「安土城に火を放ったのは誰か? ②」

2013-10-15 00:58:31 | うんちく・小ネタ
愚かな息子が、父の名城に火をつけた!?



さて、もう1人の「疑惑の人」。
それは、織田信長の次男・織田信雄です。

当時、来日していたポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスは、「本能寺の変」に関する詳細な報告書を作成し、イエズス会総長宛に提出しています。

その中で、
「信雄が安土城に放火した」
と断言しています。

「ちょっと待ってよ。何で信長の息子が安土城に放火するわけ?」
と、不審に思われる方も多いかもしれませんね。
ちなみに、日本側の史料には、信雄が安土城に放火したという記述は一切存在しません。


では、フロイスの報告書(日本語訳)の原文を見て、その信憑性を考えてみましょう。


「デウスは、信長があれほど自慢していた建物の思い出を残さぬため、敵が許したその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず、その明らかなお知恵により、付近にいた信長の子、御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何らの理由も無く、(信雄に)邸と城を焼き払うよう命ずることを嘉(よみ)し給うた。上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった・・・」


要するに、ここでフロイスさんは、
「信長はデウスの意思によってこの世から消滅した。
そして、デウスは信長のシンボル・安土城が残ることも許されず、愚かな息子・信雄に焼き払わせた」
と述べているのです。

このくだりを見る限りでは、ずいぶんとキリスト教の宣教師さんらしい主観で脚色された話だなァ・・・ といった感じがします。
そもそもフロイスは、「本能寺の変」が起こった時、京都から遠く離れた肥前口ノ津(長崎県・島原半島の南端)に居たのです。


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イエズス会が本当に知りたかったことは?



当時、イエズス会は、「本能寺の変」を非常に深刻に受け止めていました。
信長は、イエズス会の布教活動を禁止することも無く、むしろ公認していたのです。
その信長の死は、場合によっては今後の日本での布教活動に、重大な支障をきたす恐れもありました。
そこで、イエズス会は、「本能寺の変」の詳細を知り、今後の日本の政局の行方を探ろうとしたようです

「本能寺の変」に関する情報は、京都の南蛮寺(キリスト教の布教所)の司祭であったフランシスコ・カリオンが収集しました。
そして、その情報が肥前口ノ津のフロイスに送られ、報告書としてまとめられ、イエズス会総長宛に提出されました。

カリオンが居た南蛮寺は、本能寺の至近距離にあったため、自らの見聞や市中の噂など、かなり詳細な情報を集めることができたようです。
実際、フロイスの報告書には、日本側の史料と照らし合わせてみて、よく一致するものや、さらに詳しい状況を知ることができる情報も多く含まれています。



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同僚から、「虚言癖あり!」と言われたフロイスさん


その一方で、フロイスの報告書には、当時の日本の状況を考えると、全く信用できないような話も多く含まれています。
これは、カリオンが京都から送ってきた情報をフロイスが報告書に仕上げる際に、かなり自分の主観を交えて筆を走らせてしまった結果と考えられます。
報告書は、そうした「全く信用できないような話」を交えることによって、「本能寺の変」は、傲慢な信長に天罰が下ったものだというストーリーを作っています。

ちなみに、当時フロイスの同僚だった宣教師の一人は、フロイスのことを「虚言癖がある」と批判しています。



ためしに、「信用できない話」の実例を挙げてみます。


「信長は、自らが不滅の神として、万人から礼拝されることを望んだ。
その神(信長自身)を祀る総見寺を安土城内に建立した。
そして、自らの誕生日を聖日として、人々に参詣を命じた」



と、フロイスは述べているのですが、これは全くおかしな話です。

そもそも、こうした考えは当時の日本人の宗教観には全く合致していないし、誕生日という概念も日本にはありませんでした。
また、仮にこんな命令を信長が出したとすれば、必ず何らかの記録に残るはずです。
京の公家・神官、奈良の僧侶、堺の豪商・・・、当時、信長の動向は、武家以外のさまざまな人々にも日記などに記録されています。
誰も書いていないのは、フロイスひとりが遠い九州で創作した話だからと見てよいでしょう。


そしてフロイスは、信長の最期について、

「本能寺の業火の中で、信長はデウスのご意思により、髪の毛ひとすじも残ることなくこの世から消えてしまった。」

と記しています。


こうした文脈の延長線上にあるのが、「信長はデウスの意思によってこの世から消滅した。そして、デウスは信長のシンボル・安土城が残ることも許されず、愚かな息子・信雄に焼き払わせた」という記述なのです。

織田信雄が安土城に放火したという説は、史料の信憑性がきわめて低いと言ってよいでしょう。



 
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 日ごろの行いがよろしくないので、疑惑の人になってしまった信雄さん



フロイスの報告書が日本人の目に触れたのは、もちろん近代になってからです。
つまり、信雄が安土城に放火したとする説は、日本で唱えられるようになって比較的歴史が浅いといえます。

しかし、研究者をはじめ小説家に至るまで、「信雄こそが安土城に放火した犯人だ」と考えている人は結構居るようです。

それは信雄自身が、いろいろ問題がある人物だったからです。

本能寺の変の3年前、信雄は信長に無断で伊賀国に攻め込み、大敗して大勢の武将を戦死させます。

また、本能寺の変の2年後、信雄は秀吉の台頭に危機感を持ち、家康に泣き付いてともに挙兵してもらいます。
こうして小牧・長久手合戦が起こりましたが、その後、信雄はあろうことか勝手に秀吉と和睦してしまいます。
家康に泣き付いて、一緒に戦ってもらったことなど、どこ吹く風といった感じです。

信雄のこうした愚かな振る舞いの数々が、フロイスの報告書の
「愚かな息子・信雄が安土城を焼き払った」
という記述に信憑性ありと判断させるのに一役も二役も買ってしまっているのです。


<蛇足>

人間、日ごろの行いが大切だという教訓でしょうか?




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