誇り高き豊臣一門の城   - 日出城 -

2014-06-19 00:22:35 | うんちく・小ネタ
日出城  ひじじょう    (大分県速見郡日出町)






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穏やかな波が打ち寄せる別府湾。


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日出城は、別府湾に臨む小高い丘に築かれています。


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石垣が松の緑に映えて、見事です。


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本丸の東南隅に、ひときわ高く築かれた天守台。


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天守台に登ると、真っ青な別府湾が視界一杯に広がります。

かつて、ここに三層の天守が上げられていました。
天守からの眺望は、一段と素晴らしかったことでしょう。


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慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に勝利し、政権を手中にした徳川家康は、全国規模で大名の配置換えに着手します。

その流れの中、慶長6年4月に木下延俊(きのした のぶとし)が、豊後国速見郡で3万石を与えられ、播磨の姫路より移ってきました。
そして、慶長7年からおよそ一年がかりで日出城を築きました。





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延俊は、豊臣秀吉の夫人・おね(ねね)の実兄・木下家定(きのした いえさだ)の息子です。
つまり おね の甥にあたります。

近畿地方から九州への領地替えは、ちょっと考えると豊臣→徳川への政権交代に伴う左遷人事というイメージが思い浮かびます。
しかし、実際には細川忠興の領地替えに関係しているようです。
延俊の妻は、忠興の妹でした。
忠興は、関ヶ原合戦の論功行賞によって、丹後国12万石から、豊前国37万石に加増され、中津城(大分県中津市)に入りました。

家康および後の江戸幕府は、しばしば姻戚関係にある大名同士を同じ地方に配置しました。
その地方の統治を、連携して行わせるのがねらいだったと考えられますが、おそらく延俊の日出への移封も同様の期待を受けていたのでしょう。

日出は付近にいくつかの良港を持ち、海上交通の要衝でした。
また、日出城も3万石の分を超えるほど立派な城に築かれていました。

日出城を見ていると、延俊の自負が強く現れているように思えます。
その後、木下家は歴代がここを居城とし、明治維新に至りました。


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日出の城下町の一角にある若宮八幡神社。

木下家の歴代藩主が崇敬した神社です。
ここで、めずらしいものに気付きました。


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江戸時代中期の享保4年(1719)、当時の藩主・俊量(としかず)が寄進した石鳥居です。
ここには、「豊臣」の姓が堂々と刻まれていました。

徳川の世になってからは、豊臣の名を出すことは憚られるようになりました。
しかし、延俊に始まる日出藩・木下家は、豊臣の一門であることを誇りに思い続けていたことが、ここにはっきりと示されています。



荒木村重の妻・だし のこと

2014-06-08 07:45:17 | うんちく・小ネタ
このところ、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の影響で、有岡城(伊丹城)が一躍注目されているようです。
このブログにも、連日、たくさんのアクセスを頂くようになり、内心驚いています。(有難うございます!)

ちなみに、JR伊丹駅(前回まででお話ししたように、有岡城の本丸跡の中心にあたります)の改札を出て、
北へ200メートルほど歩いたところに阪神運転免許更新センターがあります。
そのため、兵庫県の東南部に住む人は、3年か5年ごとに運転免許の更新で、必ず有岡城本丸跡の地を踏んでいるのです。
その行き帰りには、大規模な土塁や空堀の遺構も視界に入ってきます。
しかし、そこが城跡だと知っていたのは、地元の人を除くと、ある程度の歴史好きの人に限られていたんじゃないでしょうか。
有岡城跡は、少し前まではそうした存在でした。



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  <JR伊丹駅前の城址碑>




しかし、歴史を紐解いてみれば、

・荒木村重の栄光と挫折、やがて謀叛へ。 
・村重に帰順を説くも、幽閉される黒田官兵衛。 
・信長軍の攻撃を頑強に阻む有岡城、しかし次第に孤立無援に。
・そして、家族も家臣団も見捨てての村重の逃亡劇。
・残された村重の家族や家臣団の悲劇的な末路。

これほど様々な人間ドラマに満ち溢れた城跡も珍しいかもしれません。



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  <史跡公園となった本丸跡北西部には、大勢の見学者が(2014年6月撮影)>




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「だし」、・・・・ちょっと変わった名前?


