何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

幸せの条件 道を決め進む

2015-11-29 22:45:38 | 
「幸せの条件」(誉田哲也)の本の帯には、「人生も、自給自足」とある。
この意味を考えている。

一人でも生きられることを「自給自足の人生」と定義すると、経済的自立が真っ先に浮かぶが、経済的に独立している事をもって「自給自足の人生」足り得るというものでもないのではないか。
足りない部分を補完し合って、ようやっとボチボチやっていける''家''が増えていることを思えば、自給自足が経済的自立だけを指すものと(外部が)規定することは、時にいろんな形態の''家''を追い詰める。
もっとも「則無恒産、因無恒心」と云うのも確かで実感もしているが、恒産というほどのものに縁が有りや無しやの自分としては、有名な「恒産なくして恒心なし」の前段の「無恒産而有恒心者、惟士為能」に注目している。が、これとて「惟だ士のみ能くするを為す」には程遠いので、良書から学ぶ日々を続けている。

というわけで、「一人で生きられる」を精神的な自立に絞り、それを支えるものを考えてみる。
孟子の云う「惟士為能」の「士」を学問教養がある人に限定すると、いつまでたっても心許ないので、時々思い出す話を書いてみる。
「どれほど辛いことがあり、もうダメだと思っても、心の中にそれを思い出しただけで懐かしくて胸が締め付けられるほどに愛おしい風景を持っている人は、大丈夫」という意味の内容を、読んだか聞いたかしたことがある。
心に、懐かしさと愛おしさで一杯になる原風景があれば、何があろうとも再び一人で立ち上がれる、そうだ。

自分にとって、懐かしさと愛おしさで胸が一杯になる風景があるとすれば、「幸せの条件」の「あぐもぐ」の茂樹社長が必死で守ろうとしている信州の田んぼにうつる北アルプスなのではないかと思っている。だから、穂高村で田園風景を守りながら「燃料も自給自足」を目指すこの物語に、これほど惹かれたのかもしれない。
茂樹の妻の君江は『あの人は、とにかくこの穂高村の、農村としての景観を守りたいっていって、休耕田をなくすためにいろいろ手を尽くしているの。』と言うが、そもそも農作業は大変だ。
情けないことに、米作りというと田植えと稲刈りしか頭になかったが、私と同様に無知な都会者OLの梢恵の目線で書かれる本書を読めば、農作業の大変さはよく分かる。
耕起(田起し)→畦塗り(アゼヌリ)→代掻き(シロカキ)までして、ようやく田植えとなる農家の一年のサイクルは大変だ。
『一年を一週間として過している、みたいによく言ってる。
 つまり春から秋まではほとんど休みなし。日曜も祝日も関係なし。
 夏はみんな三時半くらいに起きて、キュウリとかズッキーニの収穫をして、男衆は6時から二時間くらい
 田んぼの水の見回りにいって、ようやく、8時くらいに朝ごはんかな』

しかし、農業初体験の梢恵がこの厳しい農家の生活を一年体験し、生き方そのものを転換させる。
バイオエタノールの営業で穂高村に行く直前、梢恵は仕事にも恋愛にも行き詰まっていた。
行き詰まっていたというよりは、どうありたいのか何がしたいのか分からないまま惰性で日々を過ごし、仕事からも恋人からも、「どこが悪いというわけではないが、必要かといわれれば全く必要でない存在」という言葉をぶつけられていた。
そんな梢恵が、一年間を通じて土にまみれて働くことで、生きるということを実感し、仕事でも恋愛でも新たな一歩を自分から踏み出すことになるのだ。
『食べるものを、自分達で作って、生きる。
 それによって、他の人達の食も支えて、生きる。
 常に、大いなる自然の一部として、生きる。
 季節を感じながら、雨風と闘いながら、生きる。
 体力的にキツくても、暑くても寒くても、笑って、生きる。
 とにかくあの場所で、皆と笑いながら、生きる―。』

都会でなんとなく生ぬるく仕事をし恋をしていた梢恵は、穂高村で「あぐもぐ」の一員として農業をする決心をする。
「お前なんか必要ないから、長野で契約を取ってくるまで帰って来るな」という過激な激励で梢恵を穂高村へと営業に送り出した社長に、梢恵は「『あぐもぐ』は私を必要としてくれる」と退職を申し出る。その時の社長の言葉も強く印象に残っている。

