遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う

「遊行七恵の日々是遊行」の姉妹編です。
こちらもよろしくお願いします。
ツイッターのまとめもこちらに集めます。

「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展を見る

2021-06-30 16:50:48 | 展覧会
実は前衛的な作品と言うものがよくわからない。基本的に「わかる」作品が好きだという性質がある。
わからないものをわかろうとしたいのだが、わかることに意義がないものもこの世には存在する。
ではこの戦前・戦時下の前衛作家の作品は「わからなくてもいい」と言ったか。言ってはいないのである。
ただし「わかれよ」とも言われていない。
自分のわかる範囲でしか感想は挙げられない。
それはわたしなりの作品・作家への誠意の表れだと思っている。
なので作家が意図したところから離れた感想であっても、あくまでもわたしの誠意の表れだと言える。



東京の板橋区立美術館で開催された展覧会の巡回である。
東京でのチラシ表はこのように作家名がずらりと記され、その合間合間に展覧会のタイトルが落とし込まれている。まるで数珠玉のようである。
個人的には京都文化博物館のチラシの方が「綺麗なので好き」ではあるが、情報量は確かに板橋の方が多く、合理的ではある。


5つの章分けがされているが、京都での展示の始まりは松本竣介の愛らしい顔立ちの人物たちを描いた作品である。
これは入りやすいと思う。特にわたしのような客にはよろしい。

かつて松本竣介の回顧展が神奈川の葉山館であった。
その時かの地まで向かい、松本竣介の生涯に産みだされた作品群を目の当たりにした。
当時の感想はこちら。
生誕百年 松本竣介
もう9年前だが鮮やかなイメージは損なわれていない。
今回もここにある作品をその場で見ていた。
嬉しい心持で絵に対峙する。

松本竣介 顔(自画像) 1940(昭和15)年 油彩・板 個人  やはり可愛いなあ。
フルポンさんのお顔である。28歳の美少年。

松本竣介 りんご 1944(昭和19)年 油彩・板 株式会社 小野画廊  いつ見ても赤々としたりんごが愛しい。そして改めてこの時代に描かれたことを考えた。
戦時中のもののない時代に赤々としたりんごとそれを手にする子供の頬。


松本竣介 三人 1942(昭和17)年頃 鉛筆・紙 個人  子供たちの顔が3つ。見切れているものもある。コクトー、そしていわさきちひろにも通じるような描線。
どこかあたたかい。

松本竣介 顔 1942-43(昭和17-18)年頃 鉛筆・コンテ・紙 個人  こちらも愛らしい。少年だろうか。画家本人が愛らしい美少年だったからか、どの子供の顔も愛らしく、夢見るような優しい、ふわふわした良さがある。

松本竣介 婦人像 1943(昭和18)年頃 木炭・紙 個人  しっかりした肉体の背中である。



・西洋古典絵画への関心
福沢一郎 二重像 1937(昭和12)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  二人の女性を描いた縦長の作品だが、どちらも嫌な表情を浮かべている。時代が時代だから何かあるのかと思い、タイトルについても色々と考えたが、解説を読むと新約聖書の「アナニヤの死」の話からのイメージらしい。どうも調べてもどれを指して言うのかがわからない。
こういうことがあるから好悪・宗旨を構わずなんでも知っておかねばならなぬのだ。

小川原脩 ヴィナス 1939(昭和14)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  ワンピースを着た仏顔な女。ううむ…

吉井忠 1505年フィレンツエ・マルテリ街Leonardの画室にて 1942(昭和17)年 インク・墨・紙 個人  要するにダヴィンチが画室でモナリザを描いている様子を描いた。こういう二重構造は面白い。

吉井忠 薄田つま子 1941(昭和16)年 インク・紙 個人  2点もあるが、これは当時の女優さんらしい。調べたら薄田研二の娘か。ああなるほど。薄田が(多妻者の)倉田百三の妻の一人と結婚して生まれた娘なのか。Wikiになにやら書いてある。


