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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近〔取り組み〕(完b)

2016年08月21日 21時46分14秒 | システム学の基礎
2016年8月21日-3
マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近〔取り組み〕(完b)
[2016年8月11日-2 =2016年8月11日-1を一部改訂し、追加]
[2016年8月12日-1 =2016年8月11日-2を一部改訂し、追加。
            訳出完了、機構についての覚え書きを追加。]
[さらに、誤植などを訂正して、2016年8月21日-3として掲載した。]

 以下は、マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』の、システム的取り組みの部分の訳出である。

  「
2.3 システム的接近〔取り組み〕[p.43]

 現代医学に特有なことの一つは、外傷学から精神医学までと、数十もの専門分野から成っていることである。すなわち、医学は多くの学問領域にわたる学である。しかしながら、その各分野はすべて、多少とも他の分野に強く関連している。たとえば、近代外傷学は、骨接ぎと切断の昔の技巧とは違って、解剖学と生理学を集中的に用いる。対照的に、原始的医学と古代の医学は、いわゆる代替医学も同様だが、信念と実践の孤立した集まりである。とりわけ、それらは科学に基づかず、それら自身の哲学的前提を検討しないのである。
 人体は一つのシステムであるというのは、比較的最近の発見である。二つ以上の器官が一つのシステムの部分であるかどうかをどうやって見つけ出すのか?。それらの間の結合を探し求めることによって、そしてひとたび見つけたら、そのような連結を切断することによってである。糖尿病に集中した、その類いの斬新で実りのあった一対の実験を思い出そう。糖尿病は、深刻で不治のシステム的(身体全体の)病気で、世界中で増加している。1887年、Oskar Minkowski は、膵臓がインシュリンを作ることを発見した。また、膵臓を取り除くと、身体の燃料である糖を代謝するのに必要なインシュリンが生産されないので、動物は重い糖尿病になり死ぬことを発見した。はるか後に、下垂体または脳下垂体腺が、支配的な内的腺であることが見つけられた。それは、恒常性、代謝、成長、などを制御する9つのホルモンを分泌するのである。
 ほぼ1世紀前に、アルゼンチンの生理学者である Bernardo A. Houssay は、ブエノスアイレスから遠くはなれたところで、驚くべき発見をした。すなわち、脳下垂体腺を取り除くと、少量のインシュリンを注入したら、動物は低血糖症になるのである。インシュリンは膵臓から分泌されるから、脳下垂体と膵臓の間に密接な繋がりがあるに違いなかった。この繋がりが切断されたならば、何が起きるだろうかと問うのは、自然なことであった。それで1929年、Houssayとその同僚は、膵臓を取り除かれていた犬から、その脳下垂体腺を切除するという実験を遂行した。確かに、このような二つの過激な外科手術の後で、なにか劇的なことが起きた。そして、そうなった。すなわち、犬は意外なことに、糖尿病から回復したのである。もっとも、その犬は長くは生存しなかった。一度きりだが、二つ間違えば、一つの正しいことが生じたのだ。
 膵臓と脳下垂体は、互いに遠く離れているが、単一のシステムである内分泌システムの構成要素であるという、重要な発見が行なわれたのである。その結果、内分泌学は一夜にして〔またたく間に〕、個々の内腺の研究から、内分泌系についての多数の専門分野にわたる科学へと、一変したのである。これは、システム主義のもう一つの勝利である。ほぼ同じ頃、モリトリオールでハンス セリエ Hans Selye は、別の総合を手作業的に作った。すなわち、内分泌学と免疫学の総合である。基礎科学におけるその二つの発見が、医学に大きな影響を与えた。内分泌学では糖尿病の管理であり、免疫学ではストレス〔負担となる刺激〕の管理である。
 科学的な諸専門分野または医学的な諸専門分野の連合は、単なる並列ではなく、整合的な総合であって、《有機的全体》または_システム_である。そして、このようなどんなシステムでも、構成要素を繋ぎ合わせる接合剤は、物質的な橋とそれらの概念的対応物、たとえば精神病は脳の異常であるという仮説(ここで、生物学は精神医学に大いに関連するし、精神患者は他の者たちから隔離されるべきではない)によって構成される。
 言い換えれば、近代医学は、専門分野の集合体ではなくてシステムである。そして実践者たちは、互いに相互作用する。なぜなら、各々はその同じ全体の一部分だと知っているからである。同様に、この認識的統一は、すべての医学的専門は同一の物を扱っているという事実によっている。これが、ルネ デュボワ Rene' Dubois (1959) が影響力のある本で、患者は一つの全体性として、またその人の社会的環境に入れられているものとして、扱われるべきだと強調した理由である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 43-44.)[20160811 零試訳]。



