2016年8月20日-4
Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳
William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』
2.4. 機構についての表示〔表象〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]
機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
機構的説明の認識 的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、
Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳
William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』
2.4. 機構についての表示〔表象〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]
機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
機構的説明の認識 的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、