「第31回 全国城郭研究者セミナー  ~ 近世城郭をどう捉えるか ~ 」 私の見聞録。

2014-08-04 23:51:01 | うんちく・小ネタ
8月2日(土)、3日(日)の両日、九州大学・西新プラザで開催された「全国城郭研究者セミナー」に参加してきました。
これは、全国の城郭研究者が一堂に会して、全国を視野におさめた研究成果の交換と、研究者同士の交流を深める目的で、毎年夏に行われているものです。
なお、第31回目にあたる今年は、初の九州地区での開催でした。
台風の影響で、ずっと雨続きでしたが大勢の参加者で賑わっていました。

以下、私の個人的な感想ですが、簡単に触れてみたいと思います。



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先ず始めは、選抜された6名の研究者による調査・研究報告。
自治体でお城の研究に携わる本職の方から、本業の傍ら二足の草鞋で研究活動を続けている方まで、立場は様々です。
しかし、どの方からも地域に根差した研究に打ち込む熱意が共通して感じられました。

研究の方法も様々で、地域の城跡を丹念に踏査して地域性・時代性の分類を試みた研究、統計学的な手法を用いて数値でお城の特性を表そうとする研究。徹底した文献調査により通説の見直しに挑む研究などなど・・・。
目からウロコの新知見の数々に、時間の経つのも忘れるほど聞き入ってしまいました。

中には、報告後に鋭い質問が入り、コンセプトの理論が危うくなってしまったようなケースもありましたが、いえいえ、こういうプロセスを経て学問は発展してゆくものと信じています。



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そして後半は、「近世城郭をどう捉えるか 」をテーマとしたシンポジウム。

現代のお城の研究は、お城を「史料」として社会構造を読み解く、つまり、お城の形やその変遷から、その時代がどんな時代だったか、どんな社会が営まれていたかの追求を目的として、1980年代から90年代にかけて発展しました。
しかし現在、その目的が忘れられ、細かい形の追及にのみに終始するようになり(ある意味で、オタク化)、その時代の全体像へと視野が向かない傾向にあるとされます。

(・・・確かに、私もそうですが、お城好きな人は個人差はあれど「凝り性」なので、ついそうした傾向に向かうのかもしれません。)

そこで、研究目的の原点の確認の意味も込めて、今回のテーマが選定されたそうです。

シンポジウムに先立ち、4名の研究者からの基調報告。
こちらは大学、博物館等で研究活動をされている本職の先生方で、最後は奈良大学の千田嘉博先生。
近世城郭とは、「石垣が築かれている」とか「天守が建っている」とかのハコモノの有無ではなく、城主→家臣の上下関係を厳然と示す構造になっているか(たとえば安土城の場合、山上の信長居館と、そこに続く坂道に沿ってひな壇状に築かれたか家臣団屋敷群の存在)で定義づけるという解説は、とても分かり易かったです。
シンポジウムでもこの説がコンセプトになりました。


 
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なお、千田先生が「余談」として紹介された
<海外のお城と、日本のお城との意外な共通点>
には、大変興味深いものがありました。

たとえば、武田信玄が信濃の海津城(松代城)をはじめ、重要拠点のお城に「丸馬出」(まるうまだし=城門の外側に、半円状に堀や土塁を構えた防御施設)を築いています。
これと同じものが、紀元前のイギリスの城塞都市に存在したり・・・。
13世紀のシリアの城郭で、しつこいくらいに屈曲を繰り返す城門の構造が、
熊本城の飯田丸から本丸に至る連続枡形に似ていたり・・・。

時代も国も全く違う中で、
似たような社会情勢が出現し、
似たような政治的立場の人々が居て、
自分たちの生命、生活基盤、地位などを守るため、
考えに考え抜いた結果、よく似た建造物が誕生した。
・・・そうした例が、世界には数多く見られるそうです。

このような国際比較によって、
<日本のお城がその時代時代でどんな役割を果たしたか、何を求めらていたか>
が見えてくる。

という話には、大変感銘を受けました。




次回の「全国城郭研究者セミナー」は、来年の夏、東京で開催の予定だそうです。
一般参加OKですので、興味のある方はぜひ行ってみてください。


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信長は、なぜ本能寺を宿所としていたのか?

