龍野城を歩こう。  - 「軍師官兵衛」ゆかりの城② -

2014-02-11 22:59:43 | まち歩き
大河ドラマの悪役の城?


さて、今回もNHK大河ドラマ・「軍師官兵衛」ネタでお話を始めてみます。

ドラマの今の段階では、まだ織田信長の勢力は播磨国(現在の兵庫県南西部一帯)には及んでいません。
播磨国は、この地に代々続いてきた中小規模の大名たちが、それぞれの領地を治めています。
そんな中、黒田官兵衛やその主君・小寺政職(こでら・まさもと)に対し、執拗に戦いを挑んでくる宿敵がいます。

その宿敵の名は、赤松政秀(あかまつ・まさひで)。
龍野城の城主です。

ドラマで赤松政秀を演じるのは、団時朗(だん・じろう)さんです。
団さんは、昭和46年(1971)放送の『帰ってきたウルトラマン』で、主人公・郷秀樹(ごう・ひでき)を演じていました。
まさに私の幼児期、「正義とは何か」を教えてくれたヒーローだったのです。
しかし今、団さんが演じている赤松政秀は、なかなかの悪人面です。
いえ、顔つきだけでなく、ホントに毎週毎週、悪行の限りを尽しているのです。

第1話「生き残りの掟」では、子供時代の官兵衛が、病身の母のために必死で薬草を探しに出掛けます。
そして赤松家の武士たちに捕えられてしまいました。
赤松政秀は、官兵衛を人質にして、官兵衛の父・黒田職隆(柴田恭兵さん)に無理難題を吹っ掛けます。
まるで誘拐犯です。

第2話「忘れえぬ初恋」では、政秀の襲撃を受け、官兵衛の幼なじみ・おたつ(南沢奈央さん)が命を落とします。

第3話「命の使い道」では、官兵衛は おたつを失った悲しみと怒りで自暴自棄になります。
そして、政秀への復讐心にかられ、祖父・黒田重隆(竜雷太さん)に諭されます。

第5話「死闘の果て」では、ついに黒田勢が赤松勢の大軍と激突します。
官兵衛は苦戦の末に勝ちました。
しかし、母里武兵衛(もり・ぶへえ/永井大さん)を始め、多くの黒田家臣団が戦死してしまいました。

こうしたストーリー展開によって、大河ドラマ視聴者の頭の中には、「赤松政秀 イコール 悪の権化」みたいなイメージがすっかり定着しているかも知れませんね。



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赤松政秀の言い分


ところで、もし赤松政秀に「どうして、そんなに攻撃的なのですか?」と質問したならば・・・、
きっと、
「いやいや、悪いのは小寺じゃよ。 主家の領地を奪って独立しやがって!その家老・黒田もケシカラン!!」
といった答えが返ってくるんじゃないでしょうか。

そもそも赤松氏は、室町幕府の設立に功績があり、足利将軍より播磨国の守護職に任じられ、代々続いてきた家柄です。
赤松氏はその後、将軍に反抗して、一時没落しましたが、応仁の乱を契機に播磨国の大名として再興しました。
しかし、そうした時代の流れの中、赤松氏の有力家臣の何家かが、次第に実力を蓄え、播磨の各地で独立した大名に成長してゆきました。
御着城の小寺氏もそのひとつでした。
そのため、かつて赤松氏が治めていた播磨国も、独立した元・家臣たちの領地が錯綜し、「虫食い状態」となります。
戦国時代になると赤松本家が置塩城、分家が龍野城を拠点に、東播磨の数郡をやっと支配する有様でした。

そんな事情で、赤松政秀にも言い分はあるのですね。


では、今回はその赤松政秀の居城・龍野城をご案内いたしましょう。

龍野城は、明応8年(1499)に赤松村秀が築城したと伝えられています。
村秀の息子で2代目の龍野城主になったのが、赤松政秀です。
羽柴秀吉の播磨平定後、赤松氏は龍野から去ります。
その後、蜂須賀小六、福島正則など、秀吉配下の武将が入城しました。



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龍野城  たつのじょう    (兵庫県たつの市)




B103

平成22年(2010)1月、龍野城を訪ねました。

JR姫新線の本龍野駅を出て、西へ10分ほど歩くと、揖保川(いぼがわ)の畔に出ます。
対岸のひときわ目を引く山が、龍野城が築かれた鶏籠山(けいろうさん)です。

鶏籠山は標高218メートル。
こうして見ると、なだらかな山容ですが・・・・、
さにあらず、後でその険しさをさんざん思い知ることになりました。

ちなみに、「鶏籠」とは、ニワトリを飼う時に使う竹製のカゴのことです。
昔の農家は、ニワトリを庭先で放し飼いにしていて、夜はイタチなどに襲われないよう大きなカゴを伏せた中に入れて眠らせていました。
鶏籠山の名は、そのカゴの形に似ていることに由来しています。


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B219

龍野の城下町です。
鉄道が揖保川の対岸を通っているため、江戸時代の面影がよく残っています。


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城下町には、龍野城の防衛を意識して要所要所に大きな寺院が配置されています。
こうした寺々は、有事には砦として機能させる構想でした。

