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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第19回

2016年09月19日 | 日記

4「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない」(ヨハネ4:2,3)。

 キリストがこの地に、私たちのような肉体で来られ、試練と苦しみの中で勝利されたように、本当のクリスチャンも、キリストの模範に習って、罪と試練に勝利することが出来るという信仰が、聖霊を見分ける重要な基準となります。聖霊の賜物を体験するクリスチャンは、当然、罪と誘惑に勝利する生涯を生きるようになり、そのような教えを信じて受け入れる必要があります。聖なる生涯を生きるクリスチャンに、聖なる天の贈り物が注がれるようになります。

 5「獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:11,12)。

 使徒ヨハネも、やはりイザヤが述べた霊の見分け方に同意しています。最後の時代に、獣の刻印を受けることなく、忍耐して苦難を通過する真のクリスチャンについて啓示を見せられた使徒ヨハネは、彼らの身分を「神のいましめを守り、イエスの信仰(欽定訳)を持ちつづける」(黙示録14:12)者たちとしています。つまり、最後の時代に「神の戒めを守り、イエスの信仰を持ちつづける」かどうかが霊を見分ける明確な基準になります。

 従って、すべての奇跡と賜物を、無条件に神様の霊の賜物だと見てはいけないということです。この質問に対して、聖書がはっきりと答えています。聖書がクリスチャンに送るアドバイスは、すべての奇跡と賜物を神様のみ言葉で試し、判断しなさいということです。

 


助け主聖霊 第18回

2016年09月18日 | 日記

5.奇跡はすべて聖霊の賜物なのか?

 私たちは聖霊の賜物のために祈る必要があります。なぜなら、聖霊の賜物は、今日、この時代にも与えられるからです。しかし、クリスチャンが霊的な賜物を用いるときに、忘れてはならないことがあります。聖書は、終わりの時代にサタンが、真理に堅く根付いていなかった人々を混乱させるために、聖霊の働きを偽造すると警告しています。最後の時代に表されるサタンの活動は、「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議」(Ⅱテサロニケ2:9)で特徴付けられると聖書は述べています。

 サタンの活動が非常に欺瞞的な理由は、「キリストの使徒に擬装」することがあり、「サタンも光の天使に擬装する」するからです(コリント11:13,14)。その偽装があまりにも驚くべきものであるため、聖書は「できれば、選民をも惑わそうとする」と警告しています(マタイ24:24)。

 これらの言葉は、聖霊の賜物を追求する教会や聖職者を、すべて避けなければならないということを意味するのでしょうか?そうではありません。これは、神様のみ言葉によって、すべての教会とすべての宗教的体験、そしてすべての奇跡を試す必要があるという意味です。パウロは「すべてのものを識別して、良いものを守」るためにそのように勧告したのです(Ⅰテサロニケ5:21)。この問題に対して、私たちに与えられた使徒ヨハネの別のアドバイスを聞いて下さい。「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」(Ⅰヨハネ4:1)。

 6.聖書は霊をテストする判断基準は何であると言っていますか?

 神様のみ言葉は、次の5つの聖句を提示しています。

 1「ただおきてとあかしとを求めなさい。彼らのいうところがこのことばに一致しなければ、光はない」(イザヤ8:20:欽定訳)。

 聖霊の真の賜物を受けた人は、神様の律法に従う人生を歩みますし、自分の信じるところが聖書の真理に一致する必要があります。聖書の真理を正しく理解して、律法と証の言葉に従う人生を生きるクリスチャンは、神様の霊の支配を受けていると言えるでしょう。

 2「平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」(エレミヤ28:9)。

 ある人が預言する賜物を受けたら、彼の預言が正確に成就されるべきです。

 3「その実によって彼らを見わけるのである」(マタイ7:20)。

 ある人が聖霊の賜物を受けたという場合、彼の言動は、キリストの福音を伝える代表として立つことが出来るような、豊かな聖霊の実を結んでいる必要があります。家庭で夫婦喧嘩をし、子供たちに腹を立て、すべての金銭的な問題において厳格な正直を保つことができないクリスチャンが、異言やいやしの賜物を行うならば、私たちはそれを天から下ってきた賜物だと考えることが出来るでしょうか?そのような人がキリストの福音を伝えるとき、彼をよく知っている未信者の家族や周囲の人々に良い感化を及ぼすでしょうか?