2014-07-20 23:10:58 | うんちく・小ネタ
NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」、物語はついに本能寺の変を迎えました。

本能寺の変は、歴史上最も有名な事件のひとつですが、同時に最大級の謎のベールに包まれた事件でもあります。
そもそも、明智光秀はなぜ信長を討ったのか・・・。

光秀は天下が欲しかったという「野望説」、
信長からの度重なる非道な仕打ちに堪忍袋の緒が切れたという「怨恨説」、
あるいは、信長の天下構想に危機感を持ったという「信長野望阻止説」・・・・・
諸説紛々で、まさに迷宮入りです。

ちなみに、NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」で描かれた光秀謀叛の動機は、「信長野望阻止説」でした。



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1.なぜか、信長は京都に屋敷が無かった!? 


ところで、本能寺の変をめぐる謎は、光秀謀反の動機だけではありません。

信長が本能寺を宿所にしていたことも、実は大きな謎をはらんでいるのです。
厳密に言うと、信長が泊まっていたのは、本能寺の敷地内に自分専用に建てた御殿でした。

私たちのイメージでは、信長ほどの実力者ならば、京都の好きな場所に、城なり屋敷なりを造れば良いように思います。
しかし、信長が頻繁に上洛を繰り返した14年間のうち、京都に自分の屋敷を持ったのは、わずか2年余りの短期間でした。
それ以外のほとんどは、市街地に隣接する大寺院を転々として宿所に利用していました。
そして、最後は本能寺の敷地を間借りするように建てた御殿に泊まっていて、そこを明智光秀に襲撃され落命しました。

独立した屋敷を持たず、お寺に宿を取る信長・・・。
これには、果たしてどのような理由があるのでしょうか?



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    <本能寺跡付近に建つ石碑>





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2.戦国時代の京都


信長について考える前に、まずは戦国時代の京都を見てみましょう。
次の写真は、現代の京都の航空写真に、戦国時代の町の様子を略記したものです。


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京都の市街地は、室町時代中期の 応仁の乱(応仁元年~文明9年/1467~1477)で一面の焼け野原となりました。
その後、「町衆」(まちしゅう)と呼ばれた都市民たちの手で復興が進められました。
その結果、戦国時代の京都は、市街地が上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)とに分離し、それぞれ「町衆」による自治が行われていました。
両市街地は、室町小路(むろまちこうじ)によって連結されていました。

上京は、おおまかに言うと、老舗の豪商が多い街です。
この地域は、天皇の住む内裏、室町幕府将軍の御所に隣接しています。
また、公家屋敷、幕府の役人や諸国の守護たちの屋敷なども集中していました。
市街地の東側には、足利義満が建立した相国寺の大規模な境内がありました。
まさに、政治の中心地のお膝元として発展した地域でした。

一方、下京は、中小規模の商工業者が多い街で、新興の気概にあふれ発展してゆきました。
こうした人々は法華宗を厚く信仰し、「町衆」としての結束を強めていました。
そのため、本能寺や妙覚寺(みょうかくじ)など、大規模な法華宗の寺院が市街地に隣接して建っているのが特長です。


 

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3.京屋敷を持たない信長。 それは、足利将軍との微妙な関係から始まった
    ≪永禄11年(1568)~天正元年(1573)≫




永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じ、6万人と号する大軍を率いて上洛。
室町幕府を傀儡化していた三好氏の勢力を、わずかな日数のうちに駆逐しました。
信長の武力を背景に、足利義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府15代将軍となりました。

永禄12年(1569)2月、信長は京都に将軍義昭の居城を築き始めます。
その場所は、上京と下京の中間地点で、両市街を結ぶ室町小路の上にまるで胡坐(あぐら)を
かくような立地です。
「京都の中心に将軍が君臨する」
という権力構造を、視覚的に誇示する狙いもあったのでしょう。



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この城は、「公方御構」(くぼう おかまえ)、あるいは「武家御城」(ぶけ おしろ)と呼ばれていたことが当時の史料から分かります。まさに将軍の城として認知されていました。
(なお、現在の歴史学上では、この城は 「旧二条城/きゅう にじょうじょう」という仮称で呼ばれています)




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城普請は、時に信長自らが陣頭指揮を執り、70日間ほどの突貫工事で完成し、義昭が入城しています。
将軍義昭の居城の周りには、義昭を支持する大名たちの屋敷が建ち並び、城の威容をさらに一段と高めていました。

こうして京都に平穏が訪れたかのように見えましたが、ここに小さな綻(ほころ)びが芽生えていました。
他でもない信長が、義昭がどんなに勧めても、頑なに辞退して義昭居城の周りに屋敷を建てようとしないのです。