 「他の分野と同様に、医学においては、分子から細胞、器官、全体の有機体、自然、そして社会まで、ずっとシステムたちである。これは、_システム的生物学_(たとえば、Regoutsos & Stephanopoulos 2007; Loscalzo & Barabasi 2011)への言及がますます頻繁に見られる理由である。そして、現代医学が探し求めるように奨励するものとは、
  _生物システムたち_(たとえば、神経の、内分泌の、そして神経−内分泌−免疫のシステム)、
  _認識的システムたち_(たとえば、生物学、医学、そして医学の人文学)、そして、
  _社会システムたち_(たとえば、病院、医学的共同体、市場、そして国)。
 様々な種類のシステムたちを識別できる。すなわち、広義の_具体的_または物質的なシステム(たとえば、細胞と社会)、_概念的_または架空のシステム(たとえば、分類と理論)、_記号論の_または意味深いシステム(たとえば、本文と線図)、そして_科学技術的_システム(たとえば、血圧計と救急車)。
 順に、或る具体的システムσは、次の特性によって特徴づけられる物体である。すなわち、
  σの構成=σのすべての部分の集合。
  σの直接的環境=σとは異なる、σと相互作用する可能性のあるすべての存在者の集合。
  σの構造=σの部分間の諸関係(内部環境)と、これら諸部分とδの環境(外部環境)との間の諸関係、の集合。
  δの機構=δに特有の(諸)プロセス〔工程〕、またはδを動かすもの〔機能させるもの makes δ tick〕。

 システムをそのモデルから識別していることに、ご注意あれ。或るシステムは様々な模型〔モデル〕によって表わされる〔表象される、再現前される represented〕かもしれないことだけからでも、そのように識別すべきである。上記のモデルは、自然的であれ社会的であれ、具体的(物質的)システムに対して成り立つ。システムが概念的か記号論的かのどちらかならば、上記の順序四つ組の最後の構成要素は、削除されなければならない。なぜなら、そのようなシステムは、それ自身で変化することは無く、したがって機構を持つことは無いからである。
 個体主義者には、システムは不要である。彼らは構成要素だけに興味があり、したがって、生きているまたは死んでいるとか、良好なまたは悪い健康状態にあるといった、システム的または創発的な諸性質を見逃す。全体論者は対照的に、分析を拒絶し、個体の役割を最小にするか、拒否しさえする。システム主義は、個体主義と全体論の両方の代替となるもので、それぞれの妥当なテーゼ〔定立命題〕を保持する。部分無くして全体は無いというテーゼ、そしていくつかの全体(《有機的》全体またはシステム)は、部分が欠く、全体的な諸性質を持つというテーゼである。システム主義はこうして、個体主義と全体論の総合である。
 とりわけ、良き医者はシステム主義者である。すなわち、彼女は孤立した症状 isolated symptomes よりも、症候群 syndromes を選び、身体をその環境に置き、そして物理的から社会的という、その物事が関連するすべての組織化水準の〔編制水準〕を考慮する。実際、彼女は次の諸原理を暗黙に受け入れているのである。すなわち、
  1)_人は、下位システムたちの〔から成る〕一つのシステムである_。医学的教訓:合理的に完全なあらゆる医学的検査は、全体の身体とその環境を見て、欠陥のある諸機構を修理するという見方とともに、その身体の重大な諸機構に焦点を当てるだろう。
  2)_人体のすべての下位システムたちは_、直接的に(組織 tissues によって)あるいは間接的に(血液とホルモンを通じて)のどちらかであれ、_相互に連繋されている_。例:耳鼻咽頭システム oto-rhyno-laringeal〔-laringeal→-laryngealの誤植だろう〕。医学的教訓:あらゆる処置は、局所的であれ、遠位に効果を持つ。それらのいくつかは、害のある効果の可能性が高い。それは、すべての処置が完全にできても perfectible、どれも決して完璧 perfect ではないであろう理由である。
  3)_あらゆる疾病は、一つ以上の器官の機能不全から成る_。そして、あらゆる慢性疾患は、他の異常 disorder(共存症〔余病〕comorbities)が付きものである。医学的教訓:あらゆる医学的処置は、影響された部分の正常な機能を回復することだけでなく、他の部分の保護も求めなければならない。
  4)_精神的健康は、脳の健康である_。よって、全体の健康の一部である。医学的教訓:慢性疾患と抜本的処置のあり得る精神的効果(たとえば、心配と抑鬱〔鬱病〕)を無視しないこと。
 5)個人の福利 well-being と社会的条件は、密接に連結している_。とりわけ、貧困と圧制は、〔心の〕病的状態を引き起こす。医学的教訓:個人の福利の追求は、環境の制御を含む。とりわけ、環境汚染や密集だけでなく、労働の安全 safety と安心〔安全保障、危機管理 security〕といった環境要因の制御である(Bunge 2012b を見よ)。
 6)人々と彼らの社会環境の複雑さがあるとすれば、医者は、_部門別の sectoral (または切断的 sectorial)思考を避ける_べきである。そのような思考は、(a)事実は相伴う、諸物、諸性質、そして諸プロセスを切り離し、孤立させ、(b)最初の、印象、データ〔資料〕、または推測に《固定してしまう〔錨を下ろしてしまう "anchor" 〕》傾向がある(Kahneman 2011を見よ)、そして(c)学際的な橋を建設する代わりに、医学のバルカン化〔互いに敵対的な小地域に分けること〕を悪化させることになる。
 7)社会科学と同様、医学においても、_一つの大きさですべてを適合させる one-size-fits-all〔フリーサイズの、何にでも一つで合わせる〕という説明を、信用してはならない_。たとえば、或る人が太ることができる理由や、肥満が世界中で増えている理由を、いまだに確かには分かっていない。数個の説明が提起された。すなわち、先天的体質、過食、過剰な炭水化物の摂取、そして座ってばかりいること、である。正しい答えはおそらく、これらすべてである。
 