 おそらく、人々は彼が持っている二面性を見て、神様の福音について混乱を持つようになるでしょう。神様はそのような人に聖霊の賜物を与えて、神様の働きを行っている証拠と見なして下さるでしょうか?そのような人は、自分自身で違う霊を受けた可能性について真剣に考えるべきでしょう。天は偉大な聖霊の力を受けるのに適切に準備された人にのみ、聖なる贈り物を与えられます。清く変化した品性を所有していない人に、天の偉大な能力を委託されたなら、福音事業にどれほどの混乱と危険を招くかについて考えてみて下さい。


助け主聖霊 第17回

2016年09月17日 | 日記

4. 奇跡を行う経験をしましたが、それは私が救われた証拠でしょうか?

 ある奇跡や賜物も、クリスチャンの信仰と救いを決定する絶対的な証拠や基準として用いてはいけません。奇跡を行なう経験していた人々の中でも、最終的には、神様への不従順と反抗的な人生を生きた結果により滅んだ例を聖書からいくらでも見つけることができます。しかし、あまりにも多くの場合、私たちはある賜物があるかどうかで、お互いの霊的な状態を判断する誤りを犯しています。

 一つ奇妙なことは、ある教会では異言を語る人々であふれ、別のある教会では、いやしの賜物を受けたと主張する人が多くいるということです。同じ聖霊の賜物が、まるで流行現象のように教会やグループの中に存在するため、異言を語らない人や、病気を治せない人は、霊的な劣等感さえ感じるようになるのが、今日の教会の状態ではないでしょうか?使徒時代のコリント教会にもこのような問題がありました。そのため使徒パウロは次のような言葉で、コリント教会の信徒たちを戒めました。「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、…次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」(Ⅰコリント12:27-30)。すべての人が同じ賜物を持つことはできないというのが、パウロの説明です。私たちには、それぞれ肢体があってお互いに協力しながら体を維持しているように、クリスチャンも異なる賜物と才能をもって、キリストの体である教会のために奉仕します。

 また、使徒パウロは、特に「異言は・・・未信者のためのしるし」(Ⅰコリント14:22)と言いました。使徒たちの時代に福音は、教育をきちんと受けられなかった弟子たちによって、他の民族に伝える必要がありました。それで、言語の壁により宣教が難しくなると、神様が摂理のうちに、福音の迅速な宣教のために異言の賜物を弟子たちに与え、福音は、すべての民族と国の人々に伝えることが出来るように導かれました。

 また、聖霊の賜物を目撃する未信者の人々に、キリスト教信仰の確信を植え付ける役割を果たしました。しかし、今日では、多くのクリスチャンにとって、異言が信じていない人々の伝道のためでなく、すでに信仰を受け入れた人々の間で、自分や周囲の人の確信のために用いられていて、その用途が変更されてしまいました。

 それでは、私たちの信仰を判断することができる基準は何でしょうか?イエス・キリストが定められた試験基準を見てみましょう。イエスは、「その実によって彼らを見わけるのである」と言われました(マタイ7:20)。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)であると聖書は記しています。み霊の実は、憎しみではなく愛であり、不満と失望ではなく喜びであり、分裂と心配と自ら作り出した不和ではなく、平和であることに注意してください。聖霊の実を豊かに結んだ人たちに、天は神様の意志と摂理によって、聖霊の賜物を豊かに授けられるということが、聖書が述べている真理です。


助け主聖霊 第16回

2016年09月17日 | 日記

3.異言の賜物やいやしの賜物を受けるには、どうすべきでしょうか?

 このような質問は、その質問自体に問題があるということを、まず理解する必要があります。ですから、この質問に対する答えを見つける前に、私たちは「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられる」という重要な原則を忘れてはいけません(Ⅰコリント12:11)。私たちが希望する聖霊の賜物を自分で選ぶのではなく、聖霊が福音宣教のためにご自身の意志と摂理に応じて、一人ひとりを器として用いられるのです。聖霊の賜物は、私たち自身の必要に応じて選択するものではなく、聖霊がご自分の必要性と目的に応じて、受ける準備が整えられた人に与えられる賜物であるということが、聖書が述べている真理です。私たちが聖霊を用いるのではなく、聖霊が私たちを用いて下さるという事実に注意する必要があります。

 神様は聖徒たちを通して奇跡を行なわれます。私たちは聖霊の奇跡と賜物を求め、祈りを捧げることが出来ます。しかし、奇跡や賜物の必要性と、それが行われる場所と時間と環境は、完全に神様の意志と計画にかかっています。私たち人間は、神様の奇跡が現されるべき最適の時と場所と環境を知ることが出来ません。いつ、どのような環境で、天の父の奇跡が行われるのかを正確に知ることが出来ません。私たちには天が与えて下さる能力を、時にかなって用いることの出来る霊的な知恵が不足しています。また、聖霊の賜物と奇跡を求めている私たちの祈りが、利己的なものになっていることがあるのです。