この時の両者の思惑は、およそ次のように考えられます。
義昭・・・「信長の屋敷を我が居城の周辺に建てさせ、信長が将軍の家臣であると世間に示したい。」
信長・・・「義昭は、政治利用するために将軍の座に就けたまでのこと。臣下の礼など取るものか!」

つまり、大名は京都のどこに屋敷を建てるかで、その地位や立場を世間に、さらには日本中に表明することになってしまうのです。
信長は、なにも室町幕府の再興を望んでいるのではなく、将軍義昭を自分の権力拡大に利用したいだけでした。
いずれ義昭に利用価値がなくなれば、袂を分かつつもりでした。
それだけに、ここで足利将軍の家臣であると表明すれば、将来の活動上、大きな制約ともなり兼ねません。
信長は、自らの天下構造に向けて、超然として居たかったのでしょう。

そこで、信長が考えた方策は、寺院への宿泊でした。

この時代、大名が寺院を宿所に利用することは、ごく一般なことでした。
寺院の境内は十分な広さがあり、大勢のお供を収容することができます。
また、周囲の高い築地塀は、いざというとき防御壁ともなります。
さらに、格式の高い寺院になると、貴人を迎える客殿を備えており、体面を保つことができます。

何よりも、寺院はあくまでも宿所ですから、信長の置かれている地位や立場をぼやかすことが出来ます。
むしろ、軍事力を背景に過大に世間に印象付けることが可能になる。
これこそが信長のねらいだったのでしょう。

そんな思惑を秘めた信長が注目したのは、下京の市街地に隣接する妙覚寺と本能寺でした。
特に本能寺は、かつて比叡山延暦寺の兵力に焼き討ちされた教訓から、周囲に堀と土塁を廻らせ、城館のような構えをしていました。

元亀元年(1570)8月と9月、相次ぐ上洛の際に、信長は本能寺を宿所としています。
そして、同年12月に本能寺宛に発給した文書の中で、
「本能寺は信長の定宿であるから、他の者が寄宿してはならない。」
と指示しています。(/『本能寺文書』)

しかし、その後は本能寺よりも妙覚寺をよく利用するようになります。
やはり、上京と下京とを結ぶ室町小路に面した妙覚寺の方が、信長の京都での実力を誇示するのに好都合と考えたのでしょう。



天正元年(1573)に至って、 足利義昭と信長の関係は決裂。

同年7月、義昭は、宇治の槇島城に籠城して抗戦しましたが、ほどなく信長に降伏。
河内国の若江を経て、毛利氏を頼って備後国へ落ち延びて行きました。
ここに、室町幕府は滅亡しました。


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室町幕府の滅亡後、信長はすぐには京都に屋敷を建てず、やはり妙覚寺を上洛時の宿所に利用するスタイルを続けました。
しかし、翌・天正2年(1574)以降、新たな動きを見せます。



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3.信長、幻の京都築城計画 
    ≪天正2年(1574)~天正3年(1575)≫


天正2年(1574)になって、信長は京都に自分の城を築くことを計画します。
場所は、上京の市街地に接する相国寺です。
相国寺は、応仁の乱で全焼した後、復興が進められていましたが、天文20年(1551)に細川氏と三好氏の戦いで再び全焼しました。
その後、どこまで復興されていたか不明ですが、室町幕府の力がいよいよ弱まっていた時代なので、広大な境内の多くは空き地のままだったのではないでしょうか。
信長は、この広大な境内を城に改造しようと考えたようです。

しかし、この築城計画は、何故か立ち消えになりました。
武田勝頼の侵攻(翌・天正3年、長篠合戦にて撃破)をはじめ、なお多くの敵と交戦中だったこと。
また、上京という土地柄が、とかく信長に反抗的だったことなども理由に考えられます。


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 4・妙覚寺の隣に、初めての京屋敷を建設
    ≪天正4年(1576)~天正7年(1579)≫
  

天正4年(1576)5月、信長は妙覚寺の東側(室町小路を挟んだ向かい側)にあった公家・二条晴良の屋敷地を譲り受けました。そして、自分の屋敷の普請を開始します。

なぜ、この時期になって、ようやく京屋敷を建てたのか、よく分かりません。
前年に信長が、従三位権大納言兼右近衛大将に叙任されたことが関連しているのかも知れません。
また、同じく前年に信長は、長男の信忠に織田家の家督を譲っています。
妙覚寺の宿所も信忠に譲って、別に隠居所を構える意図もあったのかも知れません。