 近代の生物学と医学におけるシステム的接近〔取り組み〕の出現〔創発 emergence〕は、ポール-アンリ ティリ ドルバック男爵 Paul-Henri Thirty, Baron d'Holbach(1966)が導入した_システムの哲学 systemic philosophy_を確証するものである。この卓越し た多作な大学者にして反体制活動者は、当初はダランベール Jean le Rond d'Alembert が加わって、ディドローDenis Diderot が編纂した、有名な『百科全書』(1751-1772)の並外れて有能な共著者であった。ごく少数の例外を除くと、現代の哲学者たちは、システムという概念そのものを無視してきた。あるいは彼らは、システムという概念は近代の科学と科学技術に特徴的であったが、それを、アリストテレスからヘーゲルまでの全体論的哲学者たちによって用いられた、分析不可能な全体という概念と取り間違えたのだ。
 システム主義は、《あるゆる現存者は、システムであるかシステムの部分であるか〔のどちらか〕である Every existent is either a system or part of a system 》。この前提は、ヘーゲルの _Das Whare ist das Ganze_(《真理は全体である》 "The truth is the whole")と取り違えてはならない。この不可解な形而上学的公式は、全体論に典型的である。それは、個体主義にも、ドルバックのシステム的唯物論にも対立する。
 全体論は、繋ぎ合わせるが、混同する。個体主義は識別するが、切り離す。システム主義だけが、混同することなく、繋ぎ合わせる。たとえば、システム的見方からは、患者は、社会システムに浸された極めて複雑なシステムであり、医学は、他の分野の知識と行為(これまた、他の分野の知識と行為とに相互作用する)とに相互作用する一つの学際的専門分野である。そのうえ、この見方においては、医学は百貨店のようなものではなく、仕切りの無い広大な館のように見える。ルドルフ ウイルヒョウ Rudolf Virchow、クロード ベルナール Claude Bernard、William Osker、そしてLewis Thomas のように、この専門分野の偉大な知的指導者たちが見たやり方である。この、システム的接近は、過度の専門化に対する最良の処方箋である。過度の専門化は、人体の統一性とは異なっている。明きらかに、医学に好意的な哲学は、システム主義を支持するだろう。


しめくくり〔大団円〕 Coda
 近代医学は、1550年頃から生物諸科学にもとづいて発展し、1850年以降は、大学の近代化だけでなく生化学と薬理学の発展のおかげで、大変急速に進歩している。医学のこの驚嘆すべき進歩の原動力は、科学的研究である。それ無しには、医学はいまだに神話と常識のぬかるみに、はまりこんでいただろう。
 たとえば、座ってばかりいるのは心臓に悪いという信念を、考えてほしい。この信念はあまりにも明白に見えるので、ごく最近までは試験〔テスト〕にかけられることが無かった。18歳から65歳の間の男女、276人を巻き込んだ6年間の長期にわたる研究(Saunders et al. 2013)が見い出したことは、座りっぱなしの行動は、腰周りを増やしはするが、心血管代謝の危険〔リスク〕を増やしはしないということであった。十分に《狂って》(独創的な)いない提出物を最良の科学雑誌が規則どおりに却下する程度にまで、科学者だけが《狂った》考えだけで済ませられる。科学の全体の歴史は、獲得免疫の歴史のように《狂った》考えと、そして脳画像化装置のように《狂った》道具の連続である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 44-48.)[20160811 零試訳]。



