11月に入り、TVの気象情報の中でも紅葉だよりが紹介されるようになりました。
「紅葉の名所のお城」、第二弾は彦根城をご紹介します。
彦根城は、近畿地方のお城の中でも、紅葉の赤色の鮮やかさが特に際立っているので必見です。
晩秋の湖北は、朝晩の冷え込みが厳しく、その自然条件がこの美しく深い赤みを生み出すのでしょう。
さて、彦根城といえば井伊家の城。
井伊家は、甲冑・旗指物を赤一色で統一した「赤備え」で武勇を誇った家柄で、まさに赤色は彦根城のシンボルカラーと言えます。
自然の赤と歴史の赤、二つの「赤」の織り成す美を堪能してみるのも一興です。
------------ 彦根城 2002年11月17日撮影 ------------
佐和口多聞櫓と天守の遠望。左手の石垣上では桜並木が色づいています。
佐和口多聞櫓から見た御殿・天秤櫓
内堀の土塁のこの一本が先ず目を楽しませてくれます。
本丸から見た天守。
天守の背後、西の丸の紅葉は必見です
「紅葉の名所のお城」、第二弾は彦根城をご紹介します。
彦根城は、近畿地方のお城の中でも、紅葉の赤色の鮮やかさが特に際立っているので必見です。
晩秋の湖北は、朝晩の冷え込みが厳しく、その自然条件がこの美しく深い赤みを生み出すのでしょう。
さて、彦根城といえば井伊家の城。
井伊家は、甲冑・旗指物を赤一色で統一した「赤備え」で武勇を誇った家柄で、まさに赤色は彦根城のシンボルカラーと言えます。
自然の赤と歴史の赤、二つの「赤」の織り成す美を堪能してみるのも一興です。
------------ 彦根城 2002年11月17日撮影 ------------
佐和口多聞櫓と天守の遠望。左手の石垣上では桜並木が色づいています。
佐和口多聞櫓から見た御殿・天秤櫓
内堀の土塁のこの一本が先ず目を楽しませてくれます。
本丸から見た天守。
天守の背後、西の丸の紅葉は必見です
現在、公園化されている近世の城跡は、多くが桜の名所になっています。
そんなお城でお花見をされたことがある方は、案外と多いかと思います。
さて、まもなく11月。紅葉真っ盛りの季節ですね。
紅葉を楽しめる場所といえば、都会を離れた山奥の風景をイメージしがちですが、実は街中の城跡でも見事な紅葉を見せてくれる場所があります。
過去に撮った写真から、いくつかご紹介しましょう。まずは・・・
盛岡城 (岩手県盛岡市) -2007年11月16日撮影-
慶長3年(1598)、南部利直が築城を開始。断続的に普請を続け、寛永年間(1624~44)初期に完成。
以後、明治まで南部家歴代が居城しました。
現在、城跡には移築復原された二階蔵の他に城郭建築は残っていませんが、花崗岩の巨石を豪快に積み上げた石垣は、東北地方屈指と評されています。
三ノ丸の石垣。
この城の石垣は、「豪快さ」と「精巧さ」を併せ持つといった感じでしょうか。
紅葉に染まった三ノ丸。奥の石垣は二ノ丸。
枝ぶりも何だか芸術的に思えてきます。
二ノ丸と本丸を結ぶ廊下橋。
本丸に入ると、頭上いっぱいに紅葉が覆いかぶさってくる心地です。
白い石垣に紅葉の赤が映えます。
そんなお城でお花見をされたことがある方は、案外と多いかと思います。
さて、まもなく11月。紅葉真っ盛りの季節ですね。
紅葉を楽しめる場所といえば、都会を離れた山奥の風景をイメージしがちですが、実は街中の城跡でも見事な紅葉を見せてくれる場所があります。
過去に撮った写真から、いくつかご紹介しましょう。まずは・・・
盛岡城 (岩手県盛岡市) -2007年11月16日撮影-
慶長3年(1598)、南部利直が築城を開始。断続的に普請を続け、寛永年間(1624~44)初期に完成。
以後、明治まで南部家歴代が居城しました。
現在、城跡には移築復原された二階蔵の他に城郭建築は残っていませんが、花崗岩の巨石を豪快に積み上げた石垣は、東北地方屈指と評されています。
三ノ丸の石垣。
この城の石垣は、「豪快さ」と「精巧さ」を併せ持つといった感じでしょうか。
紅葉に染まった三ノ丸。奥の石垣は二ノ丸。
枝ぶりも何だか芸術的に思えてきます。
二ノ丸と本丸を結ぶ廊下橋。
本丸に入ると、頭上いっぱいに紅葉が覆いかぶさってくる心地です。
白い石垣に紅葉の赤が映えます。
写真は、今回発掘された聚楽第の金箔瓦です。
石垣のすぐ南から出土しました。
金箔瓦は、漆を接着剤として、瓦の瓦当(がとう:瓦を屋根に葺いた時、軒先に面する部分。通常、文様が凹凸で表現されている)に金箔を貼り付けてあります。
金箔瓦は、織田信長によって考案されたと考えられています。信長は自らの居城である安土城を金箔瓦で飾り、限られた一門の城以外では金箔瓦の使用を認めなかったようです。
そして、信長政権を継承した秀吉もこのスタイルを継承しました。但し、一門以外でも特に信頼する大名、活躍を期待する大名には金箔瓦の使用を認めたことが、各地の城郭の発掘調査で確認されています。
なお、安土城で出土する金箔瓦は、文様部分の凹面に金箔が貼られています。
それに対し、秀吉の大坂城・聚楽第・伏見城で出土する金箔瓦は、文様部分の凸面に金箔が貼られているという違いがあります。今回出土した瓦を良く観察すると、確かに文様部分の凸面に金箔が貼られています。
文様部分の凹面に金箔を貼る「信長方式」と、凸面に金箔を貼る「秀吉方式」。
この違いは何を意味するのでしょうか?
