備中高松城を歩く。 ~ この城から、歴史の急展開が始まった! ~  <「軍師官兵衛」ゆかりの城⑩>

2014-07-06 11:05:54 | うんちく・小ネタ
備中高松城  びっちゅう たかまつじょう  (岡山県岡山市)



NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」、物語はいよいよ天正10年(1582)の備中高松城をめぐる戦いに入りました。
難攻不落の城に対し、気宇壮大な水攻めの敢行。
そして、織田・毛利両軍の主力決戦を目前に起きた本能寺の変。
官兵衛・秀吉の決断で、歴史が急展開してゆきます。
ここは見逃せませんね。


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天正5年(1577)に播磨国の上月城をめぐる戦いで織田・毛利の両軍が激突してより5年。
前半戦は、毛利軍が優勢でした。
織田軍はその頃、大坂の石山本願寺をはじめ、丹波の波多野氏、播磨の別所氏など多方面で交戦中であり、毛利軍との戦いに専念できない状況にあったのです。

しかし、信長はそうした敵を一つ一つ撃破してゆき、後半戦では毛利攻めに巨大な軍事力を投入できるようになりました。
また秀吉の調略によって、備前の宇喜多氏が織田方となりました。
続く備中が織田軍に制圧されれば、毛利軍はいよいよ備後、そして安芸の本領に敵の侵入を許すことになってしまいます。
毛利軍にとって、備中は絶対防衛圏とも言うべき要衝となりました。

毛利軍は、備中の7ヵ所の城を対・織田軍の最前線と定め、防衛体制を布きました。
いわゆる「境目七城」(さかいめななじょう)です。
その中で、最も規模が大きいのが備中高松城です。
備中高松城は、周囲を沼沢地に囲まれていて、まさに水の要害でした。
ここに清水宗治が兵力5000を率いて籠り、守備を固めていました。



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それでは、備中高松城を訪ねてみましょう。




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石井山より見た備中高松城です。
水攻めの際、秀吉はここに本陣を置きました。
先ずは、秀吉・官兵衛の目線でこの城の立地を検分してみましょう。

今は美しい田園が広がっていますが、かつてこの一帯は敵の侵入を許さない深い沼地でした。
その中に島を連ねるように城跡が残っています。

そして三方が山に囲まれた地形です。
堤防を築いて水の出口を完全に塞ぎ、この城を水攻めにしようとは、何とも壮大な作戦を考えたものです。



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備中高松城の推定復元図です。
現在の地形に、文献史料および発掘調査成果の情報を合わせて推定されたものです。
しかし、発掘調査は部分的にしか行われておらず、その姿には未だ謎が多いです。


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城の城の南側にあった「舟橋」の跡です。

秀吉の攻撃を前に、城主・清水宗治は、ここに大規模な外堀・八反堀(はったんぼり)を築きました。
八反堀には、船を横並びにした上に橋板を渡して、長さ約64メートルの舟橋(ふなばし)を架けていました。

通常は、城兵の出入りや物資の搬入路として利用し、敵が迫ってくると撤去して侵入を阻む仕組みだったと伝わります。


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三の丸跡です。
お寺が建っていますが、何となく曲輪の形がうかがえます。


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二ノ丸跡。
今は畑となり、道路も開通しています。
周囲の田圃より土地が高くなっていて、曲輪があった場所だと分かります。


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本丸跡は公園になっています。


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本丸跡に入ります。


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清水宗治の辞世の句を刻んだ石碑が建っています。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(ものもふ)の 名を高松の 苔に残して」

城兵5000名の生命を保証するという条件で、宗治は自決。
備中高松城は開城しました。

こうして秀吉は、「本能寺の変」での信長の死を秘したまま、毛利軍との講和を成立させました。
そして、軍を率いて上方へ急旋回し(「中国大返し」)、天下人への階段を昇ってゆきます。


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清水宗治の首塚。
元は石井山の秀吉本陣跡にありましたが、明治42年(1909)に本丸跡に移されました。


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昭和4年(1929)、備中高松城は「高松城跡 附水攻築堤跡」として、国史跡の指定を受けました。


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本丸を囲っていた沼地は、明治時代に埋め立てられました。

水攻めから400年目にあたる昭和57年(1982)、南側を中心に部分的に復元されました。


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再び水を湛えた沼に、誰も予想しなかったことが起こりました。
土中深く埋もれていた蓮の種が自然に発芽し、再び美しい花を咲かせるようになったのです。