信長が初めて建てたこの京屋敷は、「二条御新造」(にじょうごしんぞう)の名で史料に登場します。
翌・天正5年の夏には完成したようで、その後は上洛時には常に「二条御新造」に泊まっています。

ところが、天正7年(1579)11月、信長は「二条御新造」を誠仁親王(さねひとしんのう/正親町天皇の第一皇子)に献上しました。
これは、前年に、信長が右大臣と右近衛大将の官を辞した(正二位の位階は変わらず)ことも関係しているのでしょうか?
また、信長は建設当初から、この屋敷はいずれ誠仁親王に献上するという意志を持っていたとする史料もありますが、完成して2年余りも自分の屋敷として使ってから献上するというのもこれまた謎です。


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 5・そして、再び本能寺へ
    ≪天正8年(1580)~天正10年(1582)≫


そして、翌・天正8年2月より、新たな上洛時の宿所として、本能寺の敷地内に自分の御殿の建設を始めました。
転々と宿所を変え、再び戻ってきた本能寺。
それから1年4ヶ月の後、皮肉にも、ここが信長の終焉の地となったのでした。




弘前城を歩く。  ~ 保存状態の良さは、東北地方で一番! のお城 ~

2014-07-11 01:02:18 | うんちく・小ネタ
弘前城  ひろさきじょう  (青森県弘前市)




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弘前城は、津軽信枚(つがる のぶひら)が慶長15年(1610)2月より本格的な城普請に着手しました。
翌16年(1611)5月には一応の完成を見て、信枚が入城しています。
以後、明治4年(1871)7月の廃藩置県まで、弘前藩・津軽家の居城でした。

城跡は現在、弘前公園となり、東西約615メートル、南北約950メートルもあった城の敷地がほぼ残っています。
天守をはじめ、三重櫓3棟、櫓門5棟、番所1棟が現存し、東北地方の城の中で最も旧状をよく留めています。


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追手門です。
三の丸の南側に開く、弘前城の正面入り口です。

手前の堀は、外堀です。
弘前城は西側の岩木川を背後の守りとして、南・東・北の三方に、内堀・中堀・外堀の三重の堀を廻らせています。

外堀に沿って、歩いてみましょう。


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外堀を東側にまわった所に、東門が建てられています。
三の丸から城外に向かって開く、もう一つの門です。


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外堀に沿って北上すると、三の丸の北側に築かれた北の丸に至ります。

北の丸に建てられた亀甲門(かめのこもん)です。
北門とも呼ばれます。
弘前城の南東10キロメートルの地にあった大光寺城(だいこうじじょう)から移築した門と伝えられています。


以上の3棟の門が、城外から弘前城内へ入る主要な門でした。


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亀甲門を入って北の丸、続いて三の丸を南に進むと、内堀に突き当たります。

内堀越しに見る、二の丸北東隅の丑寅櫓(うしとらやぐら)です。


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さらに内堀に沿って南に進むと、東内門(ひがしうちもん)が建っています。

門を入ったところに与力番所(よりきばんしょ)が建っています。


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与力番所の辺りから見た天守です。

はやる気持ちを抑え、もういちど東内門を出て、内堀に沿って南進しました。


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南から見た二の丸です。

櫓は、二の丸の南西隅に建つ未申櫓(ひつじさるやぐら)です。


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内堀の南側に建つ南内門(みなみうちもん)です。
ここを入ると二の丸です。

なお、二の丸南側は、東西を2棟の三重櫓が固めています。

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二の丸南東隅の辰巳櫓(たつみやぐら)。


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同じく、南西隅の未申櫓。


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いよいよ天守に接近です。

築城当初、弘前城には五重天守が建っていました。
しかし、この五重天守は、寛永4年(1627)に落雷で焼失。
文化7年(1810)、本丸辰巳櫓を改築して建てたのが、現存する三重天守です。


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天守の外観は、本丸の外向き(南・東側)と内向き(西・北側)とでは、全く違う様相をしています。
窓の大きさ、屋根の破風飾りの有無などに注目してみて下さい。


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本丸から見た岩木山。

津軽の歴代の殿様も、ここから雄大な岩木山の姿を愛でたことでしょう。
とても贅沢な庭の借景です。





松前城  ~ さまざまな「唯一の・・・」を持つ、北海道のお城 ~

2014-07-08 02:16:24 | うんちく・小ネタ
松前城  まつまえじょう  (北海道松前郡松前町)