 〔あと3段落分でおしまい。第3章は、疾病 Disease 〔病「気」とは訳さないことにする。〕〕

  「
 20世紀半ばまでに、細菌感染症の大部分は、とりわけ結核と性病は、治療できるものとなった。大部分の伝染病、特に筆者の年齢群の人々を襲った伝染病、を防ぐワクチンも作られるようになった。ただし、貧困国は除く。そこではいまだに、伝染病は繁盛している。これらの偉大な進展は、生化学的研究と見識ある公衆衛生政策との連繋の結果である。
 哲学者たちが注目すべきだった医学的進展の特徴は、科学主義の採用とそれに対応した反科学 antiscience と擬似科学 pseudoscience の拒否である。それは、医学がいわゆる硬い科学 hard science 〔自然科学を指すらしい〕と密接に連合したこと、、〔=「;」→「。、」にするも一興。〕実験的方法を採用したこと、とりわけ無作為化比較対照試行 randomized controlled trial〔対照試験と訳されるようだが、trialは試行とし、testに試験=経験に照らして試すこと、を当てる。〕を採用したこと、、作用の機構、とりわけ病因論 etiologies の機構を探索したこと、、そして創発的かつシステム的唯物論を、暗黙にも取り入れることを許容したこと、である。
 しかし、哲学者はまた、多くの馬鹿げた有害な医学的迷信、とりわけ《代替的で相補的な》医学(1.3節を思い出してもらいたい)が存続していることにも、注意すべきである。そしてもし哲学者が社会的な責任を負うならば、このような化石どもを分析し、専門的雑誌だけでなく大衆的媒体にも暴露することを手助けするだろう。

(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. p.48.)[20160812 零試訳]。


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訳者註記 20160812。

ホメオパシー

 Bunge 2013 "Medical Philosophy"の〈1.3節 現代の医学的いんちき療法〉で挙げられているのは、一つはホメオパシーである(p.18の第2段落〜p.19の第一段落まで)。わたしのいわば実践的見解は、もし偽薬効果であるのなら、副作用は無いだろうから、効果の種類と程度に関する限りで、最良の薬ということになる。効くならば副作用はあり得ると仮定して、副作用は無いかほぼ無いという説明とそのための理論が必要である。(少し離れた問題として、二重盲検法の問題がある。さらには、ベイズ推論の問題。)さて、ホメオパシーは、考え方と用いる道具の狂い方が、まだまだ少なすぎるのであろうか?。→暗黒物質またはエーテル体の問題。鍼灸の理論。

機構

 システム主義またはシステム的取り組みを標榜するマリオ ブーンゲ Mario Bunge(2013)は、システムを、四つの側面から分析する。
 構成とは、〜の集合で、構造とは〜の集合である。そして機構とは、

  mechanism = process(es) that maintain(s) the system as such (cell division, metabolism, circulation of the blood, etc.)

と、なんらかの集合ではなくて、システムをそのように維持するプロセスと定義している。
 processは、Oxford Paperback Dictionary(1979: 507)によれば、

  1. a series of actions or operations used in making or manufacturing or achieving something. 何かを作ったり製造したり達成することに使われる、一連の作用または操作。
  2. a series of changes, a natural operaion, 〔使用例〕the digestive process.
  3. a course of events or time.
  〔4以降は略〕

 〈一連の作用または操作〉と〈一連の変化〉とは、前者は作動的であり、後者は静止的に出来事を並べたもののように取れて、大きく異なる
。一連の変化は、日本語での過程に対応し、過程がなんらかの状態の変化やなにか物事を産出するということは無い。しかし、英語でのprocessのもう一つの意味の〈一連の作用または操作〉は、まさに何事かを産むまたは生じることになる。進化学や生態学の英語の本で使われるprocessは、〈一連の作用または操作〉である場合が多いように思う。
 さて、話をBunge(2013)またはシステム的分析に戻すと、問題は機構をどう定義するかである。
 構成と構造を組み合わたら、機構を記述することになるのか?、である。なにかの(数学的)集合と(数学的)集合を組み合わせても、そのシステムが
 システムまたはその一部(つまり或る下位システム)が作動すると、なんらかの一定の(=われわれの言語で特定できる)機能が生じる、と考えてみよう。ここで、〈システムが作動する〉と述べたが、或る作動(たとえば、蛋白体をなんらかの材料(=前駆物体)から集成するまたは組み立てる assemble こと、を含む)をもたらすものが機構だと定義すると、
  1. 力 force (=方向づけられたエネルギー)または作用 action の種類と程度の同定(もちろん分類、つまり部類作り category making が先立つ)
  2. 諸力の時空的分布。空間とは脳の虚構であるが、記述枠でもある。実際には、作用するまたは相互作用する物体の種類と量を特定し記述することになる。
  3.


