堂蓮記<北海道富良野成田山布部不動堂>

毎月の『御心言』と不定期の『祈願講釈』と徒然なるままの箴言・戯言・読書感想等・北の大地の坊主富良野生活記。

戯れに語る!

2010-07-06 20:42:12 | 日記


〈戯言〉
         昨日、久々にギリヤーク尼ヶ崎さんの踊りを観た!何年ぶりだろうか?

かつて、江別の〈ドラマシアターども〉の裏で土埃の中、水を被り念仏を称えた姿は今なお鮮明に覚えている。寒い風の日であった。                         また寺山修司(天井桟敷)の映画に出ていたのも懐かしい。(映画伊丹十三「たんぽぽ」にも確か出ていた。)             場所は旭川の三番館前。夕方五時から。

御誂え向きのシチュエーションで、弁財天を奉る参道であった。赤い街灯立ち並び、背後には川柳が貼られていた。                踊りを観た感想は『いや、久々に観たけど凄ェなっ!
〈念仏じょんがら〉で思わず合掌礼拝したぜっ!』である。

『南無阿弥陀寺仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……』と、俺は微音で称えていた。

俺が思うに寺を持たぬ一遍上人(時宗・鎌倉時代)の周りを上人を慕う信徒が集い念仏唱え踊った情景の一場面はこうだったんじゃないか?と。

世阿弥なども時宗であった。
かつてと呼ばれた人たちも上人を見かけたら『南無阿弥陀仏…』と称えながら、このように一遍上人の後ろをついて歩き説教を聞いたのではあるまいか?

ちなみに一遍上人の木像は、履物無し、最早数珠すら無しである。

また、ギリヤークさんの異形なる扮装は、空也上人をも思いださせてくれる。(鹿の角の杖を持ち、太鼓を首からぶら下げ、白衣は半ズボンのように短く、恍惚の顔で念仏を称えている)

一遍上人が慕った平安時代の念仏聖(ネンブツヒジリ)でやはり遊行僧である。

一遍上人も死ぬ前に著作を焼き捨てたので『語録』と『聖絵』があるのみだが、空也上人は『捨ててこそ』と言う言葉一つと後に創られた像があるばかりである。

〈風狂〉とはまさにこの日の祈りの踊りの事である。

南無

※ちなみに開演前にギリヤークさんと話をしたら、「念仏じょんがらは浄土真宗から創ったんだよね、笑」と。

一心同体感極まる!

2010-07-06 10:28:04 | 日記
『一体全体測り、一即他他即一観て、山川草木悉皆成仏、一切衆生悉有仏性感極まり一心同体を得る。

頭を冷やし心を鎮め体を抑え、物事人自然と向き合い間合い取り、一部始終末端部分総合総体総括し、比較対照特性を捉え、流れ積み重ね時間空間を把握する、方位を正確に定める。

同じ方位とは同じ志と成る事。
         同志とは無私と成り公と成る事。
         公共とは互いの我執嫌悪抑え切り等しく利益一致と成る事。
         一致団結とは合致と成り一心不乱一生懸命、一心同体と成る事。
         一とは真の理の根源は一つ、一如と成る事。          
世界平和、国土平安、万民豊楽、仏法興隆、寺門興隆、信徒繁栄、乃至法界平等利益。

州堂 合掌 』


〈戯言〉

さて、ブログを始めたが、実はパソコンは使えない。携帯で打っているのだ。

何年か前まで、ツーカーの縦長の携帯を使っていた俺である。(しかも、北海道で。友人知人に「そんな長いの使ってる奴いないぞ!」と、言われたものである。)

『伴(バン)こそ、ブログやツイッターをやるべきだっ!』と言われ続けて三年、ようやく着手した次第である。

アナログ・アナクロ・アウトサイダーな人間だったので大変だ。

パソコンの電源オンも知らぬのに携帯でテケテケ打っている。

ツイッターも登録はしたが、使用法がよう分からんので、当然の事、活用法も分からん。

で、まだ「はて?どうしたものか?」と、考え中であった。

のんべんだらりと、手を打とう!

南無

戯れに語る!

2010-07-06 00:41:18 | 日記
〈戯言〉

北海道の夜は涼しい。(19歳~34歳まで東京で暮らしていた。ずっと風呂無しアパート生活であった。しかも20代前半まで、風呂無し便所玄関共同、部屋の鍵はピアノの鍵の如く鍵穴から部屋は覗け、窓枠は木材であった。当然、クーラー無しである。)               それでも北見で日中の気温が三十七度になったとか。

まるで、東南アジアか中東の気温である。

ところで、俺はよくこう言う。             『スフィンクス⇔マーライオン⇔シーサー⇔狛犬、皆、獅子を元にデザインされている。              時代も国も民族も宗教も違うが、目的は大雑把に言えば、場所、地域、地方、国の〈防犯と環境保護〉です。

形、名前、時代、国、民族、宗教の違いと有無に囚われなくてもいいんじゃないですか?

冷静冷徹と寛容寛大を以って互いに尊重しなけりゃ、争いは無くなりませんね。。

形なんか名前なんか嫌いだ!とだけ言うのは、私的感情をぶちまけてるだけで具体的解決策ではないですね。

形や名前があってもなくても、違っても同じでも、気にしないことからですね。

どうであれ仲良く安心安楽安全に生活出来ることですね。そのため〈どうしたら?何をしたら?〉です。 』

南無