生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

J H ウッジャー(1967改訂版):生物学の諸原理 批判的研究 第5章生気論と機械論との対立(訳1)

2017年07月20日 15時48分13秒 | 学問修行
2017年7月20日-1
J H ウッジャー(1967改訂版):生物学の諸原理 批判的研究 第5章生気論と機械論との対立(訳1)


第2部
生物学的知識の諸問題

第5章
生気論と機械論との対立

I

生気論と機械論との間の世に知られた言い争いは、生物科学史のすごく目立った特徴であるが、ときおり想定されるような簡単なものでは決してない。関係のある争点と表明された様々な意見は、単純で明快であるわけでは決してない。そこで、われわれが最初にやるべきことは、いくつかの代表的な見本の検討へと向かう前に、これらの争点を少し解きほぐすことである。(自ら呼んではいないにしても)「生気論者」と呼ばれる人たちの間には、相当の、そして重要な意見の違いがある。そして、対立陣営に属し、「機械論者」の称号を受け入れる人々の間にも、同様の重大な違いがある。よって、だれそれは機械論者だと言ったところで、その人が機械論のどの特定の銘柄〔種類〕なのかを述べない限り、ほとんど情報を与えていない。主要な分割の特徴をはじめに指摘することは、これからにおいて〔今後の〕助けとなることだろう。有機体についての「機械論的見解」と呼ばれてよいものは、二つの主要な基礎の一つに基づくであろう。二つとは、(1)有機体は、ある意味で機械 machine _である_か、あるいは「からくり mechanism 〔仕組み、機構〕」であり、それを越えるものではない。これを、存在論的な意味で、形而上学的な基礎と呼んでよいだろう。(2)一方、有機体についていかなる形而上学的または存在論的な仮定を置くことを避けて、有機体の「本性 nature」がなんであろうとも、有機体は_あたかも_機械であるか「からくり」であるとして扱うことによってのみ科学的に扱うことができると、単に言うのである。こうして、二つの基本的に異なる種類の機械論を、われわれは得たのである。第一のものは、有機体は機械「である」と言うことを明言するので、独断的であり、すでに説明した意味で形而上学的である。他方、二番目のものは、より控えめな主張をしていて、科学は機械的な説明を守る場合にだけ可能だと言う。しかしそれは、生物学的研究の対象の形而上学的本性についてなんらかの言明を行なうことを避けている。これは、それゆえ、方法論的基礎である。」
(Woodger 1967、pp.229-230;第1段落の試訳20170720)。