今、有岡城といえば、一番の関心事はやはり、これじゃないでしょうか?
官兵衛が幽閉された場所の特定は、果たして可能か否か。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、官兵衛が幽閉されたのは、洞窟のような「土牢」(つちろう)。
そこは、入り口を木の格子で塞いだだけの素掘りの横穴で、床板も張っていない劣悪な環境です。
その「土牢」に官兵衛は、天正6年(1578)10月から、翌年11月まで丸1年間も閉じ込められます。
劣悪な環境は、次第に官兵衛の身体を蝕んでゆきました。
一方、栗山善助ら黒田家臣団は、有岡城下に潜入し、城内の「土牢」の場所を突き止めました。
そして、落城間際の混乱の中、ついに官兵衛の救出に成功しました。
以上、大河ドラマのストーリーは、おおよそ『黒田家譜』の記述を下敷きにして作られているようです。
試みに、『黒田家譜』から官兵衛の幽閉に関する記述を拾ってみると、次のようになりました。
・官兵衛は生け捕られ、有岡城内に禁獄された。
・牢の中は、堪え難いほど窮屈だった。
・牢の後ろには、溜め池があった。
・牢は番人が監視していた。しかし溜め池の方には番人が居なかった。
・栗山善介は夜にまぎれ池を泳ぎ渡り、牢の官兵衛に接した。
・落城間際の混乱の中、善介は牢の錠を壊して官兵衛を救出した。
という状況が記されています。
しかし、牢そのものの構造については、「堪え難いほど窮屈」という以外は、何も記されていません。
どうやら「土牢」というのは、「牢の中は、堪え難いほど窮屈」という状況を基にして考えられた、一つの解釈のようです。
*****
さて、このストーリーの元史料となった『黒田家譜』ですが、
これは官兵衛の子孫である福岡藩主・黒田家が編纂した公式の歴史書です。
ただし、編纂が始められたのが寛文11年(1671)、完成が元禄元年(1688)であり、
官兵衛の生きた時代から、かなり時代が下ってから書かれたという点に注意が必要です。
また、内容も実証的な歴史考証を目的とするものではありません。
当然、祖先の官兵衛を讃えるための脚色や創作が盛り込まれていると考えるべきです。
とは言っても、やはり有岡城幽閉は、官兵衛の人生最大の危機で、後の黒田家の命運も左右した重大事件です。
記述にも臨場感がありますから、家臣たちの家に伝わっていた逸話などを取材して、
ある程度、参考にしている可能性もあります。
(逆に「講釈師、見てきたような、事を言い・・・」的な創作かも知れませんが???」)
いろいろと思いは廻りますが、有岡城内に幽閉中の官兵衛について、『黒田家譜』の他に具体的な記述をした史料がありません。
また、有岡城内で、背後に溜め池があった場所というのも、現在の地形からは比定が困難です。
そういう訳で、『黒田家譜』の記述の信憑性を問おうとしても、比較できる材料が無く、手のつけようが無いというのが実情なのです。
*****
さて、ここで仮に『黒田家譜』の記述が史実であるとして、「土牢」(仮に、牢は「土牢」だったとしておきましょう・・・)があった場所を考えてみましょう。
最初の手掛かりは、背後に溜め池があったという点です。
先にも述べましたが、城内で溜め池があった場所というのは、現在の地形からは比定が困難です。
そもそも、有岡城は伊丹台地上の高台に立地しているので、城内に泳ぎ渡るほど大きな溜め池が存在した可能性は低いように思われます。
そうなると、溜め池の存在が考えられるのは、城の東側、伊丹台地の崖下ということになります。
前回の稿で、現代の航空写真の上に有岡城の縄張図を重ねてみましたが、少し手を加えて再掲載します。
本丸は伊丹台地が大きく東に突き出した丘を利用して築かれていて、その麓は猪名川の低湿地になっています。
江戸時代初期の寛文9年(1669)に描かれた『伊丹郷町絵図』では、有岡城の本丸跡(古城山)の東の麓に、大きな池が描かれています。
荒木村重の時代には、この池がもっと大きく、本丸の北西から東、そして南東部を囲む堀の役割を果たしていた可能性もあります。
もし、そうだとすると、黒田官兵衛が幽閉された「土牢」は本丸の端にあり、背後には伊丹台地の崖が迫り、麓に溜め池があった場所と推測できます。