・新人画会とそれぞれのリアリズム
前述の松本竣介の作品群はこちらに属していた。
この新人画会についてはこちらに詳しい

麻生三郎 とり 1940(昭和15)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  チラシに絵があるがわたしはニガテ。

麻生三郎 女 1944(昭和19)年 油彩・板 板橋区立美術館  きりりとした女性。

麻生三郎 一子像 1944(昭和19)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  寄り目の赤子。以前にも見ているが印象的な顔立ちである。

麻生三郎は後年の本の装丁などが好きだ。油彩画とは全くイメージが違うので、同じ作家の絵だと長く知らないままだった。

丁度今度靉光の特集が新・日美で放映されるようだが、わたしはどうも靉光の作品は本当にニガテで…今こうして前に立ってても何が何だかわからないままなのである。

寺田政明 芽 1938(昭和13)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  重いぞ…

寺田政明 かぼちゃと山 1943(昭和18)年頃 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  暗い…
どちらの絵も怪獣の造形のための絵にもみえる。そう思えばなんだか親しみを。
ここには出ていないが「発芽A」「発芽B」も怪獣にしか見えなかったなあ。
俳優・寺田農さんの父上がこの人だと知ったのは「池袋モンパルナス」展からだったと思う。

池袋モンパルナス 歯ぎしりのユートピア
池袋モンパルナス展 ようこそ、アトリエ村へ!



・古代芸術への憧憬

難波田龍起が現物を見ることなく写真集などから古代ギリシャ像を学習していたことを今回の展示で初めて知った。
そういえばこの時代にギリシャに行くような人はまれだし、ルーブルや大英博物館に彼が行ったとも聞かないし…
とはいえその学習が結実してよい作品が生まれているのだから、やはり画家の目と言うものは怖い。

難波田龍起 ヴィナスと少年 1936(昭和11)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  好きな作品で右側のミロのヴィナス像、左手のしりもちをついたような少年、奥のパルテノン神殿らしきもの、配置がまた良い。


難波田龍起 ニンフの踊り 1936(昭和11)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  久しぶりの再会。何故か唐風にもみえる美女。更にちょっとデモーニッシュな味わいもある。

難波田龍起 春 1939(昭和14)年 油彩・板 板橋区立美術館  ボッティチェリの絵のカットアップ。勉強の成果と見做す方がいいのか。

実際勉強の成果がこちらの4点。
難波田龍起 ヒュプノス 1935(昭和10)年 鉛筆・水彩・紙 板橋区立美術館
難波田龍起 ミロのヴィナス 鉛筆・紙 板橋区立美術館
難波田龍起 マウソロス霊廟のフリーズ 鉛筆・水彩・紙 板橋区立美術館
難波田龍起 テセウス 鉛筆・コンテ・紙 板橋区立美術館
ギリシャ彫刻の本からのデッサン。テセウスは首のみ。

そして日本の仏像、白鳳時代の仏像をも絵にしている。
難波田龍起 釈迦三尊 1943(昭和18)年 油彩・板 個人
難波田龍起 薬師如来 1943(昭和18)年 油彩・板 個人
どちらも赤茶色で描かれていて、なんとはなしにニンマリしている。

難波田龍起 阿修羅像 鉛筆・コンテ・紙 個人  困り顔をクローズアップ。珍しいな。
難波田龍起 法隆寺夢殿救世観音像 コンテ・紙 個人
難波田龍起 法華寺十一面観音 鉛筆・コンテ・紙 個人
リアルな写生。

難波田龍起 健駄羅佛像 鉛筆・コンテ・紙 板橋区立美術館  ガンダーラ仏風な。

それから難波田龍起のハニワがずらり。人も馬も色々。こちらも画集からだそう。戦前はなかなかハニワを見ることが出来なかったのだろうか。


小野里利信(オノサト・トシノブ) はにわの人 1939(昭和14)年 油彩・板 東京都現代美術館  こちらは謎としか…

長谷川三郎 都制 1937(昭和12)年 毛糸・綿・小豆・ガラス・厚紙 学校法人甲南学園 長谷川三郎記念ギャラリー  コラージュはそれ自体がわかるもの・わからないものに分かれるが、詩がつくと何故か素敵に思えるのだよなあ。
これは一体何なんだろう。
…待てよ、近くで見るからわからんのか。離れてみてみよう。
なんか手描きの観光マップに見えてきたなあ…