 さて、問題は、とりわけ「唯物論的」創発である。創発はおそらく、自己組織化または自己編成 self-organization を例として(よく挙げられるのは、ベロウソフ-ジャポチンスキー反応。→或る種類と量の物体の一つの空間的分布模様を特別視しているにすぎない。これは創発とは言わないことにしよう。→創発の様々な定義。認識論的定義や存在論的定義。→Blitz, D. 1992 "Emergent Evolution" 、などを参照せよ。)、また自己組織化で説明するのであろう。では、化学式では、
  2H2+O2→2H2O
と表示される、水素と酸素の化合で水が生成されるという出来事を考えてみよう。
 
 結論。「自己」組織化なんぞ、あり得ない。
 そのシステムに作用するなんらかの力があるはずである。たとえば重力、とりわけ暗黒物質でのエネルギーと力。また、→ポテンシャルエネルギーなるものの正体。

追加:Bunge氏の下記の論への異議。
  「システムが概念的か記号論的かのどちらかならば、上記の順序四つ組の最後の構成要素は、削除されなければならない。なぜなら、そのようなシステムは、それ自身で変化することは無く、したがって機構を持つことは無いからである。」

とあるが、概念のシステムの場合でも、一人の人または人々がその同一性を、たとえば数個の文章や一冊の本のシステムにおいて、維持しているのである。少なくとも、変化するかしないかは、システムが機構を持つこととは関わりが無い。有機体は、環境からの破壊的力(たとえばウイルス)に対して、免疫システムなどが備える機構によって、自己同一性を維持するわけである。[20160821記]



Bechtel (2006) 2.4 機構についての表象と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳完

2016年08月21日 21時30分51秒 | システム学の基礎
2016年8月21日-2
Bechtel (2006) 2.4 機構についての表象と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳完
[2016年8月21日-2は、2016年8月21日-1を改訂追加したもの。]

・訳註。representは表わすと訳し、representationは再現前がその意味だと思うが、(わけのわからない語だが、文系業界で定着しているらしい)表象、と訳した。

William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』

  2.4. 機構についての表象〔表示〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]

 機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
 機構的説明の認識  的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
 機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
 科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
 機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、これは働きを互いから分離しておくのに役立つし、またときおり、働きを互いに関連させておくのに役立つ。これらの空間的諸関係は、線図に難なく示すことができる。特異的な空間的配置に関する情報を欠くか有意義ではない場合でさえ、線図における空間を諸働きを概念的に関係させたり分離させたりするのに使える。そのうえ線図は、空間以外に視覚的処理が利用できる、色と形を含んだ諸次元の利点を活かすことができる。[^10]
 
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[^10]これらは、(或る機構の諸部分の実際の色と形を表象する)図像的 iconic であり得るし、あるいは記号的 symbolic であり得る。脳活動のfMRI線図は、色の記号的使用のよく知られた例である。そこでは、熱いから冷たいへと尺度づけられた色は、強いから弱い活性、または或る基準線を越える活性化の増加の高いから低い統計的有意義性といったことを表わすために使われる。
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 時間は、機構の働きにとって、少なくとも空間と同様に重要である。一つの働きは、別の働きを進めたり、その後を追ったり、それと重複したり、あるいはそれと同時であったりする。このことは、線図における空間的次元の一つを時間的秩序を伝達するのに使うことで、表現し得る。これは、もちろん、問題を引き起こす。すなわち、たいていの線図は二次元であり、時間以外のあらゆるものに対して一つの次元だけが残ることになる。一つの解決は、心臓の線図に例示されたように、機構の空間的関係または類似性関係を自由に表わすために二つの次元を残しておき、矢印は時間的関係を表わすという、戦略的活用である。もう一つの解決は、三次元を二次元面に投影するための技術を使うことである。
 働きの時間的秩序を、空間的次元によって表わすか、矢印によって表わすか、いずれにしろ、線図は言語的記述に対して明瞭な利点を持っている。すべての部分と働きが同時に閲覧に利用可能であるという、最も明白な利点は、たぶん最も弱い点でもある。処理上の制限から、人々は一度には線図の一つか少数の部分しか取り込めない。それでもやはり、文を読むよりももっと多くが取り込める。人々には、数多くの仕方で文のまわりを動く自由があるのだ。そして線図がもっとなじみのうるものになれば、それのもっと多くが一度に取り込むことができる。もっと強力な利点は、線図が、計り知れず価値のあり得る表象のための比較的直接的で図像的な資源を提供することである。たとえば、心臓の線図では、血液が二つの心房腔から二つの心室へと同時に送り出されること、そしてこれら二つの並行的働きは、他の二つの並行的働き(二つの心室腔からの送り出し)に対して逐次的関係性にあることが、即座にわかる。
 このようにして線図を調べる価値は、フィードバックの環を持つ機構において、さらに明きらかである。フィードバックを通じて、概念的に下流にある(機構の生産物として受け取られるものを生産することに、より近い)或る働きは、後に続く時間的諸段階で流れのより前にある働きを実施することを変更する効果を持つ。多数の事例を、細胞の呼吸内で見つけることができる。1930年代に生化学者が発見したように、それは、三つの繋がった下位機構から構成されている(図3.16〔→図3.15が正しい〕で次章に例解した通りである)。それらをさらに取り出すと、それらは、フィードバック的働きをも含めて、同調した生化学的働きを伴うと見られる。図2.3は、最初の二つの下位機構(解糖とクエン酸回路)の間の接面 interface で働く、重要なフィードバック環〔帰還回路 feedback loop〕を示す。この線図は、システムの諸部分(ピルビン酸といった化合物)を空間的に配置することによって、そして垂直の次元だけでなく、働きの順序を指し示すために矢印(反応のための実線の矢印とフィートバック環のための点線の矢印)をも使うことによって、理解を助けるのである。
 