松前城は、北海道で唯一の天守を持つお城です。


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城主の松前氏のルーツは、室町時代の若狭国の守護大名・武田氏の一族と伝えられます。
故あって蝦夷地(北海道)に移り住み、その地の豪族・蠣崎(かきざき)氏の客分となり、やがて入り婿として蠣崎の家督を継ぎ、勢力を広げていった・・・・・と、されています。
しかし、確かなことは分かりません。

15世紀半ば頃、北海道の道南地方には、蠣崎氏のような豪族が12家あって群雄割拠していました。
この時代、北海道では稲作は出来ず、豪族たちは支配地を広げ、そこでのアイヌとの交易を財源としていました。

その後、蠣崎氏の当主にとても外交上手な人物が登場しました。
5代目とされる蠣崎慶広(かきざき よしひろ)です。
慶広は、豊臣秀吉によしみを通じ、文禄2年(1593)に「船役徴収権」を公認されました。
また、慶長9年(1604)には徳川家康から、アイヌ交易独占権を公認されて、大名としての財政基盤が整いました。

その少し前、慶長4年(1599)に氏を蠣崎から松前に改めています。
北海道で唯一の大名、松前氏の誕生です。

しかも、その財源が年貢米ではなく、海産物を主とする交易品によって成り立っている点でも、唯一の大名でした。


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慶長5年(1600)、松前氏は津軽海峡を見下ろす福山丘陵に新たな居城を築きました。
後の松前城ですが、当初は屋敷構え「福山館」(ふくやまだて)と称していました。
その規模は、東西93間(168メートル)、南北126間4尺(228メートル)で、決して大規模なものではありませんでした。

ただし、屋敷の内部はかなり立派だったようです。
後に福山館を訪れた幕府巡検使の一行は、その見事さに驚き、改めてアイヌ交易の利益の大きさを実感しています。

嘉永2年(1849)、幕府は松前氏に対し、福山館を本格的な城に改築するよう命じました。

この時期、日本近海に欧米の船が頻繁に出没し、特に北海道ではロシア侵略の危機感が高まっていました。
こうして誕生した松前城は、本丸に天守が建ち、その周囲に石垣と土塀を築き、櫓や門を配置した近世城郭でした。
しかし、その一方で、海に向かって砲台が並ぶという和洋折衷の部分もありました。


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外国の侵略に備えた松前城でしたが、明治元年(1868)、皮肉にも内戦の舞台となりました。
同年10月、榎本武揚を首魁とする旧幕府軍が北海道に上陸。
11月1日、旧幕府軍の軍艦が松前城へ艦砲射撃を開始、続いて新撰組生き残りの土方歳三率いる部隊が城に迫りました。
こうして5日間の戦いで松前城はあえなく落城しました。


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【ちょっと雑談・・・。】


江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、基本的に領国と江戸での1年ごとの二重生活を義務付けられていました。

参勤交代の制度は、建前では1年ごとに交代で将軍のお膝元の江戸を守るというのが目的でした。
実際には、大名の妻(正室)とその子供を江戸に人質として留め置き、大名に道中で多大な出費をさせ、反乱を起す力を削ぐ目的が大きいのでした。

そんな中、松前氏は領地が江戸からあまりに遠いという理由で、参勤交代では特例が認められていました。
諸大名の中で、唯一 「六年一勤」、つまり6年のうちに一度、江戸に出て暮らせば良いとされていたのです。
しかも、江戸での滞在期間は半年に短縮されていました。

この特例のよって、松前の殿様は、経済的には大変助かったことでしょう。

しかし、その一方で、家族との接し方では、かなりとまどったのではないでしょうか・・・。
なぜなら、松前の殿様は、江戸で奥方と半年暮らせば、その次はもう5年以上も会うことが出来ないのです。


また、殿様の江戸暮らし中に、奥方がめでたく懐妊したとします。

半年の江戸詰めを終えた殿様は、わが子の誕生を見ることなく、北海道に帰ってゆきます。
そして、殿様が念願のわが子に初めて会うとき、その子はもう数えて5歳になっています。
赤ちゃんの頃を知らないまま、いきなり5歳児の父となるのです。

そして半年間を子供と一緒に暮らし、また北海道の領地に帰る。 その次に会うときには、子供は10歳になっています。

再会するごとに、子供は一気に5歳ずつ大きくなっている。
また、殿様と奥方は、一気に5歳ずつ年を取っている・・・。

今、「超高速参勤交代」という映画がヒットしていますが、
松前氏の参勤交代をモチーフに、「超高速(で、子供が成長する)参勤交代」とか、
「超高速(で、夫婦が年を取る)参勤交代」というのも、
映画化してみたら面白いかも・・・ とか、勝手に想像してますが、いかがなものでしょうか?