・京都の「伝統」と「前衛」

集団制作「浦島物語」お題に合わせて一枚絵を各自が描いてゆく。
今、「各自が」と打ったら「描く自我」と出た。ある意味正しいかもしれない。
面白いのは14点のうち月を描く人がけっこういることか。
1937(昭和12)年 油彩・キャンバス というくくり。いずれも京都市美術館蔵。

1 吉加江清(京司) 浦島亀を救ふ(憧憬)  手なのか。
2 小石原勉 亀の迎へ(誘惑) 右向きの三日月と卵?
3 北脇昇 海上へ(好奇) 左向きの三日月、タツノオトシゴ?
4 原田潤 海底を(愛慕) ぐるぐるの貝@@
5 安田謙 龍宮見ゆ(歓喜) 須田国太郎風な重厚な色彩
6 今井憲一 龍宮に着く(讃嘆)  宝貝と蝦蛄?骨魚も
7 松崎政雄(八笑亭) 乙姫に会ふ(恋着) 三段のシマシマの波。貝の中に乙姫。赤子もいるが、他の作品と違いかなりおどろおどろしいところがある。
8 井上(村上)稔 龍宮の生活:A(親和) シュールすぎてわからない。
9 田村一二 龍宮の生活:B(惑溺) これもシュールすぎるが「惑溺」とは本来そうかも。
10 三水公平 龍宮の生活:C(虚無) シュールすぎてこちらが虚無になる。
11 小栗美二 龍宮の生活:D(厭飽) 少し遠くに赤い建物?…竜宮かな、と手前に貝
12 小牧源太郎 郷愁を訴ふ(倦怠) 左にいるタツノオトシゴ。右には謎のもの。オーロラの下かな。海底のオーロラ
13 杉山昌史 玉手筥に誓ふ(執着) 陸へ。足がある何か。
14 島津俊一(冬樹) 玉手筥は遂に開かれた(批判的現実)  白い。そこになにかくるくるしたものが続き、太陽がある浜辺。

これ、抒情的な作風の人で作画したら案外退屈かもしれないな…
わからないものはわからなくてもいいかもしれない。

ここから北脇昇の作品が並ぶのだが、かれは「クォ・バディス」は知っているもののこれだけたくさん見ることは初めてかもしれない。
そして意外なくらい面白く思えた。

北脇昇 秋の驚異 1937(昭和12)年頃 油彩・キャンバス 京都国立近代美術館  上に葉っぱをスタンプ。

北脇昇 変生像(観相学シリーズ) 1938(昭和13)年 油彩・キャンバス 京都市美術館  人形の少女の顔が…が…

北脇昇 非相称の相称構造(窓) 1939(昭和14)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  なんかどっかで見たようなと思ったら、茶室などにある窓の感じなのだった。

そしてここでびっくりしたのは、北脇昇はあの河原町の廣誠院に生涯住まっていたのだった。知らなかった!そうだったのか。それでかあそこ所蔵の染付の動物の可愛いのとか大好きなんだが。随分前に一度公開されたのを見学した。実に良い和風別荘建築だった。
当時撮影したのをこの展覧会をみてからまとめた。
廣誠院の思い出について

北脇昇 廣誠院庭園 鉛筆・パステル・紙 個人  彼が住んでたころから半世紀以上後の訪問だったが、どことなく面影を感じもする。

北脇昇 京都 植物園 1932(昭和7)年 油彩・キャンバス 廣誠院  温室を見る位置の図

北脇昇 植物園 水彩・パステル・紙 廣誠院  ごくシンプルに。だが、こうした絵の方がわたしは親しく感じるのだ。

北脇昇 竜安寺石庭測図  *前期 1939(昭和14)年頃 墨・インク・鉛筆・色鉛筆・紙 東京国立近代美術館  そう、測定したのを記した地図でもある。面白い。

北脇昇 竜安寺石庭ベクトル構造 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  線で石の配置をつなぐ。とても面白い。
龍安寺の石庭といえば手塚治虫「三つ目がとおる」ではアトランティスかムー大陸かの海図だという設定だったな。あれは面白かった。
わたしもそれがアタマにあるので、色々妄想にふけった。