蓮の種は非常に生命力が強く、縄文時代の遺跡から発掘された種の発芽に成功した例もあります(大賀ハス)。

備中高松城跡の沼で、蓮の花が咲くのは7月上旬。
旧暦では6月上旬にあたり、まさに秀吉の水攻めの時期に重なります。

この備中高松の地で、移りゆく時代と、人の世を見守り続けた蓮の花です。





街角に残る黒田家の面影 ~ 姫路市妻鹿地区 ~

2014-07-05 11:04:46 | うんちく・小ネタ
国府山城を訪ねた後、南側に広がる妻鹿(めが)地区を歩いてみました。
まず向かったのは、黒田官兵衛の父・職隆(もとたか)の廟所(びょうしょ=お墓)です。

黒田職隆は、大河ドラマ「軍師官兵衛」では柴田恭兵さんが演じてますね。


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案内板が出ていました。
大河ドラマの効果で訪ねる人が増えたのでしょう。


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地元では、このお墓は「筑前さん」と呼ばれ親しまれてきたそうです。
江戸時代に黒田家の子孫・筑前国の福岡藩主がここを整備し、崇敬したためこの名が生まれたようです。


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廟所の全体像です。
墳丘の上にお堂が建てられています。


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墓前際が近いようで、のぼりが立っていました。
今も地元の人たちに親しまれ、大切にされているのが分かります。

黒田職隆は、「軍師官兵衛」で柴田恭兵さんが演じているような、穏やかで人当たりの良い人物だったのかな、
とか想像してみました。


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廟所を後にして少し歩くと、江戸時代の面影を感じさせる町並みに出会いました。


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この建物は、「灘のけんか祭り」で使う屋台を収納する倉庫です。


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史料館として、表の扉を開けてくれています。
道路からですが、収納されている屋台を見学することができます。

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豪華絢爛な屋台の飾りです。
刺繍で描かれているのは「黒田二十四騎」のひとり、母里太兵衛(もり たへえ)です。
実は、母里太兵衛はここ妻鹿の出身なのです。

大河ドラマ「軍師官兵衛」では、速見もこみちさんが熱く演じています。


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山陽電鉄・妻鹿駅前に設けられた観光案内地図です。
ゆっくり散策すると、他にもいろいろな発見がありそうです。



国府山城を歩く。  ~ 自然のままの山城に、官兵衛の意気込みを見る ~  <「軍師官兵衛」ゆかりの城⑨>

2014-07-02 00:07:10 | うんちく・小ネタ
国府山城  こうやまじょう  (兵庫県姫路市)




JRに乗って大阪から姫路に向かう時、列車は最後に大きな川の鉄橋を渡ります。
姫路市街の東を流れる「市川」(いちかわ)です。

右手の車窓、つまり市川上流の風景の斜め前方に、不意に姫路城の天守が出現します。
なかなかに演出的な登場で、旅情を楽しませてくれます。
天守は次第に視界の中で大きくなってゆきます。
市川を渡り終えたら、まもなく姫路駅に到着です。

ところで、この市川の鉄橋から見る姫路城とは正反対の方向に、もうひとつの城跡があります。
国府山城(こうやまじょう)です。


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天正8年(1580)羽柴秀吉は三木城の別所氏を滅ぼし、御着城の小寺氏を駆逐して、ついに播磨国を平定しました。
秀吉の次なる目標は、備前国・備中国(ともに現在の岡山県)への進出です。
そして、いよいよ中国地方の覇者・毛利氏との決戦に臨むことになります。

播磨国は、その軍事作戦の基盤として重要度を増大させました。
黒田官兵衛は秀吉に対し、その本拠地を姫路城に定めるよう強く勧めます。
そして、秀吉に姫路城を譲った官兵衛は、自らは家臣団を率いて国府山城に移り、ここを居城としました。


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市川の河口付近から見た国府山城です。
標高102メートルの山上に築かれた山城です。

甲山城、功山城とも表記されますが、いずれも「こうやまじょう」と読みます。
また、城が立地する市川河口の東岸一帯の地名から、妻鹿城(めがじょう)とも呼ばれています。


