できるかどうか。リーダーには、その胆力が問われる。
五感で知り、頭で考え、ハートと胆力を持って臨む。あとは、そうして練られた戦略や戦術を人にどう伝え、どう実行していくか、だ。「足腰」も不可欠だ。言葉だけでない、他人任せにしない行動力と実行力。そして、現場まで足を運んで頑張る力、現場をその目で見
ようという姿勢。これらがなければ戦略が現実から遊離する。
技術、スキルも必要だろう。いわば「手」と「腕」の力。ただその巧さだけでなく、時には、強引にでも自分の考えに従わせ、戦術を遂行させる「腕力」も必要になる。
自分の考えを正しく伝え、理解してもらうためのコミュニケーションの力も欠かせない。つまり「口」の力だ。そして「顔」や「姿勢」。美男美女であるかどうかを言うのではない。その人の生き様や信念が表れた、自信のある顔つきをしているか。背筋が伸びているか。それだけで印象はまるで変わってくる。
経営という営為は、頭だけで考えて結論を出せるゲームではない。人気投票で決するものでもない。自分が持ち得るあらゆる力、五体に宿るすべての力を総動員して、自分そのもの賭して挑むものなのだ。