北脇昇 文化類型学図式 1940(昭和15)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  ギリシャ彫刻@能面(小面)@中国の仏頭@…

伊東忠太の描いた比較図を思い出す。やりたくなるのかもしれない。

北脇昇 周易解理図(泰否) 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 京都市美術館  わからないままにどんどん面白くなってきた。

今回の展覧会で、これまでになく北脇昇作品に面白さを感じるようになった。
彼の望むものとは違うかもしれないが。

次に小牧源太郎の仏画を見る。これも実際に見たのでなく画集からだそうで、弛まぬ研究の成果としての絵画なのだった。
資料がたいへんこまかく、参考資料展示のこれらの一端をみて、うなるばかり。
小牧源太郎 絵画諸論 1939(昭和14)年~ 伊丹市立美術館
小牧源太郎 史迹・美術資料ノート 第1~17部 1941-1946(昭和16-21)年 伊丹市立美術館
小牧源太郎 スクラップブック 1937-1947(昭和12-22)年 伊丹市立美術館
実に凄い。しかしその研究成果の仏画が怖かった…

小牧源太郎 鳥紋図形 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 京丹後市教育委員会  怖い

小牧源太郎 壁画(十一面観音像) 1943(昭和17)年 油彩・キャンバス 京都市美術館  笠置のをモデルにしたと言うが、あのとろけた摩崖仏は確か立像。これはちょっと違うような。

小牧源太郎 仏頭 1943(昭和18)年 油彩・キャンバス ギャルリー宮脇  仏像ノートとリンクしているのだが、それにしても怖い。これは背後は守護する蛇のナーガラージャ…ムチリンダか?それにしては十あるから…孔雀にも見える。孔雀と蛇は天敵だから…
ああ、わかるものか。

小牧源太郎 弥勒石 1944(昭和19)年 油彩・キャンバス 京丹後市教育委員会  彼の妄想なのだと思うが、表現が怖い。
日本画の秦テルヲの仏画もそうだが、逆に仏が怖いのがあるように思う。

再び共同制作。「鴨川風土記序説」1942(昭和17)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館
北脇昇 鴨川風土記序説(平安京変遷図)
小牧源太郎 鴨川風土記序説(藤原時代)
吉加江清 鴨川風土記序説(足利時代)
原田潤 鴨川風土記序説(桃山時代)
小石原勉 鴨川風土記序説(徳川時代)
このうち北脇のは文化遺産オンラインなどで見ることが出来る。


今井憲一 造花と風車 1939(昭和14)年 油彩・キャンバス 京都国立近代美術館  どこに風車ふうしゃなりかざぐるまなりがあるのかがわからないが、真っ赤な地になんとなく綺麗なものがある絵。

須田国太郎 戸外の静物 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 京都府(京都文化博物館管理) 奥に家々、手前にバナナ!なんかよくわからんわ。

・「地方」の発見
これまでと全く趣の違う作品群が最後に現れた。
吉井忠 『東北記(1)馬市ー岩手ヨリ青森へ』『東北記(3)秋を行くー斉川の春』 1941-44(昭和16-19)年 鉛筆・ペン・原稿用紙 昭和のくらし博物館
リアリズムの写生。農村風景。