さて、ここでもう一人、有岡城をめぐる人間ドラマの中で、気になる人物がいます。
荒木村重の妻・だし です。

だし は大変な美人だったそうです。
当時の史料には、その評判の高さが記されています。


「きこえ有る美人なり」 (『信長公記』)

意訳:有名な美人である。

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「一段美人にて、い名は今楊貴妃と名づけ申候」 (『立入左京亮入道隆佐記』)

意訳:一段と美人で、楊貴妃の再来との異名で呼ばれた。

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だし は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、桐谷美玲さんが演じました。
桐谷さんは時代劇は初出演だそうですが、だし という戦国の世を生きた女性の役作りを考えた末に、
「容姿だけでなく、心の持ち方など内面も美しい女性」
「強い責任感を持ち、どんな状況でも自分の考えを発信できる女性」
という結論に至ったそうです。
だし の最期のシーンは特に好演でした。

なお、刑場の露と消えた だし の年齢は、
『信長公記』は21歳、『立入左京亮入道隆佐記』は23歳と記しています。
だし は、京都の街中を引き廻された後、六条河原の刑場で車から下ろされると、着物の帯を締め直し、髪を高々と結い直し、華やかな小袖の襟を後ろへ引いて、少しも取り乱すことなく首を斬られたそうです。 (『信長公記』)


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ところで、この 「だし」 という名前ですが、これは実名ではありません
当時の史料には、 「だし」 について次のように記されています。

「城の大手の だし におき申女房にて候故、名をば だし 殿と申候」 (『立入左京亮入道隆佐記』)

意訳:有岡城の表側の<だし>と呼ばれる場所に住む女房なので、名前を「だし殿」と呼ばれていた。


この時代、高貴な女性は、おそれ多いとして実名をあまり表に出されることはありません。
大名の妻の場合は、敬意を込めて、城内の住んでいる場所にちなんで「○○殿」と呼ばれました。
たとえば、徳川家康の正室は、岡崎城の西の「築山御殿」(おそらく、築山を持つ優雅な庭園があったのでしょう)に住んだので「築山殿」と呼ばれました。
豊臣秀吉の側室となった茶々は、淀城に住んで「淀殿」、後に大坂城二の丸に移り「二の丸殿」と呼ばれました。
また、秀吉の側室の中でも最高の美人と言われた京極龍子は、後に伏見城の「松の丸」に住んで、「松の丸殿」と呼ばれるようになりました。

荒木村重の妻は、「だし殿」として史料に名を残していますが、実名は残念ながら不明です。
先に挙げた『立入左京亮入道隆佐記』の続きの記述に、「ちょぼ」という女性の名が出てきます。
これを「だし殿」の実名だとする解釈もありますが、いかがでしょう。
「ちょぼ」ではあまりに庶民的で、大名の妻の名前では無いように思うのですが・・・。


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「だし殿」が住んだ場所はどこ?


では、有岡城内で「だし殿」が住んだ場所の特定は可能でしょうか?
手がかりは、その名の由来になった<だし>と呼ばれる場所です。

お城の中で<だし>と呼ばれるのは、本丸や大手門などの重要地点の防御を強化するために、外に突き出すように築かれた曲輪のことです。
たとえば、下の写真のような形をしています。

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 <参考史料 : 丹波篠山城復元模型>


永禄12年(1569)に織田信長が京都に築いた二条城(将軍・足利義昭の居館)にも、<だし>が築かれていたことが当時の史料に記されています。
お城の防御施設の<だし>は、江戸時代になると、「出丸(でまる)」とか「馬出(うまだし)」という呼び方が一般となり、こんにちに至っています。

それでは、有岡城に、該当しそうな場所が無いか探してみましょう。
これは、江戸時代の寛文9年(1669)に描かれた伊丹郷町の地図です。

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既に城跡となった有岡城が描かれています。
本丸の南側(画面左側)に接続する区画には、「二之丸」という書き込みがあり、さらに「金之間」とも書かれています。

この「二之丸」は、有岡城の本丸南側の防御を強化する形で築かれています。
江戸時代の地図では分かり難いのですが、近年の発掘調査によって本丸から堀を隔てて、外に突き出すように築かれていたことが確認されています。
また、「金之間」という書き込みからは、この地にかつて華麗な御殿が存在したことが想像されます。

この場所は、現在のJR伊丹駅の南西方、現在、荒村寺(こうそんじ)が建っているあたりになります。
(ちなみに、この荒村寺。お寺の名前は、荒木村重にちなみます。)

あくまで仮説ですが、「だし殿」が住んだのは、この辺りではないでしょうか?