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近づいて見ると、山のあちこちに岩盤が露出し、絶壁を成しているのが分かります。
西麓は、満々と水を湛えた市川が迫り、天然の要害です。


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南麓の登山口脇にある城址碑です。
「妻鹿城址」と記されています。


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また、城址碑の近くに城跡の平面図を記した説明板が設けられています。
国府山城の縄張が詳細に記されています。
(ただし、建物のイラストはあくまでイメージです。)


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山に登ってみましょう。
途中の傾斜は急ですが、山上は比較的広々としています。
尾根道に沿って、人工的な削平地が段々と築かれています。
城の曲輪の跡でしょう。


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しかし、自然地形を粗くならしただけの平坦地です。
石垣はもとより、土塁や虎口(城門)といった防御のための普請の跡も見られません。

国府山城は、南北朝時代の14世紀前半、赤松氏に属して活躍した妻鹿孫三郎が築いた城に始まると伝えられています。
南北朝期の山城は、楠木正成の千早城のように険しい山の斜面そのものを防御力とし、尾根筋には簡素な平坦地を造って番小屋を建てた程度のシンプルなものでした。
現在確認できる山上の遺構を見る限り、官兵衛はこの城にほとんど手を加えていないようです。

官兵衛の時代には、戦いには鉄砲が大量に投入されるようになっていて、城の構造もその対応が不可欠となっていました。
南北朝時代の城などは、すっかり時代遅れで、万一籠城戦ともなれば圧倒的に不利です。
なぜ、こんな状態のままにしておいたのでしょうか?


おそらく、官兵衛はこの城で籠城戦を展開することは、全く考えていなかったでしょう。
この時の官兵衛の考えは、以下の3つに集約されていたのでしょう。

(1)播磨の支配体制が変わったことを国中に認識させよう!
  秀吉が姫路城に入城し、官兵衛は退く。これほど分かりやすい手は無い。

(2)情報収集で秀吉を支えよう!
  官兵衛の強みは、情報収集と分析力。秀吉が居る姫路から近くて、情報収集に適した地は、市川河口の港町・妻鹿が最適。

(3)必ず勝ち進む!
  勝ち進んで全国各地に展開してゆく。いつまでも播磨には居ない。 


つまり、妻鹿の国府山城は、官兵衛にとって作戦途上の暫定的な拠点だったのです。
そのため、城は家臣団とその家族を短期間収容する屋敷地であればよく、本格的な城普請は眼中に無かったのでしょう。



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国府山城から南を見る。
市川河口と播磨灘。
物流と交通の要衝で、ここが人、モノ、情報が集まる地だったことが納得できます。

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国府山城から北を見る。
姫路市街の向こうに姫路城が見えます。



<秀吉と おね> 結婚秘話 ~ 日出藩主・木下家の菩提寺・松屋寺 ~

2014-06-29 22:33:25 | うんちく・小ネタ
結婚に猛反対だった妻の母・・・。
周囲がなだめてくれて、何とか結婚できたけれど、
そんな義母が婿に対して、本心から打ち解ける日は、果たして来るのでしょうか?

いえ、これは私の身の上話ではなくて、豊臣秀吉のことです。


秀吉おね が結婚したのは、永禄4年(1561)8月3日。
秀吉は25歳、おね は14歳でした。

しかし、この結婚は始めから順風満帆に運んだものではありませんでした。
そんなスクープ記事のような史料が、日出藩(ひじはん)に伝えられています。




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日出藩に伝わる<秀吉と おね> 結婚秘話


秀吉とおねが出会い、結婚を考えるようになった時、これに猛反対したのは おね の母・朝日(あさひ)でした。
朝日は、こんな結婚は「野合」(やごう)であるとして、大いに不満でした。
「野合」とはまた凄い表現ですが、要するに、家同士の縁談によるものではなく、本人同士の「自由恋愛」による結婚は絶対ダメと反対したのでした。
農民出身の秀吉に対し、おね の実家・杉原家はれっきとした武家でした。
そのため、朝日は娘がそんな形で嫁ぐことに強い抵抗を感じたようです。

そこに思わぬ救いの手が差し伸べられました。
朝日の姉妹・七曲と、その夫・浅野長勝(あさの ながかつ)が、秀吉の人物を見込んで一計を案じたのです。
すなわち、浅野長勝・七曲夫妻が、姪の おね を養女とし、浅野家の娘として秀吉に嫁がせるという方法です。