吉井忠 南会津山村報告記 1942(昭和17)年 鉛筆・ペン・紙 個人
吉井忠 山村の形態 1941(昭和16)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 木地師の山小屋 1942(昭和17)年 インク・紙 昭和のくらし博物館  実際この頃は里山で見かけることもあったろう。
吉井忠 杓子・箆の製作過程 1942(昭和17)年 インク・紙 昭和のくらし博物館
吉井忠 道具 1942(昭和17)年 インク・紙 昭和のくらし博物館
吉井忠 佐々木カヨ 金沢村ニテ 1942(昭和17)年11月23日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 福島信夫山 1943(昭和18)年2月14日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 ソバを蒔くうね(スキフミ) 1943(昭和18)年鉛筆・紙 個人
吉井忠 スキフミ 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 鋤踏み 1943(昭和18)年 油彩・キャンバス 個人
吉井忠 《毛馬内風景》のためのスケッチ 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 秋田曲田 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 曲田福音会堂 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人  正教会である。山下りんのイコンもあるそう。
吉井忠 青森県三戸郡階上村 桑原一郎氏宅 1943(昭和18)年10月10日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 青森県階上村 1943(昭和18)年10月11日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 花巻豊里町 宮沢政次郎氏宅 1943(昭和18)年10月12日 鉛筆・紙 個人  宮沢賢治の実家だ。今のは建て替えたもの。彼の生きた家だ。
吉井忠 豊浦町 佐藤弥助氏宅 1944(昭和19)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 斉川村 1944(昭和19)年 鉛筆・紙 昭和のくらし博物館
吉井忠 安達ヶ原 1944(昭和19)年9月5日 鉛筆・紙 個人


最後に出していた雑誌や企画した展覧会の紹介もあり、彼らが戦時下でも旺盛に表現活動をしようとし続けたことがわかる。

美術文化 1~6号 1939-1941(昭和14-16)年 美術文化協会 板橋区立美術館
第2回美術文化小品展目録 1941(昭和16)年 美術文化協会 板橋区立美術館
美術文化 第3回展集 1942(昭和17)年 美術文化協会 板橋区立美術館
美術文化 4回展集 1943(昭和18)年 美術文化協会 板橋区立美術館
第1回新人画会展(案内はがき) 1943(昭和18)年 板橋区立美術館
第2回新人画会展(案内はがき) 1943(昭和19)年 板橋区立美術館
美・批評 1931-1934(昭和6-9)年 個人
世界文化 1935-1936(昭和10-11)年 京都生活協同組合
土曜日 1936-37(昭和11-12)年 同志社大学人文科学研究所
学生評論 1937(昭和12)年 個人
京大俳句 1935-1939(昭和10-14)年 個人
同志社派 1932-1936(昭和7-11)年 個人
個人が国家にどれだけ抗えるかについて考えたい。

雑記帳 1936-37(昭和11-12)年 総合工房 個人  林武、岡本かの子、猪熊源一郎、長谷川利行など。
須田国太郎 原稿(朝日新聞社京都支局宛て) 1943(昭和18)年 個人  思えばこの頃須田は能狂言デッサンにものめりこみ、断弦会主催の能狂言を見に行っては描き続けていたのだなあ。

映像が流れていた。 
能勢克男 京都 1935. 1935(昭和10)年 発行:六花出版(DVD) 様々な京都の町の様子を捉える。大丸、高島屋、菊水もある。見ていて楽しい。
丁度この時代は村上もとか「龍 RON」でも描かれていたか。ラストに「京都は生きている」と言葉が入るのだ。
そして能勢が主催した雑誌「土曜日」の記念映像もある。
能勢克男 「土曜日」が一周年を迎へた。 1937(昭和12)年 発行:六花出版(DVD)  楽しそうに行楽地へ行く人の姿もある。
その能勢克男 スクラップブック 1933-1934(昭和8-9)年1937-1938(昭和12-13)年 同志社大学人文科学研究所 
この人は仙台に生まれ東京帝大卒業後、同志社の教授、弁護士、今でいうコープを立ち上げたりと言う人で、1938年に「土曜日」で治安維持法で挙げられてしまう。2年後に山科刑務所を出所。現代のリンゴ日報を思う。
そして戦後は松川事件の弁護団にも加わったそう。
京都のリベラルの在り方を改めて考える。

