何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

普通の営みが永遠の命と愛に繋がる

2015-11-10 18:55:55 | ひとりごと
ワンコの血尿を確認してからほぼ一月がたった。

最初に血尿を確認したのが掛かり付け獣医さんの休診日であったため、ワンコ実家獣医さんのお世話になり、そこで処方された薬を10日飲んだが改善がなく、変えた薬を1週間続けても改善がなかった。
血液検査とレントゲンとエコーの結果から重篤な病気が隠れていないと分かったことは安心材料ではあったし、phの値も膀胱炎を示すものではなかったが、肉眼でも血尿だと確認できる時もあり、治療を止めるには不安があった。
再度の膀胱周辺の診察でも、とりたてて炎症をおこしている箇所はないとのことだが、やはり赤血球は出ているので、また薬を変えて下さった、ラリキシン。
ラリキシン、これが良く効いた。朝夕1日に2度の薬を1週間分処方されたが、たった2回目でチッチが奇麗な色になり、その回数も正常に戻ったのだ。長らく薬漬けとなっているので、様子をみながら薬を飲む回数を減らすと、また微かに赤みが戻る気がしないでもないが、そこで薬を飲ませると、すぐさま奇麗になる。菌を殺す薬が効くということは、やはり何らかの菌が悪さをしているのかもしれないが、「ある程度は老化と割り切らねばならないのかもしれない」と獣医さんもおっしゃった。

排便が単純な押し出しに過ぎないとすれば、排尿は高度な作用を伴うものらしい。
冬場など「トイレで倒れると危ない」と云われ、排尿の時にブルッと震えたりするものだから、寒さが悪いと思われがちだが、そうではない(全くそういう面がないわけではないらしいが)。
排尿時には急激に血圧が下がり、また交感神経と副交感神経が交代するという作用を伴うらしいが、これが上手く伝達できない場合に失神につながるそうだ。
年をとると、排尿についての脳と膀胱との伝達が上手く機能しないことが起こり、膀胱は満タンなのに尿意を感じない、もしくは尿意はあっても尿は溜まってない、ということも起こってくる。
年をとり、排尿に何らかの問題を抱えるのは、人間もワンコも同じらしい。
寄る年波には抗えない。
「逆らっても仕方ないものには逆らわず、ストレスをためず、ゆったり構えるのも一つの手ではあります」という精神的処方箋が我々には効いたのかもしれない。

一月の薬漬けで体重は少し減ったが、食欲も戻り、自分で立ち上がり歩こうする気力も出てきて・・・夜のワッサワッサ運動&コーラスは?
この秋は家族それぞれが忙しく、家の変化の度に生活リズムが狂い、その度に夜鳴きコーラスが復活するが、総じて落ち着いてきてはいる。
「朝日を十分浴びると良い」という指導を守っているおかげか、ワンコ実家が勧めて下さった「サイエンスダイエットpro健康ガード脳」が効いているのかは分からないが、一時の酷い状態と比較すれば格段に夜鳴きは改善されている。

夜鳴きが収まれば本人も体力が温存されるのか、目力も強くなり、その強い目力に優しさや温かさを湛えて人間を見つめてくれると、もうこちらは愛情ホルモン一杯の幸せに包まれる。(参照、「犬と人の愛情物語」

あれこれ本を読み、「人も動物も植物も自然の一部であり、命の営みのサイクルに入るというということは、永遠の命を得ることに繋がるのだ」ということが、知識としては分かっても、実際問題では受け入れられず、ジタバタと騒いで「一分でも一秒でも長生きしておくれ」と、ワンコの介護に勤しむ毎日だが、ワンコ自身が頑張る気力を持ってくれる限り伴に頑張るということが、同じ命の体系に生きる者同士の理だと思っている。


ところで、ここ数日、落ち葉や枯葉について書いてきたので、母がヘルマン・ヘッセ作だと言い張る「枯葉」という詩を記しておきたい。
この「枯葉」という詩は、母が若い頃に愛読していたヘッセの詩集にあったものらしく、今でも諳んじているくらい好きな詩らしいが、転勤で引っ越しを重ねるうちに詩集を失くしてしまったらしく、現在出版されているヘッセの詩集でこの詩を収録しているものは、多分、ない。「多分」というのは、伝手の伝手を頼り編集者の方に探して頂いたことがあるのだが、その当時出版されていたヘッセの詩集のなかでは確認されなかったからだ。
しかし、母はこれをヘッセの詩であり題名は「枯葉」だというし、今の季節にも合うことなので記しておくことにする。

枯葉

私の前を 
風に吹かれていく 枯葉
さすらいも
若さも
愛も
その時があり 終わりがある
あの葉は
風のまにまに あてもなく彷徨い
あげくの果ては森か溝の中にとまる
私の旅は どこまで続くだろうか

ヘッセの詩から漂うもの寂しさはともかく、「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア)「オーリーとトゥルーファー」(アイザック・B・シンガー)を読めば、落ち葉は永遠の命と愛へ繫がる美しい架け橋に感じられる。
落ち葉舞う美しい並木道の光景というと、敬宮様が一歳の御誕生日を前に、御両親と一緒にベビーカーで神宮外苑の銀杏の並木道を散歩された映像が思い出される。
黄金色に輝く銀杏の葉っぱが見守る幸せそうな家族の秋の午後。
それは皇太子御一家であれ、そこに居合わせた他の家族であれ同じである。
家族という営みのうちにある幸せは、''普通''であることの中にあるような気がしている。
皇太子ご夫妻が教育やご養育において''普通''を重要視されることが、却って誤解や軋轢を生むこともあるのだろうが、''普通''の愛にある安定性は、いつか敬宮様が重要な御立場になられた時に大きな力となることだと信じている。

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