 ですから私たちは、神様の奇跡と聖霊の賜物を求める際に、イエス様がされた祈りの精神を持たなければなりません。「主よ、あなたの栄光のために、聖霊の賜物を求めている私の願いを聞いてお与え下さい。しかし、私の意のままにではなく、父のみ心のままに行って下さい。み心が天で行われるように地でも行われるようにさせて下さい。アーメン。」


助け主聖霊 第15回

2016年09月15日 | 日記

2.聖霊を受ける際にどのような感じや感情を持つようになるのでしょうか。

 聖霊を受けるすべての人が、同じ感じと感情を持つのではありません。ある人々は、聖霊を受けた証拠として感情の高揚を期待しますが、聖書はむしろ、次のように聖霊が働かれるようすを説明しています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)。私たちは、風を見ることが出来ませんが、風が吹いた結果は知ることが出来ます。私たちは、聖霊が心に働かれる際にそれを見ることが出来なくても、彼の能力は、静かな中に、新しい命をもたらします。私たちは聖霊の働きを見たり、触れたりは出来なくても、主がなされた働きの結果を見ることが出来ます。もし私たちの心が聖霊の働きによって、罪を憎み義を愛する新しい心に変化されるなら、その後の私たちの生涯が、聖霊の臨在を証しするでしょう。それは、特別な感情や興奮とは違う、深い静かな変化です。

 聖霊の臨在は、私たちの気分や感情に依存して確認することは出来ません。聖霊の臨在はただ変えられた生涯を通してのみ確認することが出来ます。もし私たちが完全に自分自身を空にして、心の中の偶像と罪を捨てるなら、キリストの霊が私たちの心の中を豊かに満たすのです。ただそのようにする人々だけが、聖霊の贈り物を受け取ることが出来ますが、彼らは自分自身に与えられた聖霊の賜物について決して自慢することなく、すべての栄光を神様に向けます。自分自身が無価値なものであり、一方的な神様の恵みによって生かされていることを知っているからです。「ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである」。(Ⅱコリント2: 10,12)。

 私たちが聖霊を受けた際には、恍惚状態となったり感情が高まったりするより、むしろ落ち着きと鋭い判断力を持って、キリストの福音を宣べ伝えることに生涯を捧げるようになります。イエス・キリストの経験と生涯を考えてみて下さい。彼のように聖霊に満たされた人がいるでしょうか?彼の生涯は、感情的歓喜や興奮による生涯ではありませんでした。むしろ犠牲と奉仕に捧げられた生涯でした。このお方は罪と不義を拒否され、病人や貧しい者を救い治療される生涯を送られました。また主は、聖霊に満たされた結果として聖なる人生を送られたのであって、ご自分に聖霊が臨まれたことを証明するために、救いと癒しを施されたのではありませんでした。このお方は、一度も自分自身のためには聖霊の力を用いられず、ただ福音を宣べ伝え、神様のご意志を行なうことだけに聖霊の力を求められました。

 キリストを通して、聖霊に満たされた生涯とは、天の父のみ心を、静かながらも真剣に行う従順の生活として表されました。このお方の人生は、愛と犠牲と克己に満ち、自我は否定され消えていました。同様に聖霊に満たされたクリスチャンは、理性的な良識と神様の真理が感情や衝動を支配するようになります。真理は、健全な常識の上に築かれ、秩序ある家庭生活を通して他の魂に最も強力な影響力を発揮することが出来ます。

 神様がクリスチャンに聖霊の賜物をお与えになる最も重要な目的は、福音の効果的かつ迅速な宣教のためです。聖霊の賜物を、信仰的満足感を得る手段として求めてはなりませんし、自分の救いの確信を得るために求めてもいけません。また聖霊は、神様が自分を承認して下さったという心の安心感を得るための手段でもありません。神様が聖霊の賜物を教会に与えて下さった理由は、福音の効果的な宣教のための能力、賜物としてだったのです。

 最後に、この質問に関連している使徒パウロの勧めを聞きましょう。パウロは、コリント第1の手紙14章で、間違って理解されている聖霊の賜物について、次のようにコリント教会の信徒たちにアドバイスしています。「すべては徳を高めるためにすべきである…神は無秩序の神ではなく、平和の神である…すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい 」(コリント14:26,33,40)。