かくして、めでたく秀吉と おね の結婚が実現し、後に日本史上に大きな足跡を残す夫婦が誕生したのでした。

  ・ ・ ・ ・ ・

以上が、『平姓杉原氏御系図附言』に記されている逸話です。

この史料は、宝暦元年(1751)に日出藩家老・菅沼政常が編纂した藩主・木下家の系譜です。
政常は、「或る説に云う・・・」という但し書きを付け、慎重に書き出しています。
実際に、日出藩に代々伝承されてきた逸話だったのでしょう。
そして、「御家伝の意味を考えるに実説なるべき歟」として、どうやら実話らしいとの考察を加えています。


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その後も、<義母と婿> の間には、冷たい風が吹いていた!?


それにしても、杉原家の娘ではなく、浅野家の養女として嫁ぐのなら、秀吉との結婚を認めるというのも何だか合点が行きません。
『平姓杉原氏御系図附言』 は、その表題の通り、おねの実家・杉原家ルーツは平貞衝(たいらのさだひら)としています。
朝日の本心は、そうした家系に農民出身の秀吉が連なることへの抵抗だったのかも知れません。


秀吉が天下を取った後、杉原家は おね の兄・家定が木下姓を与えられ、改姓します。
そして文禄4年(1595)、木下家定は豊臣一門の大名として2万5000石の姫路城主となりました。
ちなみに同じ時期、浅野家は甲斐国の甲府城主で22万5000石でした。

おね の実家・木下家(杉原家)と養家・浅野家とで、かなり処遇に差が付いてしまっています。
木下家では、この処遇の違いは、
「朝日と秀吉の<義母と婿>の関係が、後々までわだかまりを残していたことが影響したもの」
と、伝えられていますが、真偽の程はいかがでしょうか。



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松屋寺  しょうおくじ  (大分県速見郡日出町)



松屋寺は、日出藩主・木下家の菩提寺です。



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 <松屋寺表門>


慶長6年(1601)、木下延俊が姫路より国替えとなって、日出に移ってきます。
(延俊は、家定の三男 / おね の甥)

延俊は、翌慶長7年に祖母・朝日の菩提を弔うため、日出城の北西にあった西明寺を改修し、曹洞宗の禅寺にしました。
そして、朝日の法名「康徳寺殿松屋妙貞大姉」にちなみ、寺号を 「康徳山 松屋寺」 と改めました。


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 <樹齢700年の大蘇鉄(そてつ)>


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寛永年間(1624~1643)頃、寺の裏山に朝日をはじめ、木下家定夫妻、延俊の妻・加賀の四基の墓が建てられました。
以後、日出藩主・木下家の廟所(びょうしょ)と定められ、歴代藩主および木下家ゆかりの人物の墓が建てられてゆきました。



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 <木下家廟所に続く石段>


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 <朝日の墓>


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 <歴代藩主の墓>




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 <豊臣姓を記した墓石が並び、壮観です>
  

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裏山を少し歩くと、視界が開けました。
旧城下町と日出城跡、そして海が見えました。

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鬼門櫓も見えました。
かつては天守をはじめ、櫓が建ち並ぶ姿が見えたことでしょう。


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 <日出城の鬼門櫓 (矢印の下)>







日出城を歩く。  - 有名じゃないけれど、実は隠れた見どころ満載なお城 -

2014-06-22 23:28:03 | うんちく・小ネタ
日出城 ひじじょう  (大分県速見郡日出町)



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大分県のお城といえば、どこを連想されるでしょうか?

まずは何と言っても、岡城 (竹田市)でしょう。
瀧廉太郎が「荒城の月」作曲のイメージを練ったお城として有名です。

また、中津城 (中津市)を思い浮かべる方も多いでしょう。
こちらは今年の大河ドラマの主人公・黒田官兵衛(如水)が築城したお城ですね。

これらに比べると、日出城の名前はあまり知られていません。
三層の天守も、明治の始めに解体され、主な遺構は本丸周辺の石垣と、二棟の櫓建築です。

しかし、そんな日出城には、実はたくさんの見どころがあるのです。
中には、全国のお城の中で、日出城だけしか見られないような珍しい遺構も・・・。

今回は、そんな日出城の隠れた見どころを紹介しましょう。


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日出城とその城下町は、別府湾に臨む標高28メートルの台地に築かれています。




