札幌の人権シンポジウムで、取手市議会議員の、細谷のりお(典男)先生と。
ほぼ2年前の(明日でちょうど2年目)、安倍さんの事件以後、家庭連合排除のうねりの中で、取手市議会において、共産党が、家庭連合排除の動きに出た。
信者でもなんでもなく、家庭連合とそれまでなんの関わりも持たなかった細谷先生は、憲法の、基本的人権、法の下の平等、そして適切手続きの観点から、
それはおかしくない?
って声を上げて、本を書いて、ビラを配って、住民・市民に理解されて、ほぼトップ当選を果たされた。
その細谷先生と、札幌で、人権シンポジウムに出て、同じホテルに泊まり、同じ湯船に浸かりながら、いろいろお話を伺っていると、
- 家庭連合の方々って、知れば知るほど、みんないい人
- 家庭連合とか、世界女性連合の活動って、知れば知るほど、本当に素晴らしい
- 例えば、「為に生きて、それを忘れる」とか
- 「世のため人のために何かをする」ことはできても、それをこれみよがしに吹聴するのではなく、「それを忘れる」ってのはなかなかできることではない
なんて話が出てくる。細谷先生の口から。
全く同感。
多くの市民・識者は、遠巻きに、家庭連合を見て、「なんかおかしいけど私にはカンケーないね」「火の粉が飛んでこないように」って、チキン的に様子見をされている。
解散命令請求の手続きはおかしいし、その指摘はするけど、家庭連合の教義や活動の内容までは弁護しない。
その気持は分からぬでもない。教義や活動の内容を把握したり、信者と交流するのには時間とエネルギーが必要だし。
教義の内容や活動を弁護すると、「アイツは家庭連合の回し者だ」「お抱え弁護士だ」「御用学者だ」と言われるし。ツボ弁護士と揶揄される私のように。
みんな人間。
だから、自分の地位、要するにゼニカネ、が大事だ。
しかし。
それでいいのだろうか。
身に火の粉がかかることを恐れて、遠巻きにしか、手続き的なところにしか、家庭連合を論じようとしない。
それは、中島敦『李陵』が言うところの
全躯保妻子(身体を全うし、妻子を保つ)
の、つまり、保身ではなかろうか。
自分が大事。自分の収入が大事。自分が養う妻子が大事。
つまり、生活のために生きている。生きるために生活するのではなく。
要するに、明日の御飯(オマンマ)のために生きている。評判を恐れて、収入が減るのが怖いから。
生きる姿勢が問われている。
私は、今日明日のオマンマのために生きるのではない。
何のために生を享けたのか。
死ぬときにどう記憶されたいのか。
そんな問いを考えてみるのがいいのかもしれません。
ちなみに私は、死ぬときに、「中山達樹はいつもリスクを恐れずチャレンジする人だった」と記憶されたい。
真実を見極め、良心に忠実に生きる、、
簡単ではないその道を進む真の弁護士。
真っ白が似合います。