最近の研究では、「信長方式」は技術的に手間がかかって難しいけれど、風雨に晒される環境での耐久性を優先したもの。「秀吉方式」は作業を簡略化し、とにかく大量生産を優先したもの。 という見解があります。
確かに秀吉の金箔瓦の使用量は、信長を圧倒しており、なかなか説得力の有る説です。
ひょっとすると、秀吉はただの「サル真似」になるのがイヤで、信長とは金箔の貼り方を逆にしたのかも・・・。
私がたった今、思い付いたこの説などは、いかがなものでしょうか?
石垣のすぐ南から出土しました。
金箔瓦は、漆を接着剤として、瓦の瓦当(がとう:瓦を屋根に葺いた時、軒先に面する部分。通常、文様が凹凸で表現されている)に金箔を貼り付けてあります。
金箔瓦は、織田信長によって考案されたと考えられています。信長は自らの居城である安土城を金箔瓦で飾り、限られた一門の城以外では金箔瓦の使用を認めなかったようです。
そして、信長政権を継承した秀吉もこのスタイルを継承しました。但し、一門以外でも特に信頼する大名、活躍を期待する大名には金箔瓦の使用を認めたことが、各地の城郭の発掘調査で確認されています。
なお、安土城で出土する金箔瓦は、文様部分の凹面に金箔が貼られています。
それに対し、秀吉の大坂城・聚楽第・伏見城で出土する金箔瓦は、文様部分の凸面に金箔が貼られているという違いがあります。今回出土した瓦を良く観察すると、確かに文様部分の凸面に金箔が貼られています。
文様部分の凹面に金箔を貼る「信長方式」と、凸面に金箔を貼る「秀吉方式」。
この違いは何を意味するのでしょうか?
最近の研究では、「信長方式」は技術的に手間がかかって難しいけれど、風雨に晒される環境での耐久性を優先したもの。「秀吉方式」は作業を簡略化し、とにかく大量生産を優先したもの。 という見解があります。
確かに秀吉の金箔瓦の使用量は、信長を圧倒しており、なかなか説得力の有る説です。
ひょっとすると、秀吉はただの「サル真似」になるのがイヤで、信長とは金箔の貼り方を逆にしたのかも・・・。
私がたった今、思い付いたこの説などは、いかがなものでしょうか?
さて、先に紹介した石垣の写真を見て、お城好きの方は「おや?」と、疑問を感じたかも知れません。ではもう一度、今度はやや拡大した石垣の写真を見てみましょう。
いかがでしょうか。
石垣の裏側に詰め込まれた栗石(ぐりいし)が、近世城郭の一般的な石垣に比べてかなり小ぶりなのです。
栗石は石垣を裏から支え、また、石垣の裏の排水を良くして、石垣に余分な水圧がかかるのを防ぐという役割があります。
近世城郭でよく目にする石垣では、通常は小さいもので握り拳くらい、大きいものは人の頭くらいの大きさの栗石を混在させて使っています。
それに対し聚楽第のこの石垣は、手の平に軽々と乗せられるような小ぶりな河原石をぎっしりと裏側に詰め込んでいるのが特徴的です。
なぜこうした構造になっているのでしょうか。その理由をうかがえる史料があります。
天正14年(1586)と推定されている三月十三日付の「前田玄以黒印状」です。
この書状で前田玄以は、下鴨神社に対し、
「地元の人足を使って、鴨川の河原の栗石を三十荷、今日明日中に聚楽に届けられよ」
と命じています。 (※前田玄以は、秀吉政権下で京都所司代を務めた武将)
「今日明日中に届けられよ」という文言から、突貫工事の様子が見て取れます。加えて突貫工事ゆえの資材不足・人員不足も一時的に発生していたのかも知れません。
こうした背景によって、下鴨神社に命じ、地元の人足まで徴用し、近場の鴨川から小ぶりな河原石までも採集させたとも考えられます。
今回発見された石垣は、聚楽第の築城当時の模様を物語る生き証人と言っても良いのではないでしょうか。
いかがでしょうか。
石垣の裏側に詰め込まれた栗石(ぐりいし)が、近世城郭の一般的な石垣に比べてかなり小ぶりなのです。
栗石は石垣を裏から支え、また、石垣の裏の排水を良くして、石垣に余分な水圧がかかるのを防ぐという役割があります。
近世城郭でよく目にする石垣では、通常は小さいもので握り拳くらい、大きいものは人の頭くらいの大きさの栗石を混在させて使っています。
それに対し聚楽第のこの石垣は、手の平に軽々と乗せられるような小ぶりな河原石をぎっしりと裏側に詰め込んでいるのが特徴的です。
なぜこうした構造になっているのでしょうか。その理由をうかがえる史料があります。
天正14年(1586)と推定されている三月十三日付の「前田玄以黒印状」です。
この書状で前田玄以は、下鴨神社に対し、
「地元の人足を使って、鴨川の河原の栗石を三十荷、今日明日中に聚楽に届けられよ」
と命じています。 (※前田玄以は、秀吉政権下で京都所司代を務めた武将)
「今日明日中に届けられよ」という文言から、突貫工事の様子が見て取れます。加えて突貫工事ゆえの資材不足・人員不足も一時的に発生していたのかも知れません。
こうした背景によって、下鴨神社に命じ、地元の人足まで徴用し、近場の鴨川から小ぶりな河原石までも採集させたとも考えられます。
今回発見された石垣は、聚楽第の築城当時の模様を物語る生き証人と言っても良いのではないでしょうか。