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台地の上は平坦で、東西900メートル・南北400メートルほどの広さがあります。
その台地南端の海際に城を築き、西・東・北の三方に向かって二重の堀を廻らせていました。

台地の北側は城下町で、街道を引き入れて町屋を発展させました。
また、台地の要所に武家屋敷と寺社を配置し、有事に備えました。
まさに、要塞都市の様相を呈していました。



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明治6年(1873)の廃城令以降、堀は本丸の周囲を残して、次第に埋められてゆきました。

その一方で、鉄道も国道も台地上を避けて、北側の麓に開通しました。
そのため、今でも日出の旧城下町には、江戸時代の町割が濃厚に残っています。


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二の丸 に残る武家屋敷です。
この一帯は重臣の屋敷が建ち並んでいました。

他にも、城下町の外周などに武家屋敷の面影が良く残っています。


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裏門櫓(うらもんやぐら)。

元は、本丸東側に構えられた裏門を護る櫓でした。
廃城後の明治8年(1875)、払い下げられて民家に移築されていました。


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現在は、観光案内施設「二の丸館」(にのまるやかた)の一角に移築・保存されています。


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本丸は現在、日出小学校が建っています。
堀と石垣で囲まれた小学校です。


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かつての本丸大手門に通じる土橋が、そのまま小学校の正門への連絡通路に使われています。

その土橋の両脇には、石造りの塀が残ります。
上部が丸く加工されていて、その形状から「かまぼこ塀」と呼ばれています。

「かまぼこ塀」は、他では岡城(竹田市)など、限られたお城でしか見られない貴重な遺構です。


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鬼門櫓(きもんやぐら)。
元は、本丸の北東隅の石垣上に建つ櫓でした。

明治の初め、本丸に小学校が建てられた以降もそのまま保存されていました。
その後、大正10年(1921)の校舎改築に際し、民間に払い下げられ、町の郊外に移築されました。

平成20年(2008)、子孫の方から日出町に寄付され、翌年には文化財指定を受けて、再び日出城内に移築されました。

なお、元々建っていた本丸北東隅は、小学校敷地拡張のため改変されています。
そのため、本丸西側の堀の向かい(二の丸の一角)に場所を変えて保存されています。



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鬼門櫓の北東側は、このように屋根も壁も欠き取られた形になっていて、角が存在しません。
このような櫓建築は、全国のお城でも日出城にしか現存しておらず、大変貴重な遺構です。

古来、北東の方位は禍(わざわい)を招く「鬼門」として忌み嫌われていました。
そこで、このように屋根も壁も、さらには内部の間取りも北東側の角を欠き取った形で櫓を造りました。
いわゆる「鬼門除け」(きもんよけ)です。
これで、禍を招く鬼門の方位そのものが無くなって、安泰というわけです。

私たちは、とかく 「昔の人は、迷信や因習に縛られて生きていた・・・」 というイメージを抱きがちです。
でも、実際には昔の人の方が、現代人よりもはるかにポジティブな感性を持っていたんじゃないでしょうか?
この櫓の「鬼門除け」の発想を見ていると、そんな気がしてきました。


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二の丸 の西から、南へ廻り込みます。
武家屋敷の土塀に挟まれた道の先に海が見えます。

右奥には藩校・致道館(ちどうかん)の建物が移築されています。
この時は、修理中で素屋根で覆われていました。
藩校の建物として、九州地方でも珍しい遺構です。

なお、致道館は元は 二の丸 の東側にありました。
現在、その場所には中学校が建っています。
藩校の伝統が、今に受け継がれているようで面白いです。


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二の丸石垣。

石垣上にあるのが藩校・致道館の建物です。



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最後に、お城の遺構ではありませんが、もう一つ。

日出城の南側の海岸は、「城下海岸」(しろしたかいがん)と呼ばれています。
波の静かな別府湾と、遠く高崎山を望む景勝の地です。

そして、珍しいことに、この海中には淡水が湧き出している所があります。
それは魚の成育にも良い影響を与え、特にカレイは美味で、「城下カレイ」の名前で知られています。

大分県の味覚のひとつとして全国的にその名を知られる「城下カレイ」。
その「城」とは、まさに日出城のことなんですね。