崖の下の溜め池の辺りならば、番人が配置されておらず、このルートを通って栗山善介が「土牢」の官兵衛に接したという話も納得できます。
その場所は、あるいは本丸の北西隅、すなわち現在のJR伊丹駅の北西方に土塁や石垣が残っている辺りかも知れませんが・・・
しかし、これはあくまでも仮説の上に仮説を重ねたお話です。
*****
ところで、戦国時代の城に、実際に「土牢」は存在したのでしょうか。
全国の城跡を調べてゆくと、それに近いものが残っている例がありました。
静岡県の高天神城(たかてんじんじょう/静岡県掛川市)です。
今に残る 「土牢」 の実例
高天神城は、徳川家康が浜松城(静岡県浜松市)を本拠地にしていた頃、武田勝頼と激しい争奪戦を繰り返した山城です。
その城跡に「大河内政局(おおこうち まさもと)石窟」と呼ばれる洞穴が残っています。
<高天神城跡に残る石窟。格子はコンクリートによる再現ですが、有岡城の「土牢」もこんなイメージ?>
*****
天正2年(1574)、徳川方に属していた高天神城は、武田勝頼の大軍の攻撃を受けました。
城主・小笠原長忠(今川家旧臣)は、徳川家康に援軍を求めましたが得られず、遂に力尽きて降伏します。
勝頼は、降伏した小笠原長忠とその家臣団を、城外への退去を条件に助命しました。
そんな中でただ一人、城内に留まって武田氏に抵抗を示した者がいました。
家康から軍監として高天神城に派遣されていた大河内政局です。
怒った勝頼は、政局を捕えさせ、この石窟に幽閉しました。
その後、天正9年(1581)に徳川家康の高天神城を奪還するまで、足掛け8年間も政局はここに閉じ込められていたと伝えられています。
なお、近年の発掘調査で、この石窟の中から戦国時代の地表面が検出されました。
戦国時代にこの石窟が存在したことが確認されたので、一つ伝承の裏付けが取れたといえます。
遠江国と摂津国とで離距は離れていますが、有岡城の籠城戦と同時期のもので、興味深いものがあります。
<高天神城跡の「大河内政局石窟」の説明板>
官兵衛が幽閉された場所の特定は、果たして可能か否か。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、官兵衛が幽閉されたのは、洞窟のような「土牢」(つちろう)。
そこは、入り口を木の格子で塞いだだけの素掘りの横穴で、床板も張っていない劣悪な環境です。
その「土牢」に官兵衛は、天正6年(1578)10月から、翌年11月まで丸1年間も閉じ込められます。
劣悪な環境は、次第に官兵衛の身体を蝕んでゆきました。
一方、栗山善助ら黒田家臣団は、有岡城下に潜入し、城内の「土牢」の場所を突き止めました。
そして、落城間際の混乱の中、ついに官兵衛の救出に成功しました。
以上、大河ドラマのストーリーは、おおよそ『黒田家譜』の記述を下敷きにして作られているようです。
試みに、『黒田家譜』から官兵衛の幽閉に関する記述を拾ってみると、次のようになりました。
・官兵衛は生け捕られ、有岡城内に禁獄された。
・牢の中は、堪え難いほど窮屈だった。
・牢の後ろには、溜め池があった。
・牢は番人が監視していた。しかし溜め池の方には番人が居なかった。
・栗山善介は夜にまぎれ池を泳ぎ渡り、牢の官兵衛に接した。
・落城間際の混乱の中、善介は牢の錠を壊して官兵衛を救出した。
という状況が記されています。
しかし、牢そのものの構造については、「堪え難いほど窮屈」という以外は、何も記されていません。
どうやら「土牢」というのは、「牢の中は、堪え難いほど窮屈」という状況を基にして考えられた、一つの解釈のようです。
*****
さて、このストーリーの元史料となった『黒田家譜』ですが、
これは官兵衛の子孫である福岡藩主・黒田家が編纂した公式の歴史書です。
ただし、編纂が始められたのが寛文11年(1671)、完成が元禄元年(1688)であり、
官兵衛の生きた時代から、かなり時代が下ってから書かれたという点に注意が必要です。
また、内容も実証的な歴史考証を目的とするものではありません。
当然、祖先の官兵衛を讃えるための脚色や創作が盛り込まれていると考えるべきです。