有岡城 - 黒田官兵衛が幽閉された「土牢」はどこにあった? - <「軍師官兵衛」ゆかりの城 ⑧ >

2014-06-01 11:30:01 | うんちく・小ネタ
今、有岡城といえば、一番の関心事はやはり、これじゃないでしょうか?
官兵衛が幽閉された場所の特定は、果たして可能か否か。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、官兵衛が幽閉されたのは、洞窟のような「土牢」(つちろう)。
そこは、入り口を木の格子で塞いだだけの素掘りの横穴で、床板も張っていない劣悪な環境です。
その「土牢」に官兵衛は、天正6年(1578)10月から、翌年11月まで丸1年間も閉じ込められます。
劣悪な環境は、次第に官兵衛の身体を蝕んでゆきました。
一方、栗山善助ら黒田家臣団は、有岡城下に潜入し、城内の「土牢」の場所を突き止めました。
そして、落城間際の混乱の中、ついに官兵衛の救出に成功しました。

以上、大河ドラマのストーリーは、おおよそ『黒田家譜』の記述を下敷きにして作られているようです。


試みに、『黒田家譜』から官兵衛の幽閉に関する記述を拾ってみると、次のようになりました。

・官兵衛は生け捕られ、有岡城内に禁獄された。
・牢の中は、堪え難いほど窮屈だった。
・牢の後ろには、溜め池があった。
・牢は番人が監視していた。しかし溜め池の方には番人が居なかった。
・栗山善介は夜にまぎれ池を泳ぎ渡り、牢の官兵衛に接した。
・落城間際の混乱の中、善介は牢の錠を壊して官兵衛を救出した。

という状況が記されています。

しかし、牢そのものの構造については、「堪え難いほど窮屈」という以外は、何も記されていません。
どうやら「土牢」というのは、「牢の中は、堪え難いほど窮屈」という状況を基にして考えられた、一つの解釈のようです。


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さて、このストーリーの元史料となった『黒田家譜』ですが、
これは官兵衛の子孫である福岡藩主・黒田家が編纂した公式の歴史書です。
ただし、編纂が始められたのが寛文11年(1671)、完成が元禄元年(1688)であり、
官兵衛の生きた時代から、かなり時代が下ってから書かれたという点に注意が必要です。
また、内容も実証的な歴史考証を目的とするものではありません。
当然、祖先の官兵衛を讃えるための脚色や創作が盛り込まれていると考えるべきです。

とは言っても、やはり有岡城幽閉は、官兵衛の人生最大の危機で、後の黒田家の命運も左右した重大事件です。
記述にも臨場感がありますから、家臣たちの家に伝わっていた逸話などを取材して、
ある程度、参考にしている可能性もあります。 
(逆に「講釈師、見てきたような、事を言い・・・」的な創作かも知れませんが???」)

いろいろと思いは廻りますが、有岡城内に幽閉中の官兵衛について、『黒田家譜』の他に具体的な記述をした史料がありません。
また、有岡城内で、背後に溜め池があった場所というのも、現在の地形からは比定が困難です。

そういう訳で、『黒田家譜』の記述の信憑性を問おうとしても、比較できる材料が無く、手のつけようが無いというのが実情なのです。


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さて、ここで仮に『黒田家譜』の記述が史実であるとして、「土牢」(仮に、牢は「土牢」だったとしておきましょう・・・)があった場所を考えてみましょう。
最初の手掛かりは、背後に溜め池があったという点です。
先にも述べましたが、城内で溜め池があった場所というのは、現在の地形からは比定が困難です。
そもそも、有岡城は伊丹台地上の高台に立地しているので、城内に泳ぎ渡るほど大きな溜め池が存在した可能性は低いように思われます。
そうなると、溜め池の存在が考えられるのは、城の東側、伊丹台地の崖下ということになります。


前回の稿で、現代の航空写真の上に有岡城の縄張図を重ねてみましたが、少し手を加えて再掲載します。
本丸は伊丹台地が大きく東に突き出した丘を利用して築かれていて、その麓は猪名川の低湿地になっています。