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図2.3.解糖とピルビン酸回路の間にある連鎖におけるフィートバック環〔帰還回路〕。解糖の最終反応において、ホスホエノールピルビン酸はピルビン酸を産生する。ピルビン酸は、それからアセチル補酵素Aをを産生し、そのうちの或る量はクエン酸回路(図には示されていない)を連続的に補給するのに必要である。クエン酸回路で使われ得るよりも多くのアセチル補酵素Aが産生されれば、それはピルビン酸キナーゼを抑制するように蓄積されてフィードバック〔帰還〕する(点線の矢印)。ピルビン酸キナーゼという酵素は、反応の最初の段階を招くものである。これは順に、ブドウ糖が解糖経路の入るのを止めるだろう。
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 推論することを計算機でのモデル作りに従事する認知科学者たちによって認識された重要な原理は、表象の諸様式と推測の諸手順を同調させることが本質的だということである。線図が機構を表わすのに重要な乗り物であるならば、人々が線図についてどのように推論するかを考慮する必要である。アリストテレス以来の哲学者たちはしばしば、論理の手順は、特に自然推論〔自然演繹法 natural deduction〕は、われわれの推理 reasoning を記述することは、当然だと思ってきた。しかし、論理は言語的表象に対してだけ働く。そうなら、科学者たちが線図でもって推理する場合、その推理の働きは異なっているに違いない。科学者たちが線図でどのように推理するのかを理解するには、或る事実に焦点を保つことが助けとなるだろう。その事実とは、諸機構は、諸構成部分がそれらの働きを一つの調整された方式で遂行するおかげで、現象を生成する、である。必要とされる推理の種類は、機構の実際の働きを捕らえる推理であって、諸構成要素が遂行している諸働きとこれらの働きが互いに関係している仕方の両方を含むものである。
 機構を理解するようになった場合の線図の一つの制限は、静的である static ことである。線図が、機構の動態〔動力学〕dynamics を特徴づけるとめに矢印を組み込んでいる場合でさえ、線図自身はなにごともしない。こうして、線図は、諸部分の働きの、全体機構の振る舞いへの関係を捕捉できない。ゆえに、互いの連結は、認知的作用者 cognitive agent によって与えられ〔提供され〕なければならない。認知者は、遂行されている様々な働きを想像しなければならない。そしてそれによって静的な表象を何か動態的なものへと転じるのである。[^11]