『本当は、お前は必要となんてされてない』
『・・・・・必要とされてないってのは別に、お前に限ったことじゃないのさ。
 本当に必要とされる人間なんて、その役がその人でなくちゃいけない理由なんて、実際には、大してありゃしないんだ。』
それは、どの会社のどの社長でも同じだという。
『それをいったら、総理大臣の代わりだって大勢いる。
 親だって兄弟だって、いなくなったらしばらくは寂しいが、いずれ人間はその状況になれる。そういうもんさ』

『むしろな、梢恵。大切なのは、誰かに必要とされることなんじゃないんだ。
 本当の意味で、自分に必要なのは何か・・・・それを、自分自身で見極めることこそが、本当は大事なんだ。
 俺が社長業を継いだのは親父が死んだからだが、俺がこれを続けているのは俺の意思だ。
 俺はガラスを弄くって人様の役に立って、そうやって生きていくことを選んだんだよ。
 他でもねぇ、この俺が、片山製作所の社長というポストを必要としてるんだ。
 それを守るためなら努力は惜しまない。
 死ぬまで身を粉にして働く・・・・・・そういうことだよ。
 それと同じなんだよ、梢恵。』

何がしたいか分からないままに、とりあえず内定がとれた会社でなんとなく働いていた、梢恵。
「(梢恵を)必要でない」と宣言した片山製作所の社長は、梢恵自身が片山製作所を必要としていないことを見抜いていた。そして、何をしたいのか、自分にとって必要なのは何かを自分で見つけた梢恵を『誰かに必要とされることなんじゃないんだ。本当の意味で、自分に必要なのは何か・・・・それを、自分自身で見極めることこそが、本当は大事なんだ。』という言葉で送り出す。

「誰かに必要とされている、誰かの期待通りに生きる、というのではなく、自分に必要なのは何かを自分自身で見極め、自分が選んだ道のためには死ぬまで身を粉にして働く」という事こそが、「人生も、自給自足」ということかもしれない。

人生の転換期に、「あぐもぐ」や片山製作所の社長のような強いリーダーシップのある人物に導かれ必要なものを見つけることができた梢恵のように、誰か強いリーダーシップをもった人は現れないか、何か道を啓示するものに出会えないか、と期待して待っている自分は、まだまだ「人生の自給自足」に到達できそうもない。
恒産無くして恒心ある「士」への道は厳しいが、良書に学びながら修行を続けたいと思っている。

梢恵に生きる道を決めさせた穂高村の風景は、きっと私の愛おしい原風景に重なっている。

春 水田にうつる北アルプス


ところで、皇太子ご夫妻を応援する時、お幸せになって頂きたいとは強く願うが、どうあって欲しい、と思うべきではないと考えている。
一般論として、「こうあるべきだ」とか「こうあって欲しい」という願いは、例えそれが善意であっても、まず願う側のかってな思い込みであり、仮に願いから逸れた場合には相手側に「(願いに応えられなれなかったので)必要とされていない」という心苦しさを与えてしまう。

雅子妃殿下は、男児が産めなかったばかりに一定の価値観の者どもから存在価値を否定され、ご自身でも「必要とされていない」と思い込んでしまい、心の病を患われたのだと思われる。
男児を産まない女性に存在価値を認めないという価値観こそがおかしいしが、それで凝り固まった世界におられるので、この点において「必要とされていない」という観念から抜け出されることは難しいかもしれない。そんな雅子妃殿下に、お元気になって頂く以上の何かを願うのは、法改正で無力だった国民としては、申し訳なさすぎる。
だが、類まれなる教養をお持ちの雅子妃殿下ご自身が「必要な何かを見極め、その道を極めたい」と思われる日が訪れることは、強く強く祈っている。

皇太子ご夫妻がご自身の意志で選ばれる道を信じ、その道が開けてゆくことを心から祈っている。


春まだ早き頃、皇太子御一家が訪問される信州の風景


写真出展 ウィキペディア

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