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江戸時代初期の寛文9年(1669)に描かれた『伊丹郷町絵図』では、有岡城の本丸跡(古城山)の東の麓に、大きな池が描かれています。
荒木村重の時代には、この池がもっと大きく、本丸の北西から東、そして南東部を囲む堀の役割を果たしていた可能性もあります。
もし、そうだとすると、黒田官兵衛が幽閉された「土牢」は本丸の端にあり、背後には伊丹台地の崖が迫り、麓に溜め池があった場所と推測できます。
崖の下の溜め池の辺りならば、番人が配置されておらず、このルートを通って栗山善介が「土牢」の官兵衛に接したという話も納得できます。
その場所は、あるいは本丸の北西隅、すなわち現在のJR伊丹駅の北西方に土塁や石垣が残っている辺りかも知れませんが・・・
しかし、これはあくまでも仮説の上に仮説を重ねたお話です。




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ところで、戦国時代の城に、実際に「土牢」は存在したのでしょうか。
全国の城跡を調べてゆくと、それに近いものが残っている例がありました。
静岡県の高天神城(たかてんじんじょう/静岡県掛川市)です。


今に残る 「土牢」 の実例


高天神城は、徳川家康が浜松城(静岡県浜松市)を本拠地にしていた頃、武田勝頼と激しい争奪戦を繰り返した山城です。
その城跡に「大河内政局(おおこうち まさもと)石窟」と呼ばれる洞穴が残っています。



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   <高天神城跡に残る石窟。格子はコンクリートによる再現ですが、有岡城の「土牢」もこんなイメージ?>


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天正2年(1574)、徳川方に属していた高天神城は、武田勝頼の大軍の攻撃を受けました。
城主・小笠原長忠(今川家旧臣)は、徳川家康に援軍を求めましたが得られず、遂に力尽きて降伏します。
勝頼は、降伏した小笠原長忠とその家臣団を、城外への退去を条件に助命しました。
そんな中でただ一人、城内に留まって武田氏に抵抗を示した者がいました。
家康から軍監として高天神城に派遣されていた大河内政局です。
怒った勝頼は、政局を捕えさせ、この石窟に幽閉しました。
その後、天正9年(1581)に徳川家康の高天神城を奪還するまで、足掛け8年間も政局はここに閉じ込められていたと伝えられています。

なお、近年の発掘調査で、この石窟の中から戦国時代の地表面が検出されました。
戦国時代にこの石窟が存在したことが確認されたので、一つ伝承の裏付けが取れたといえます。
遠江国と摂津国とで離距は離れていますが、有岡城の籠城戦と同時期のもので、興味深いものがあります。



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  <高天神城跡の「大河内政局石窟」の説明板>






有岡城を歩こう。 - 信長軍が苦戦した 「甚だ壮大にして、見事なる城」 の面影 - <「軍師官兵衛」

2014-05-28 23:44:30 | うんちく・小ネタ
有岡城 ありおかじょう  (兵庫県伊丹市)


さて、今年に入ってから「軍師官兵衛ゆかりの城」と題して、いくつかのお城を取り挙げてきました。
今回の有岡城は、その中でも電車でのアクセスの良さが抜群と言えます。
何せ、JR伊丹駅に降り立てば、そこは既に有岡城の本丸跡なのです。



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上の写真の中で、青い線で囲った範囲が有岡城の本丸(主郭)の跡です。
ここは、伊丹台地が東(画面左)へ突き出した丘で、廃城後も「古城山」と呼ばれ、城の姿をとどめていました。
しかし、明治時代の中頃、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線の前身)がこの地に開通。
線路と伊丹駅の建設のため、丘の東側が削り取られてしまいました。

残る西側も、駅前として開発が続き、次第に破壊されてゆきました。
そんな中、奇跡的に本丸の北西隅の一帯は破壊を免れ、遺構を伝えています。



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それでは、有岡城を歩いてみましょう。
駅舎の2階に設けられた改札を出て、歩道橋を左手(西側)に進みます。
歩道橋を渡り終えた所が、削り残された本丸跡の高台です。



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歩道橋の突き当たりに、復元整備された土塁が南北に続いています。
土塁の上には、「史跡 有岡城跡」として、説明板が設けられています。