奥の山は鶏籠山です。
山麓の高台には、江戸時代に築かれた龍野城の本丸が見えます。


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B503

鶏籠山麓に築かれた江戸時代の龍野城です。

龍野城は、江戸時代初期の万治元年(1658)、一旦廃城となりました。
その後、寛文12年(1672)に脇坂氏が新たに領主となり、山麓に城を再興しました。
その時に築いた石垣が、今も見事に残っています。
なお、隅櫓は昭和50年代に建てられた模擬建築です。

歴史的に見ると、龍野には2つの城が存在します。
鶏籠山上に築かれた戦国時代の龍野城と、山麓に築かれた江戸時代の龍野城です。
両者を区別して、戦国時代の龍野城を「龍野古城」(たつのこじょう)と呼ぶ場合もあります。


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B258

まずは、江戸時代の龍野城跡を見てみましょう。
本丸の正面入り口にあたる埋門(うずみもん)です。

現在の門は、昭和50年代の復興建築で、史実に基づく復元ではありません。
建っている場所も、本来の位置より少し北にズレています。
ただし、木造・漆喰塗りの伝統技法を生かした建築なので、見た目は美しいです。

門前を右に進むと、市立歴史文化資料館があります。
龍野城の歴史がよく分かるので、お薦めです。


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B313

本丸御殿です。

こちらも昭和50年代の復興建築です。
内部は若干の史料展示の他、集会所に利用されています。

本丸御殿の左裏手に、鶏籠山の登山口がありました。

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B560

それでは、いよいよ鶏籠山の上に築かれた、戦国時代の龍野城(龍野古城)に向かいましょう。
これは、その推定復元図です。

登山口に設けられた説明板にも掲載されています。
登る前に、イメージをふくらませてみましょう。


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B14

登山道には、要所に「古城大手道」の立て札が設けてありました。
有難いことです。


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B37

しばらく登ると、大手道は次第に急勾配となってゆきます。
また、道がどこなのか分かり難い所も多くなってきます。
案内の立て札を目当てに、ひたすら登ります。

ついには、岩や木の根をつかんで這い登るような場面も・・・。
トレッキングシューズを履いてきて正解でした。


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B73

そして、ようやく鶏籠山上の尾根筋に到達しました。

ここは山の上の龍野城の最南端にあたります。
尾根を人工的に削って造成した、曲輪(くるわ)の跡がよく残っています。
曲輪の縁が盛り上がっているのは、防御のための土塁です。


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B5612_2

推定復元図の中では、この辺りです。
山を攻め上ってきた敵に対し、最初に迎撃を仕掛ける重要地点です。

なお、推定復元図では土塁を水を溜めるための土手と解釈しています。
在りし日の姿をいろいろと想像してみるのも、古城めぐりの楽しみです。


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B48

この辺りには、城に使われていたと思しき瓦の破片が散乱していました。


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B169_2

尾根筋を進んで行きましょう。

幾段にも曲輪群が連なっています。
この城を攻める者は、常に一段上の曲輪から迎撃を受ける構造です。

左右は削ぎ落としたような急傾斜で、思わず足がすくみます。

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B229

ようやく、鶏籠山の支峰(標高200メートル)が見えてきました。
ここには、二の丸が構えられています。


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B234

二の丸です。

しっかりと整地され、原形を留めています。
木が茂っていて、周囲の展望は今ひとつでしたが、往時は遠くまでよく見渡せたのでしょう。

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B253

二の丸を過ぎると、一旦、鞍部への下り坂になります。


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B266

鞍部も造成され、曲輪になっています。

そして、再び上り坂。
いよいよ本丸を目指します。


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B5642

ちょうど、この辺りまで来ました。


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B288

本丸の南側は、二段の曲輪で守りを固めています。
これは、それらのうち下段の曲輪に残る石垣です。


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B307

いよいよ本丸です。

これは、石垣で固められた城門の跡と思われます。
廃城の際に、破壊を受けたものでしょう。

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B323

本丸西側の石垣です。

破壊された石垣が延々と続いています。
往時は、かなり大規模な石垣だったようです。


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B425

本丸に到達しました。

鶏籠山の山頂、標高218メートルです。


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B435

「龍野古城」の石碑が建っています。


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B436

本丸も樹木に妨げられ、眺望は今ひとつです。

木々の間から、揖保川と東方の平野が見えました。
往時は、360度の眺望が利いたことでしょう。


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B366

本丸の北西隅の石垣です。
角石の部分が見事に残っています。

この方面は尾根続きになっています。
つまり、敵の攻撃を受け易いので、特に石垣を立派にして守りを固めています。


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B500

本丸を北西方向に下ったところにある曲輪です。
石垣で守りを固めています。


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B546

さらに北西方向に下ったら、鞍部に出ます。
ここから鶏籠山西側の谷間・紅葉谷沿いに下る道が続いています。
道の左右には、江戸時代の武家屋敷跡が並んでいます。

このまま下ると、山麓の龍野城の西側、模擬隅櫓(4枚目の写真)の下に出ます
手軽に鶏籠山に登りたい人は、このルートから登ることをお薦めします。