何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

一休さんに祈りを託して

2018-07-09 17:00:00 | ひとりごと
また被災地と呼ばれる所ができてしまった。

先週から降り続いていた雨は、週末にかけ激しさを増し、甚大な被害をもたらした。

<豪雨>死者105人に、不明87人、警報は解除 毎日新聞7/9(月) 11:08配信より一部引用
西日本を中心とした豪雨被害は、9日にかけて広い範囲に拡大した。毎日新聞のまとめでは9日午後0時半現在、13府県で105人が死亡、87人の安否が不明だが、被害の全容は分かっていない。数十年に1度の大雨災害に気象庁が最大級の警戒を呼びかける「大雨特別警報」は6~8日にかけて計11府県に出されたが、前線の活動は次第に弱まり警報は8日午後までに全て解除された。各地で救助活動が続く一方、地盤の緩みなどから今後も土砂災害への厳重な警戒が必要だ。
総務省消防庁によると、短期間に死者が100人を超えた豪雨災害は、1983年7月に梅雨前線の影響で島根県を中心に112人が死亡して以来。


平成になり、数十年に一度、数百年に一度という災害が頻繁におき、その度に義捐金やボランティアなど出来うる限りのことはしているつもりだが、こうまで続くと、気持ちが沈みこんでいく。
先週から被害が発生している関係各所の知人などには連絡をとり、無事を確かめ安堵もしたが、週明け被害状況が明らかになるにつけ、自分に出来ることの少なさに歯がゆさを感じると同時に、思いもかけない被害に苦しんでいる方々に、どのような言葉をおかけすれば良いのかも悩み、ブログにもお見舞いの言葉を書けないでいた。

それは、「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」(宮部みゆき)で、「誓願」と願掛けの難しさを読んだばかりということもあるし、「祈ってます、という言葉が嫌いだ」という知人の弁が脳裏に焼き付いているからでもある。

「あやかし草子」は、誓願の内容は曖昧であってはならないという。「我欲の慣れの果て」
又、’’祈ってます’’ という言葉を嫌う人は、「祈りは、出来ることを全てした後にするべきであり、お見舞いの常套文句として使うべきではない」という。

「あやかし草子」が云う誓願は、私欲我欲につながるものであるので、「被災地の復興を祈る」という場合とは状況は異なるのだが、神仏に祈る姿勢を戒めるという点では、考えさせられるものがあるし、’’祈る’’ をお見舞いの常套文句にすべきではないというそれは、「祈っています」と認めるきらいのある私には、鋭く突き刺さる指摘でもあった。

加えて、災害が起こる度に「平らかな世になるよう祈る」と書いてきた者として、自分自身この言葉に倦み疲れてしまった感もある。

だが、それでも、「祈る」ことしかできないことがある。
それが、安易で軽薄な言葉に映るというのなら、この気持ちをどう表現すればよいのだろう?かと考えていた時、先日の京都歩きで訪れた、一休さんのお寺(地蔵院)と一休さんの言葉が頭に浮かんだ。
地蔵院への参道

『心配するな、大丈夫、なんとかなる』


一休さんは、お亡くなりになる直前に、「この先、どうしても困ったとき苦しいときに、開けないさい」と弟子に手紙を残されたという。
一休和尚が亡くなられて数年、困り果てた弟子が開封した手紙には、『心配するな、大丈夫、なんとかなる』という言葉が認められていたという。

天の邪鬼な私は、「大丈夫、なんとかなる」などと云われると、思わず反発してしまいそうだが、そこはやはり一休和尚のお言葉なので、静かに頭を垂れるべきなのだと思う。

そうして、頭を垂れながら、決意もあらたに祈りたい。
『心配するな、大丈夫、なんとかなる』
この御言葉を、被災された方々が前向きに受け留められるよう、日々の日常が一刻も早く戻るよう、心をこめてお祈りしている。

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