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 [^11]動画化した線図 animated diagrams は、人々をこの困難な仕事から解放するし、初心者にはしばしばはるかに啓発的である。コネクチカット大学のThomas M. Terry は、細胞代謝での数多くの働きがどのように関係しているかを明瞭にした、いくつかの素晴らしい線図動画を製作した。http://www.sp.ucon.edu/~terry/images/anim/ETS.html。このような線図のもう一つの良い電網所〔(ウェッブ)サイト〕は、【p.37/p.38】Terryの線図へのリンクも提供しているが、http://www.people.virginia.edu/~rjh9u/atpyield/html である。
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Mary Hegarty (1992) は、〈他のシステム構成要素たちの状態についての情報が与えられているシステムの一構成要素の状態と、諸構成要素間の諸関係〉を推察する活動を、_心的動画製作 mental animation_と名づけた。また、機械装置を設計し、故障修理し、そして操作するという諸活動への、心的動画製作の重要性を強調した(p.1084)。比較的簡単な滑車システムについての問題を人々が解く間の反応時間と眼球運動のデータを得て、推理過程がどの程度に物理的システムの働きと同形 isomorphic であるかを、彼女は調査した。それらが同形でなかったという一つの仕方は、その構成要素が同時に働いている物理的システム〔物理的系〕においてさえ、参加者たちはシステム〔系〕の様々な構成要素(つまり、個々の滑車)について、ばらばらにまた逐次的に separately and sequentially 推理を行なったことである。しかし、参加者たちは、推理を行なうことはかなり難しいことを見いだした。システムを通じて前方へではなくて後方へと推理することが彼らに求められたのである。これが示唆するのは、彼らは、最初の働きとして彼らが表象したものから、逐次的にシステムを動かしたことである。この点では、実際のシステムとの同形性は保たれている。
 科学者たちも含めて人々は、機構の線図を動画化することによって理解するという主張を受け入れると、関連する問いは、いかにして人々はこれをするのか、に関わる。一つのもっともらしい最初の提案は、彼らは機構の像 image を創造し変形して、様々な構成要素がそれぞれが働きを実施しているように表象する、である。知覚において、われわれはシステムの諸部分が時間的に変化するという経験を持つ。それで、この提案は、想像のなかで、まるで動画化された線図を視るようなことが生じるのと同じ過程を呼び起こすことによって、これらの構成要素を動かすということである。この提案は、誤解を招く可能性がぼんやりと見えるので、注意深く解釈する必要がある。心的像への参照は、頭のなかでの画像〔図、絵画 picture〕といった心的対象への参照〔指示〕だと解釈されてはならない。最近の認知神経科学の研究によれば、人々が像を形成するとき、彼らは知覚において行なうのと同一の神経資源の多くを使用していることを示している(Farah, 1988; Kosslyn, 1994)。[^12]ゆえに、頭の中で像を形成しているときに生じていることは、実際の像を見ているときに生じるであろうものと比較可能な活動なのである。Barsalou (1999) は、この神経活動のことを、_知覚的記号 perceptual symbol_として語っている。【p.38/p.39】
 知覚的記号で考えることは、すると特定の方式で振る舞っている視覚的対象からの実際の入力に直面した場合に受けるであろうものに対応する、一連の働きを開始する脳と関与している。Barsalouは、これを_模擬〔擬似体験、シミュレーション〕simulation_と呼ぶ。そのうえ、模擬は、前の経験で起きた、これらの一連の神経プロセスを繰り返すことに限定されるわけではない。われわれは決して見たことのない対象を、これまでに見た物の構成要素を組み合わせることによって、想像することができるように、実際に出会ったものから離れた、変化系列を想像できる。
 人は、単純なシステムよりも、像を形成して操作することが比較的上手である。しかし、想像していることが、互いに相互作用し変化する多数の構成要素を持つ、かなり複雑なシステムが作動していることの場合は、しばしば道に迷ってしまう。〔略。長たらしい記述が続くので、これ以降はあちこちはしょることにする。〕しかし科学者たちと技術者たちは、活動中のシステムを想像するという人の能力を補う道具を創造した。一つの道具は、縮尺模型 scale model 〔略〕を立てて、実際のシステムがどのように振る舞うのかを決定することに使うことである。縮尺模型の振る舞いは、実際のシステムの振る舞いを_模擬 simulate_する。たとえば、風洞における物体の振る舞いは、自然環境での乱気流を伴う現象を模擬するのに使用できる。もし代わりに、或る研究者が、時間を通じての或るシステムの変化を正確に特徴づける方程式を工夫できるならば、縮尺模型を実際に作ることなく、その方程式を解くことでそのシステムがどのように振る舞うのかを、その研究者はしばしば決定できる。この場合では、模擬は、物理模型ではなく、数理模型によってなされる。計算機の出現は、数理模型の方程式を解く手段を提供し、システムを模擬する手段をも加えたのである。より高い水準の計算機言語は、複雑な諸構造とそれらの相互作用を表わすように設計されており、これらの資源を使うことによって、複雑なシステムにおける相互作用の計算機模擬をしばしば創造できる(Jonker, Treur, & Wijngaards, 2002)。
 システムを模擬するこれらの様々な様式はすべて、機構が複雑で多数の働きが同時に起きているときに、重要な利点を提供する。人が機構の働きを想像するときは、相互作用のいくつかをしばしば見失ってしまうが、模擬ではそのようなことはないのである。しかし、想像を行なっているのが人であるときでさえ、彼または彼女が行なっていることもまた、機構を模擬していると特徴づけできる。
 機構は線図でもって表象できるが、言語的にも記述し得る。言語的表象と線図的表象との間に、なんらかの基礎的差異はあるのだろうか?。Larkin and Simon (1987) は、情報的に等価な線図と言語的表象を考察し、探索、パターン認識、そしてそれらの適用できる推論の手順、の容易さの点について、どのようにそれらは異なり得るのかを分析した。一部には、これらの差異は、言語的表象においては暗黙的なだけかもしれない情報が、線図においては明示的にされるかもしれず、それゆえ推理において呼び起こすのがより容易であるという事実に由来する(Larkin & Simon, 1987, p.65)。[^13]もっと最近では、Stenning and Lemon (2001) は、線図は、諸命題〔陳述〕よりも表現力が制約されていて、それゆえより扱いやすいと言った。彼らはまた、これらの諸制約によって与えられる利点は、諸制約を利用可能にする一つの説明を提供している主題に依存すると主張した。
 

   2.5 編制と還元の諸水準 Levels of Organization and Reduction [p.40]



Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳

2016年08月21日 00時31分56秒 | システム学の基礎
2016年8月21日-1
Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳
2016年8月21日-1は、2016年8月20日-4を包含する。