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備中高松城 水攻めの謎 ~ 秀吉が築いた堤防の長さは、3キロメートル? 300メートル? ~

2014-07-06 19:03:56 | うんちく・小ネタ
秀吉の「備中高松城 水攻め」は、日本史上でも有名な戦いですが、実は大きな謎も伴っています。
そもそも「水攻め」とは何なのでしょうか。



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  <蛙ヶ鼻に残る備中高松城水攻め堤防の一部(公園整備前の状況)>



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1.水攻めの効果 


お城の水攻めといえば、平成24年(2012)公開の映画 『のぼうの城』(原作:和田竜)をイメージされる方が多いかも知れません。
(私も映画を観に行って、その後のテレビ放送でも観ました。再放送があったら、多分また観てしまうでしょう・・・)

ただし、『のぼうの城』の水攻めの描写には、かなり誇張があります。
実際に戦国時代に行われた水攻めは、堤防の中に急激に注水して水圧で建物を破壊するとか、城を完全に水没させて城兵を溺死させることを狙ったものではありません。

戦国武将たちは、常に「費用対効果」を考えて戦をしました。
それでは、堤防建設という多額の資金、そして労働力を費やしてまで期待した、水攻めの効果とは何かを考えてみましょう。

備中高松城の実例も参考に考えると、水攻めの効果として次の3項目が挙げられます。

 (1) 城と外部との連絡を絶つ
 (2) 籠城軍の生活環境を悪化させ、戦う意志を失わせる
 (3) 「国力」の差を見せ付け、敵を降伏させる

 



(1) 城と外部との連絡を絶つ

籠城戦は、平たく言えば「時間稼ぎ戦術」です。
援軍の到着を待ち、敵より兵力が勝ってから反撃に出る。
あるいは、城を攻撃する敵方が、何らかの事情が発生して城攻めを継続できなくなり撤退。そんなコールドゲームを期待する。
そうした時期を待ち、じっと耐えるのが籠城戦です。

それに対する攻撃軍は、まず籠城軍と援軍の連絡を絶つことが肝心です。
そして、兵糧の運び入れを阻止し、逆に籠城軍の兵糧が尽きることでの「時間切れ」の降伏を狙います。
そのためには、通常は城の周りに何重にも柵をめぐらせて、兵を配置して警備します。
水攻めの場合は、水没地域によって、城と外部との連絡を完全に遮断できるのです。
従って、城の周辺を冠水させて孤立させる程度でも、十分にその目的を達成するのです。



(2) 籠城軍の生活環境を悪化させ、戦う意志を失わせる

水攻めされた備中高松城では、付近にあった染物屋から染物用の板を数百枚集めて小船を3隻作り、城内の連絡用に使用したと伝えられています。
おそらく、城内の大部分が床下浸水し、本丸や要所の櫓などの高い区画が寸断されて残る状態だったのでしょう。

城兵は、水に漬かっていない場所へ避難し、過密状態のため寝るときも身を横たえることは出来なかったでしょう。
兵糧も多くが水に漬かってしまい、乾いた地面も少なく炊事も出来ず、生米をかじる状態だったかもしれません。

さらに、洪水による床下浸水を経験した人はイメージし易いかも知れませんが、水とともに様々な汚物が流れて来ます。
また、乾いた場所を求めてムカデやヘビなど、同居したくない生き物が座敷に這い上がってきます。

生活環境を劣悪にし、籠城軍に戦いを続ける意思を失わせる。
これも水攻めの効果です。



(3) 「国力」の差を見せ付け、敵を降伏させる

水攻めの堤防建設には、多額の資金、そして労働力を要します。
さらに、敵を前にした戦場での工事は、それを短期間で完成させなければなりません。

よほど豊富な軍事力と経済力が無ければ、成しえない技です。
言い換えれば、織田軍(秀吉軍)の軍事力と経済力を、備中高松城の籠城軍に、さらには救援に来た毛利軍に思い知らせることが出来るのです。
歴然たる「国力」の差を見せ付けられた毛利軍は、講和に応じる態度を固めました。


以上の事から、「水攻め」は味方の兵力を損じることなく、敵の城を降伏させる戦術と位置付けられます。
しかも、「物心両面」で敵の戦意を喪失させてゆき、通常の兵糧攻めよりも早い降伏が期待できるという点が特徴と言えます。



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2.備中高松城水攻め堤防の長さは、3キロメートル? 300メートル?


