堂蓮記<北海道富良野成田山布部不動堂>

毎月の『御心言』と不定期の『祈願講釈』と徒然なるままの箴言・戯言・読書感想等・北の大地の坊主富良野生活記。

戯れに語る!

2010-07-11 18:51:48 | 日記
〈戯言〉

さて、俺が元々ハードコアやスラッシュやノイズ、その他アングラ・アバンギャルド系の音楽やアートや芝居、文学、映像が好きであった事は前に話したと思う。

二十代の頃、色々なアーティストの作品を美術館やギャラリーや洋書の画集、古本屋で観たりしていた。(神田、早稲田、江古田、高円寺、沼袋、鷺ノ宮などの古本屋を闊歩していた。)

具体派の作品も渋谷の松濤美術館で観たりしたもんだ。草間弥生さんの図録を買いに曙橋のフジテレビギャラリーに行ったのが懐かしい。当時は知る人ぞ知る存在であった。

で、『何でこんな作品に成るんだ?どうして?一体何に影響受けたんだ?』と思ったもんである。

それぞれのアーティスト、作家、詩人の自伝・評論・年譜などを調べみた。

すると、カンディンスキーが神智学(ブラバツキー夫人)、モンドリアンが人智学(シュタイナー)、ボードレールやランボーが魔術・錬金術のエリファス=レビィ、アントナン=アルトーがバリ島、南方熊楠が真言密教、宮澤賢治が法華経、高橋新吉が臨済禅、辻閏が老荘とシュティルナー、岡本かの子が観音さん、葛飾北斎が妙見菩薩、ビートルズやストーンズがクロウリーとそれぞれが何らかの影響や関わりや興味があった事をしり早速、本を手に入れ始めたわけである。

俺はオカルト・呪術・心霊学好きでも神秘思想・前世・輪廻・守護霊などが好きなわけでは無かったが。(各種様々な本を手に入れたのだが傍目には、オカルトマニアや神秘好きと思われても仕方ない話しであるが。)

そんな中で、岡本太郎が、フランス留学の時に考古学なんかを学び、日本では縄文に目をつけ、沖縄や東北や世界の古代文明について調べ語っていた事も知った。(当時は〈沖縄文化論〉以外は絶版だったので探すのに苦労した覚えがある。)

また、寺山修司、唐十郎、土方巽の作品や著作や対談から、ロートレアモン、アルトー、ユング、夢野久作、葛西善藏、美輪明宏、横尾忠則を知った。

御三方の舞台美術に下町、集落の風習などとシュールレアリスムが取り入れられていることも。

人が知らないやってない、違う物・新しい物・実験的な物・異端な物を知り学び活かし、自分の見方考え方やり方で創る事を学んだわけである。

俺一人ではなく、音楽、映画、芝居、漫画、アニメに強い奴が周りにいたのも幸いであった。互いに情報交換したわけだ。

若松孝二監督、大島渚監督、新藤兼人監督、今井正監督、ブニュエル監督、タルコフスキー監督、ノルシュテイン監督、押井守監督などの作品を知ったのも東京でだ。

『何で?どうして?』と言う癖がついたわけである。

『歴史が無いから違うから!どこも同じだ!気持ちの問題だ!好き嫌いは人それぞれだ!愛と魂だ!絶対最高完璧無限だ!』と、単純にならないわけである。

始まりと終わりはそうかもしれないが、途中経過は、単純ではないし、理由と原因が在る。

南無

戯れに語る!

2010-07-11 13:02:55 | 日記
〈戯言〉

坊さんをしてると質問や相談の種類は様々だ。

「霊ってどうなんですか?」と、聞かれる事もある。

で、俺は              『見える人には見えるし、聞こえる人には聞こえるし、感じる人には感じるでしょう。

見えない人は見えないし、聞こえない人は聞こえないし、感じない人は感じない。
見える人には居るし、見えない人は居ないと言うでしょう。
唯それだけですね。

影響や反応が重い人、軽い人もいます。

より善い人生と成るには、重いアレルギー症状は改善された方がいいですね。

祈祷を受けたり、場所の浄化をしたり、御坊さんや神主さんに指導を受けた後、御自身による願掛けや御経や祝詞や座禅瞑想でしょうね。

御経や祝詞は、時代や地域を超えて出来上がった〈コトダマ〉の詰まった文章ですからね。

悪い物にのみ反応したり、反応が過敏し過ぎだと、心身が疲れやすいですね。(人生が善く成る人で霊感があるタイプの人は、善い物事人場所への反応が速く、自ら歩み寄れたり、招き寄せる力などが高い人なわけです。)

免疫・抵抗力を造って、善い物、善い事、善い人、善い場所を招き引き寄せ近付けるようにした方が善いわけです。

霊感が強すぎる人、霊感が全く無い人。信仰がある人、無信仰な人。前世、守護霊、オーラの色に興味がある人と色々な人がいますが共通してる事があります。

それは、人生が、より善く成る人は、自他共に希望と感謝と道理を観て感じ捉え行う事が出来る人ですね。 』

と応えるのである。

南無

仏壇六種供養

2010-07-11 10:00:17 | 日記
『大日如来、金胎不二、大小内外宇宙理法、其法其道其教え極秘深遠、真の理の言葉と成るなり。          真の言葉感じ得るに三密行、身口意、御本尊の御前にて此身を以って合掌礼拝行い修め、此口を以って唱え読み行い修め、此心を以って想い念じ観て行い修め、始めて感じ得る境地なり。               是三昧実修の喜び即ち入我我入に依る法悦。                此実践、一心不乱の裏打ち表打ちに依る行い修め、御本尊との結縁、表裏一体一心同体一体全体、己の内外に強め高め深め広まる。

法は人に依り弘まる。人は法に依り弘まる。

心開き眼を開き始めるに辺り、御本尊の壇、仏壇に祈りの気持ち形に表し、六種の供物御供えす。六種とは閼伽、塗香、華鬘、焼香、飲食、灯明の事。即ち、御水、御浄め香、御花、御線香、御飯、御灯明の事。
         是、六波羅蜜、日々の実践徳目、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と成る。

御水とは、とどまる事無く湧き流れ生きとし生ける物を育む施しをする心、布施の徳なり。

塗香とは、善良成る香りにて此身清く保つ教えを守る心、持戒の徳なり。

御花とは、汚泥に染まらず、厳しい現実に耐え忍び美しい花を咲かす心、忍辱の徳なり。

御線香とは、喧騒誘惑離れ折れず弛まず励む、細くとも長く静かに燃える心、精進の徳なり。

御飯とは、心身穏やか冷静冷徹寛容寛大善く保つ心、禅定の徳なり。

御灯明とは、自他共に正しく明るく照らす心、智慧の徳なり。

毎朝毎晩常日頃、喜怒哀楽を問わず、御本尊に向かい合い合掌礼拝する事は、我が身に仏の法が入り、仏の教えが入り、仏の道が入り歩む事。
我が身が仏の法を求め、仏の教え求め、仏の道を求め歩む事。

仏心、善く供え養い、祈り念じ信じ誓えば、感謝の気持ち育み、希望の灯人生を照らす。
          州堂 南無 』