有岡城跡は、昭和54年(1979)に国史跡に指定されました。



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土塁の向こう側には、本丸の西側を囲む堀がありました。
発掘調査で確認された堀の跡は、一段低くして、人工芝を敷いて範囲を表示しています。
ここには車両が入って来ないので、子供たちの格好の遊び場になっていました。
史跡公園として、なかなか面白い活用方法です。


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それでは、本丸跡の北西隅に上ってみましょう。
削られた東と南側には、城郭風の模擬石垣が築かれており、南に入り口の石段があります。


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石段を上がると、急に雰囲気が変わります。
まぎれもなく、ここは戦国の城跡だという実感が湧いてきます。



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礎石建物の跡が表示されています。



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石垣が残っています。
荒木村重の時代の貴重な遺構です。

土塁の内側に石垣が築かれているのは、本丸内のスペースを広く取るためと考えられます。
本丸内には、御殿をはじめ、多くの礎石建物が建ち並んでいたのでしょう。



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石垣は、自然石を積み上げた「野面積」(のづらづみ)ですが、所々に真四角に加工された石も見られます。
これらは、石塔の部材を転用したものです。
信長の二条城、明智光秀の福知山城など、同時代の城の石垣に共通しており、興味深い遺構です。

なぜ、こうした転用石が用いられているのでしょうか?
「突貫工事による石材不足を補うため、あまりこだわらずに使える石材は何でも使った」
という説が一般です。
その一方で、
「転用石の中でも石塔・石仏など、宗教的な石造物には、呪術的な意図(たとえば、城の鎮護といったような・・・)が籠められている可能性もある」
という説もあります。

有岡城のこの部分の石垣は、よく見ると転用石がきれいに組み合わされています。
この石垣を積む時、一体どんな会話が交わされていたのでしょうか・・・・。
そんな想像をするのもお城めぐりの楽しみです。



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本丸の外(北側)から見た、北西隅の土塁です。



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かつては、この規模の土塁が本丸をぐるりと囲んでいました。


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そして、土塁の外側には、こうした堀が廻らされていました。
これらの遺構の規模から、有岡城は本丸だけでもかなりの防御力を持っていたことがうかがえます。


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以上が、有岡城の本丸跡に残る遺構です。

しかし、これはあくまで本丸跡。
実は、有岡城はとてつもなく大規模な城なのです。



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有岡城には、城を城下町もろともに囲む「惣構え」(そうがまえ)と呼ばれる防衛ラインが築かれていました。
堀と土塁、さらに天然の段丘を利用し、「岸の砦」・「女郎塚砦」・「鵯塚砦」の3つの砦を配置した「惣構え」の規模は、東西800メートル、南北1700メートルに及びます。


天正2年(1574)、荒木村重が城主となり、城の大改築に着手します。
その2年後の天正4年(1576)、この地を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、有岡城を
「甚だ壮大にして、見事なる城」
と記録しています。
この「惣構え」が、後に信長軍の攻撃を1年近くに渡って頑強に阻む威力を発揮します。

有岡城跡を訪ねられた際は、時間に余裕があればぜひ、この「惣構え」の跡も散策されることをお薦めします。
特に、北端の「岸の砦」(現在、猪名野神社境内)の跡は、土塁と堀が良く残り、本丸跡と同様に国史跡に指定されています。
また、市街地化された区域でも、土地の高低差や堀の名残りの水路によって、長大な「惣構え」を実感することが出来ます。



有岡城 - 城の名に籠められた荒木村重の思い - <軍師官兵衛」ゆかりの城 ⑥ >

2014-05-25 19:30:50 | うんちく・小ネタ
久々に、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ネタです。

さぁ大変、物語が急転回です!

官兵衛(ドラマでは岡田准一さん)の古くからの同志であった荒木村重(同じく田中哲司さん)が、織田信長(同じく江口洋介さん)への不信感を募らせて、ついに反旗を翻します。
村重を説得して帰参させようと、単身で有岡城に乗り込んだ官兵衛ですが、逆に身柄を拘束されてしまいました。
そして、洞窟のような「土牢」(つちろう)に閉じ込められてしまいます。
敵軍の城で、劣悪な環境での幽閉。解放される目途は全くありません。
官兵衛の身の上に、生涯最大の危機が迫ります。
さあ、官兵衛は、そして黒田家は、この先一体どうなるのでしょうか???