(1) 3キロメートル説

備中高松城の水攻め堤防の長さを記した最初の史料は、『中国兵乱記』です。
これは、実際にこの城に籠って戦った人物が、後年に著した貴重な史料です。
著者の中島元行は、清水宗治の副将として毛利家から派遣され、備中高松城の二の丸を守りました。
晩年に至り、毛利家の求めに応じて、天正5年(1577)から同10年までの間、中国地方で繰り広げられた毛利一族と織田信長・羽柴秀吉との戦闘の経過を軍記として記録しました。それが『中国兵乱記』です。
元行の没年が慶長19年(1614)ですから、「水攻め」から30年ほど経って書かれたことになります。
『中国兵乱記』には、堤防の長さを26町(約2.8キロメートル)、幅は基部で9間(16.2メートル)で、高さ4間(7.2メートル)と記されています。
現在、堤防の一部が残る蛙ヶ鼻から、足守川の水を引き入れた門前までの距離を測ると、およそ3キロメートルあります。
つまり、『中国兵乱記』は、この区間の全てに堤防が築かれたと述べています。

『中国兵乱記』の記述をもとに、この区間に長大な堤防が築かれていたとするのが定説となりました。
江戸時代には『太閤記』人気の影響も合わさって、長大な堤防を描いた地図や絵画が多く出回りました。
現代に入ってからは、吉川英治や司馬遼太郎の小説に長大な堤防が登場し、周知されてゆきました。

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(2) 300メートル説

江戸時代中期の寛政3年(1791)、地理学者の古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)は、備中高松城跡と周辺地域を踏査しました。
その結果、古松軒は水攻め堤防について、従来の説とは異なる新たな見解を示し、「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」(びっちゅうのくに かやぐん たかまつじょう みずぜめちりのず)に記しました。
その新たな見解とは、秀吉が水攻め堤防を築いた区間を、蛙ヶ鼻から松山街道(現在の国道180号線)までの間、およそ300メートルに限定したことです。
その図中では、堤防を描いた横に「此所二新堤築ク」と注記し、堤防が限定的に築かれたことを強調しています。

しかし、この説は関心を集めることも無く、やがて埋もれてゆきました。

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<「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」>



昭和60年(1985)6月、大雨による洪水で、備中高松城跡の一帯がまるで水攻めの光景を再現したかのように水没したことがありました。
これにより、「ここは、元々水没し易い地形なのでは? 」との見解が、地元研究者を中心に持たれるようになりました。
平成9年(1997)、地元の県立高松農業高等学校土木課が、精密に土地の高低を測定した結果、旧松山街道(国道180号線)に沿った一帯が、備中高松城の周辺より1メートルほど土地が高くなっていることが分かりました。
これは、太古の昔より氾濫を繰り返し、度々流路を変えていた足守川(あしもりがわ)によって運ばれた土砂が堆積したもので、「自然堤防」(しぜんていぼう)と呼ばれるものです。
つまり、蛙ヶ鼻と自然堤防の間、およそ300メートルの区間を塞き止めれば、古川古松軒が考えたように水攻めが可能だったということが証明されたのでした。

以上が、水攻め堤防の長さに関する「3キロメートル説」と「300メートル説」の概略です。
皆さんは、どちらの説を支持されるでしょうか。
ちなみに、大河ドラマ「軍師官兵衛」では、大河ドラマとしては初めて「300メートル説」を採用しています。



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3.水攻めの日本史 


備中高松城の水攻めは、NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」では、官兵衛が立案したというストーリーになっています。
実際に官兵衛自身が考え付いたものかどうか、そこまで詳しく記した史料は残っていません。
しかし、ドラマにそこまで詮索を入れるのは野暮というもの。ここはドラマとして楽しみましょう。

ついでながら、平成8年(1996)に放送された大河ドラマ 「秀吉」では、黒田官兵衛が秀吉に水攻めを献策する場面で、こんなセリフがありました。

 「唐土の古代の戦術をもとに、水攻めを考えました」

古代支那(中国)の戦術を真似て、備中高松城の水攻めが立案されたというのは、明らかな誤りです。
(先ほど、ドラマはドラマとして楽しみましょうと言ったばかりですが・・・)