William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』

  2.4. 機構についての表示〔表象〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]

 機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
 機構的説明の認識  的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
 機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
 科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
 機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、これは働きを互いから分離しておくのに役立つし、またときおり、働きを互いに関連させておくのに役立つ。これらの空間的諸関係は、線図に難なく示すことができる。特異的な空間的配置に関する情報を欠くか有意義ではない場合でさえ、線図における空間を諸働きを概念的に関係させたり分離させたりするのに使える。そのうえ線図は、空間以外に視覚的処理が利用できる、色と形を含んだ諸次元の利点を活かすことができる。[^10]
 
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[^10]これらは、(或る機構の諸部分の実際の色と形を表象する)図像的 iconic であり得るし、あるいは記号的 symbolic であり得る。脳活動のfMRI線図は、色の記号的使用のよく知られた例である。そこでは、熱いから冷たいへと尺度づけられた色は、強いから弱い活性、または或る基準線を越える活性化の増加の高いから低い統計的有意義性といったことを表わすために使われる。
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 時間は、機構の働きにとって、少なくとも空間と同様に重要である。一つの働きは、別の働きを進めたり、その後を追ったり、それと重複したり、あるいはそれと同時であったりする。このことは、線図における空間的次元の一つを時間的秩序を伝達するのに使うことで、表現し得る。これは、もちろん、問題を引き起こす。すなわち、たいていの線図は二次元であり、時間以外のあらゆるものに対して一つの次元だけが残ることになる。一つの解決は、心臓の線図に例示されたように、機構の空間的関係または類似性関係を自由に表わすために二つの次元を残しておき、矢印は時間的関係を表わすという、戦略的活用である。もう一つの解決は、三次元を二次元面に投影するための技術を使うことである。
 働きの時間的秩序を、空間的次元によって表わすか、矢印によって表わすか、いずれにしろ、線図は言語的記述に対して明瞭な利点を持っている。すべての部分と働きが同時に閲覧に利用可能であるという、最も明白な利点は、たぶん最も弱い点でもある。処理上の制限から、人々は一度には線図の一つか少数の部分しか取り込めない。それでもやはり、文を読むよりももっと多くが取り込める。人々には、数多くの仕方で文のまわりを動く自由があるのだ。そして線図がもっとなじみのうるものになれば、それのもっと多くが一度に取り込むことができる。もっと強力な利点は、線図が、計り知れず価値のあり得る表象のための比較的直接的で図像的な資源を提供することである。たとえば、心臓の線図では、血液が二つの心房腔から二つの心室へと同時に送り出されること、そしてこれら二つの並行的働きは、他の二つの並行的働き(二つの心室腔からの送り出し)に対して逐次的関係性にあることが、即座にわかる。
 このようにして線図を調べる価値は、フィードバックの環を持つ機構において、さらに明きらかである。フィードバックを通じて、概念的に下流にある(機構の生産物として受け取られるものを生産することに、より近い)或る働きは、後に続く時間的諸段階で流れのより前にある働きを実施することを変更する効果を持つ。多数の事例を、細胞の呼吸内で見つけることができる。1930年代に生化学者が発見したように、それは、三つの繋がった下位機構から構成されている(図3.16〔→図3.15が正しい〕で次章に例解した通りである)。それらをさらに取り出すと、それらは、フィードバック的働きをも含めて、同調した生化学的働きを伴うと見られる。図2.3は、最初の二つの下位機構(解糖とクエン酸回路)の間の接面 interface で働く、重要なフィードバック環〔帰還回路 feedback loop〕を示す。この線図は、システムの諸部分(ピルビン酸といった化合物)を空間的に配置することによって、そして垂直の次元だけでなく、働きの順序を指し示すために矢印(反応のための実線の矢印とフィートバック環のための点線の矢印)をも使うことによって、理解を助けるのである。
 
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図2.3.解糖とピルビン酸回路の間にある連鎖におけるフィートバック環〔帰還回路〕。解糖の最終反応において、ホスホエノールピルビン酸はピルビン酸を産生する。ピルビン酸は、それからアセチル補酵素Aをを産生し、そのうちの或る量はクエン酸回路(図には示されていない)を連続的に補給するのに必要である。クエン酸回路で使われ得るよりも多くのアセチル補酵素Aが産生されれば、それはピルビン酸キナーゼを抑制するように蓄積されてフィードバック〔帰還〕する(点線の矢印)。ピルビン酸キナーゼという酵素は、反応の最初の段階を招くものである。これは順に、ブドウ糖が解糖経路の入るのを止めるだろう。
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 推論することを計算機でのモデル作りに従事する認知科学者たちによって認識された重要な原理は、表象の諸様式と推測の諸手順を同調させることが本質的だということである。線図が機構を表わすのに重要な乗り物であるならば、人々が線図についてどのように推論するかを考慮する必要である。