昨日より2℃ほど低く最高気温は9℃!雲も広がり風がひんやり~と・・・
陽射しがほしい昼下がりです、、、
それでは、昨日のつづきを・・・洲本城跡・本丸へ上がります!
「南隅櫓跡」を右へ・・・
洲本城(上の城)は、大永6年(1526)に淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏によって築かれたと伝わります。その後、天正13年(1585)に入城した脇坂安治によって、今に残る総石垣の城に改修されました。脇坂氏が伊予大洲に移った慶長14年(1609)、事実上の廃城となりますが、その威容は、今なお保ち続けられています。
壮大な総石垣、大石段、全国で数例しかない登り石垣などがあります。その他、天守台には1928年に鉄筋コンクリートで建設された日本最古となる模擬天守閣があります。
洲本市街のみならず大阪湾を一望できる、まさに南海の要塞と呼ぶに相応しい堅城です。
洲本城(下の城)は、当初の築城は桃山時代ですが、現在見られる石垣や堀が造られたのは、蜂須賀氏が淡路支配の拠点を由良から洲本に移した寛永年間(1630年代)以降と思われます。(洲本市HPより)
「東の丸」から本丸を
右側は
石垣修復工事中!
上がって!振り返り
更に上がって・・・
「武者走台」
兵庫県淡路島の南東、三熊山頂上にある洲本城。
大永6年(1526)、三好氏の重臣である安宅治興が大阪湾を望む標高124mの三熊山に築城したのが始まりとされる。天正9年(1581)に秀吉の淡路侵攻があり、仙石秀久が城主となる。その後、賤ヶ岳の七本槍の一人、脇坂安治が入り洲本城の大改修を行った。この時、朝鮮出兵による経験から登り石垣も構築され、現在見られる総石垣造りの遺構の姿となった。城の規模は東西約800m、本丸、東の丸、南の丸、西の丸の主要な曲輪が置かれ、天守も築かれていた。
慶長14年(1609)、脇坂安治が移封となって後は、姫路城主の池田輝政が領し、三男の忠雄が洲本城に入るがこれを廃し岩屋城と由良城を修築。大坂の役により阿波藩、徳島城主の蜂須賀家の所領となり、家老の稲田氏が由良城に入り洲本城に再び本拠を移転。洲本城は、山頂の城を「上の城」、麓の城を「下の城」という。寛永19年(1642)には山城「上の城」は不便となり、麓に館が築かれ、以後「下の城」が政務の中心となり、稲田氏
が城代となり明治を迎えた。現裁判所のある場所は「下の城」(城館)があった場所でその前には、石垣と堀が残り、「上の城」とともに市の史跡に指定されている。
洲本城には、西と東に二本の登り石垣がある(写真は東登り石垣。近年木々が伐採され東の丸から石垣まで降りることができる)
天守台跡には鉄筋コンクリート造の天守が建つが、戦前に再建されたものだ。復興天守では第一号が大阪城、現存している模擬天守では昭和3年(1928)に建てられた洲本城が第1号となる。平成23年3月(2011)、老朽化のため、補修工事がされたがこれを機に内部は立入禁止となり、現在に至る。
参考文献:『日本城郭大系12』(新人物往来社)、『探訪ブックス城5近畿の城』(小学館)
(「御城めぐり文献FAN」よりお借りしました)
国の史跡に指定された全国的にも貴重な石垣
東西800×南北600メートルに及ぶ広大な城の敷地には、保存状態の良い石垣がたくさん残っており、国の史跡に指定されています。
こちらは天守台の石垣。大きなお城ではありませんので、石垣も大きくはありませんが、緻密に整えられ、上方へ真っ直ぐ伸びた石垣は見事です。この城石垣の積み方は、穴太積(あのうづみ)と言われ、安土桃山時代の技法で積まれているそうです。
「芝右衛門大明神」
右から上がります~
「天守台」へ
「紀淡海峡」
「洲本市街地」を一望!
天守閣へ・・・
上がることはできません。
天守閣から下の木の祠に!
過ぎ去った年月を感じます
本丸大石段のこの先には行かずに・・・
東の丸・武者溜へ・・・
「八王子神社」はここから手を合わせて
以前は(30代~40代の頃)よく宿泊した洲本温泉!城跡があるのは知っていましたが、訪れることもなく
想像以上に広くて・・・そんなに高くはないけど歴史を感じる石垣に見とれて、
大阪湾に紀淡海峡を眺める絶景に感嘆古を感じる「洲本城跡」でした~