城をめぐる戦いで、川の水を塞き止めて人工的に洪水を発生させ、敵の動きを制約するという戦術は、もっと古くから日本に存在しました。


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(1) 寿永2年(1183)、越前国の燧ヶ城(ひうちがじょう)に籠った木曽義仲方の武将が、平家の大軍勢を迎え撃つため、城の近くを流れる日野川を塞き止めて一帯を水浸しにしたという記述が『源平盛衰記』にあります。
これは、籠城軍が攻撃軍に対して行った水攻めです。


(2) 永禄2年(1559)、近江国の戦国大名・六角義賢(ろっかく よしかた)が、配下の高野瀬秀隆(たかのせ ひでたか)の居城・肥田城(ひだじょう)を水攻めにしています。
これは、秀隆が六角氏の敵対勢力・浅井長政(あざい ながまさ)に内応したための報復でした。
義賢は、肥田城の守りが堅く攻略が困難と判断し、城の周囲に長さ58町(約6.4キロメートル)の堤防を築き、川の水を引き入れて水攻めにしました。
この「肥田城水攻め」は、堤防が決壊し、結局は失敗に終わりましたが、今も堤防遺構が部分的に残っています。


(3) 元亀3年(1572)に織田信長が浅井長政の籠る小谷城を攻めた時、信長が本陣を置いた虎御前山城から東方の付城・宮部城まで、長さ50町(約5.5キロメートル)にわたって高さ3メートルの土塁を築いています。
そして、土塁の外側(小谷城に向かう側)は塞き止めた川の水を流し入れ水浸しにし、内側には軍道を造っています。


天正10年(1582)の備中高松城水攻めは、こうした歴史の流れの上にあります。
また、織田家の多くの武将たちの故郷・濃尾平野に蓄積されてきた治水技術もその素地となったと考えられます。
木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる「木曽三川」は、近世以前は洪水が起こるごとに流路を変える暴れ川でした。
この流域では、集落の周囲を堤防で囲んだ「輪中(わじゅう)」が中世より発達しまていました。
川の水を、人の力で制御するという考えと技術とが、秀吉の水攻めの成功を生んだと言えるでしょう。


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  <蛙ヶ鼻に残る備中高松城水攻め堤防の一部(公園整備後の状況)>



なお、秀吉は備中高松城の「水攻め」での成功体験で自信を得て、その後もたびたびこの戦術を用います。

天正12年(1584)、小牧長久手合戦の一環で、織田信雄方の尾張国・竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)を水攻め。
天正13年(1585)、紀州攻めで太田城(おおたじょう)を水攻め。
天正18年(1590)、小田原合戦で、北条方の武蔵国・忍城(おしじょう)を水攻め。


こうして大規模な「水攻め」のノウハウが蓄積され、水辺を防禦の要とした城を、逆に無力化してゆくことになりました。
たとえば、慶長15年(1610)、徳川家康は清須城を廃城とし、新たに名古屋城の築城に着手しています。
この時、家康は清須城を廃城にする理由の一つに、そこが「水攻め」に弱い立地だということを挙げています。

さて、日本史上で最後の内戦は明治10年(1877)の西南戦争ですが、この戦いの中で最後の「水攻め」が行われています。
同年2月22日、西郷隆盛率いる薩摩軍は、政府軍が籠もる熊本城(城内に陸軍の熊本鎮台が置かれていた)への攻撃を開始しました。
籠城する政府軍4000人に対し、攻撃する薩摩軍は1万人超。
しかし、さすがに堅固な熊本城はビクともしません。
やがて政府軍の援軍が福岡より南下して来たため、薩摩軍は兵力の大部分を田原坂方面に移動。
熊本城に籠る政府軍の反撃を防ぐため、城の周囲を流れる坪井川・井芹川の合流点を塞き止め、熊本城下を水浸しにしました。
この話を初めて聞かれた方は、
「あの高石垣を誇る熊本城を水攻め!?」
と、意外に思われるかも知れません。
これは、冒頭で述べた水攻めの3つの効果のうち、「城と外部の連絡を絶つ」に目的を絞った作戦でした。

その後、4月14日に熊本県南部の海岸に政府軍別働隊が上陸。
熊本城に援軍として駆けつけ、薩摩軍を駆逐しました。
こうして日本史上最後の「水攻め」は、攻撃軍の敗退で幕を閉じたのでした。

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  <西南戦争時の熊本城周辺の水没区域>