・・・それでは、村重の居城・有岡城の話をしてみたいと思います。
大河ドラマのネタバレ(?)をやって興を冷まさぬよう注意しつつ、小出しに連載といきましょう。




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有岡城  ありおかじょう  (兵庫県伊丹市) 




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 <有岡城の本丸跡に残る石垣、転用石が組み込まれている>





(1) 前途洋々の荒木村重、城の名を「有岡城」と改名




有岡城は、元の名は伊丹城(いたみじょう)と言いました。

城は、兵庫県と大阪府の境界を南流する猪名川の西岸、伊丹台地に築かれています。
ちょうど台地が東に突き出した部分が本丸で、その直下には猪名川の低湿地が広がり、要害の地でした。

ここに初めて城が築かれた時期は定かではありません。
おそらく、鎌倉時代の末期、この一帯を支配していた伊丹氏の居館に始まるものと考えられています。
城の存在が、最初に文献上で確認できるのは、南北朝時代の文和2年(1353)です。
「北朝方の伊丹城に南朝方の軍勢が攻め寄せたが、撃退した」
ということが、戦況を報告した文書に記されているので、この頃には実戦に耐えられる城郭に改築されていたことが分かります。
その後、室町時代にかけて、「伊丹城」の名はたびたび合戦の舞台として、古文書に登場します。
城主の伊丹氏は、一時的に城を追われることもありましたが、城主の座を守り続けています。
伊丹城がとても守りの堅い城だったことがうかがえます。

天正元年(1573)、織田信長から摂津国を任された荒木村重は、翌・天正2年11月に伊丹城を攻撃。
降伏した伊丹氏を追放し、ここを自らの居城と定め、「有岡城」と改名しました。

この時期、信長やその配下の武将たちは、新たに居城を構えた際に、その地名を改めるということをよく行いました。
例えば、信長は美濃国の井ノ口を岐阜と改め、羽柴秀吉は近江国の今浜を長浜と改めています。
また、明智光秀も奥丹波支配の拠点として横山を福智山と改めています(※ 現在の福知山)。
荒木村重が実行した、「伊丹城」から「有岡城」への改称もその流れの中にあるものです。

ただし、注目したいのは「有岡」という新地名に籠められた村重の思いです。
村重が命名した「有岡」は、「有明の岡」という意味だと言われています。
ちなみに「有明」という言葉を広辞林(三省堂)で調べてみると
「月が空に残っていながら、夜が明けようとする頃」
と解説していました。

出自が定かでない身の上から、次第に頭角を現し、ついに信長から摂津国を任された村重。
自身の栄達とともに、信長の天下統一に向かってゆく新時代の到来を実感していたのでしょう。
この時、村重の前途はまさに洋々たるものでした。
「有岡城」という名称には、そんな村重の理想と意気込みが籠められているのではないでしょうか?


しかし、村重の運命は、わずか4年を経ずして暗転します。
天正6年(1578)10月、「村重が本願寺や毛利氏に通じ、有岡城に籠城している」
という噂が信長の耳に入ります。
信長は、明智光秀を使者として有岡城へ派遣し、実否を確認させました。
村重はこの時点では謀叛は考えておらず、弁明のため安土城に向かいます。
しかし、途中で配下の中川清秀(茨木城主)らに引き止められ、
「信長に一度疑われると必ず殺される。もはや、有岡城に籠城して戦うしかない!」
と考え直し、謀叛の決断を下しました。

荒木軍は敢闘しましたが、孤立無援の有岡城は、翌・天正7年(1579)11月に落城
この戦いの後、摂津国の荒木村重の旧領は、戦功のあった池田恒興(信長の乳兄弟)に与えられました。
そしてこの時、「有岡城」の名は、再び元の「伊丹城」に戻されたのです。

これには信長のすざまじい怒りが籠められているように思えてなりません。
信長にしてみれば、武将としての能力を評価し、大抜擢をした村重が謀叛を起したのです。
征伐してもなお飽き足らず、村重が命名した「有岡城」の名称すら抹消せずには居られなかったのでしょう。



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 <JR福知山線・伊丹駅西側にひっそりと残る有岡城の本丸土塁、手前は空堀跡>





 ≪ 以下次号 ≫