とは言っても、やはり有岡城幽閉は、官兵衛の人生最大の危機で、後の黒田家の命運も左右した重大事件です。
記述にも臨場感がありますから、家臣たちの家に伝わっていた逸話などを取材して、
ある程度、参考にしている可能性もあります。
(逆に「講釈師、見てきたような、事を言い・・・」的な創作かも知れませんが???」)
いろいろと思いは廻りますが、有岡城内に幽閉中の官兵衛について、『黒田家譜』の他に具体的な記述をした史料がありません。
また、有岡城内で、背後に溜め池があった場所というのも、現在の地形からは比定が困難です。
そういう訳で、『黒田家譜』の記述の信憑性を問おうとしても、比較できる材料が無く、手のつけようが無いというのが実情なのです。
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さて、ここで仮に『黒田家譜』の記述が史実であるとして、「土牢」(仮に、牢は「土牢」だったとしておきましょう・・・)があった場所を考えてみましょう。
最初の手掛かりは、背後に溜め池があったという点です。
先にも述べましたが、城内で溜め池があった場所というのは、現在の地形からは比定が困難です。
そもそも、有岡城は伊丹台地上の高台に立地しているので、城内に泳ぎ渡るほど大きな溜め池が存在した可能性は低いように思われます。
そうなると、溜め池の存在が考えられるのは、城の東側、伊丹台地の崖下ということになります。
前回の稿で、現代の航空写真の上に有岡城の縄張図を重ねてみましたが、少し手を加えて再掲載します。
本丸は伊丹台地が大きく東に突き出した丘を利用して築かれていて、その麓は猪名川の低湿地になっています。
江戸時代初期の寛文9年(1669)に描かれた『伊丹郷町絵図』では、有岡城の本丸跡(古城山)の東の麓に、大きな池が描かれています。
荒木村重の時代には、この池がもっと大きく、本丸の北西から東、そして南東部を囲む堀の役割を果たしていた可能性もあります。
もし、そうだとすると、黒田官兵衛が幽閉された「土牢」は本丸の端にあり、背後には伊丹台地の崖が迫り、麓に溜め池があった場所と推測できます。
崖の下の溜め池の辺りならば、番人が配置されておらず、このルートを通って栗山善介が「土牢」の官兵衛に接したという話も納得できます。
その場所は、あるいは本丸の北西隅、すなわち現在のJR伊丹駅の北西方に土塁や石垣が残っている辺りかも知れませんが・・・
しかし、これはあくまでも仮説の上に仮説を重ねたお話です。
*****
ところで、戦国時代の城に、実際に「土牢」は存在したのでしょうか。
全国の城跡を調べてゆくと、それに近いものが残っている例がありました。
静岡県の高天神城(たかてんじんじょう/静岡県掛川市)です。
今に残る 「土牢」 の実例
高天神城は、徳川家康が浜松城(静岡県浜松市)を本拠地にしていた頃、武田勝頼と激しい争奪戦を繰り返した山城です。
その城跡に「大河内政局(おおこうち まさもと)石窟」と呼ばれる洞穴が残っています。
<高天神城跡に残る石窟。格子はコンクリートによる再現ですが、有岡城の「土牢」もこんなイメージ?>
*****
天正2年(1574)、徳川方に属していた高天神城は、武田勝頼の大軍の攻撃を受けました。
城主・小笠原長忠(今川家旧臣)は、徳川家康に援軍を求めましたが得られず、遂に力尽きて降伏します。
勝頼は、降伏した小笠原長忠とその家臣団を、城外への退去を条件に助命しました。
そんな中でただ一人、城内に留まって武田氏に抵抗を示した者がいました。
家康から軍監として高天神城に派遣されていた大河内政局です。
怒った勝頼は、政局を捕えさせ、この石窟に幽閉しました。
その後、天正9年(1581)に徳川家康の高天神城を奪還するまで、足掛け8年間も政局はここに閉じ込められていたと伝えられています。
なお、近年の発掘調査で、この石窟の中から戦国時代の地表面が検出されました。
戦国時代にこの石窟が存在したことが確認されたので、一つ伝承の裏付けが取れたといえます。
遠江国と摂津国とで離距は離れていますが、有岡城の籠城戦と同時期のもので、興味深いものがあります。
<高天神城跡の「大河内政局石窟」の説明板>