非常に興味深い展覧会だった。
今日にこの企画展が東西で開催されたことの意義についても考える機会になった。

7/25まで。


「桜姫東文章」を観て思い出すことなど

2021-06-27 16:13:30 | 映画・演劇
坂東玉三郎丈の桜姫、片岡仁左衛門丈の権助という配役の「桜姫東文章」をついにじかに見ることが出来た。
思い起こせば1982年の大みそかの夜、何の気なしに見たのが始まりだった。

当時わたしはまだ高校生ながら既に耽美的なものを愛する性質を露わにしていた。
歌舞伎を観に行くことは到底出来ない状況だったが、TV放映があれば観ることもあり、また図書館があるので資料を調べることも出来た。
その頃のわたしは玉三郎丈の美貌にときめいていたが、全てTVそれまでにまたは雑誌の上でのことだった。お芝居で観ていたものは「蒼き狼」のヒロイン役、映画「夜叉が池」のお百合さんと白雪姫の二役、それくらいだったろうか。あとは細切れである。
そして当時片岡孝夫だった仁左衛門丈は1981年のTVドラマ「鉄鎖殺人事件」の藤枝探偵役で初めて見て「なんと素敵な男性だろう」と強く打たれた。
まだ中学生だったが、その頃から好きになった俳優は今も好きなままなので、人生上の嗜好は広がっても変遷することはないらしい。
他に「わるいやつら」を見てそれにも随分ときめいた。
またわたしの読んでいた「ALLAN」という隔月刊の雑誌は「少女のための耽美派マガジン」と銘打たれており、そこでは孝夫丈も玉三郎丈もよく取り上げられていた。
孝夫丈は白塗りで顎に青黛も鮮やかな無類のいい殿御ぶりで、しかも善人より悪人役が素晴らしく魅力的に見えた。

雑誌にも特集が組まれていたが、それだけでなく「孝玉コンビ」の権助と桜姫の関係には本当にときめいた。
その前段階の若き所化・清玄と桜姫の前世である稚児・白菊丸との悲恋には案外興味がわかなかった。
その頃とっくにやおい好きな、今でいうフジョシだったというのに。
そう、桜姫と権助の悪縁としか言いようのない関係にときめいてときめいて…

TVで「桜姫」を見ることが出来たのも実に今回の上演「下の巻」からだった。
この偶然にはびっくりする。
なので四月の「上の巻」はあえて諦めた。

「桜姫」の通し公演は1993年10月の国立劇場で観ている。
亡くなった雀右衛門が桜姫、九代目幸四郎の清玄である。
雀右衛門は1967年の復活上演の時以来だそうで、その当時の写真や資料は雀右衛門の芸談や相手役の八世三津五郎の著作辺りで見ている。
この雀右衛門の桜姫も可愛かった。お姫様の頃の愛らしさ、「会いたかった、会いたかった」と権助に縋りつく様子など、今も目に残る。
残月が十世半四郎で、庵室から追われるときの様子が面白く、あの人は声もいいので、それが耳に活きている。こういう役が半四郎はうまかった。

2000年の「桜姫」の通しも国立劇場だった。この時は九代目幸四郎が前回に続いて清玄と権助、桜姫が息子の七代目染五郎。父子でこういう官能的な役柄をする、と言う二重三重の倒錯美に絡めとられ、こちらもよかった。
実は当時の幸四郎は権助より清玄がよく、清玄の方は魅力が足りなかったが。

2004年のは観ていないと思う。市川段治郎丈が権助と清玄を演じたが、その抱負を語るのを雑誌で見ていたが、チケットが取れなかったか何かで諦めたはずだ。

またこの頃から芝居と映画を見ることが極度に難しくなった。
展覧会に行くのが忙しく、建築を探訪するのに熱心になり、長いこと黙って座っているということが出来なくなったのだ。

そして去年三月の明治座で中村屋兄弟の桜姫、これは是非ともと久しぶりに早々とチケットを取ったらたいへん良い席で、明治座は行ったことがないが味噌漬けの魚が美味しいと聞いたのでお昼の予約を取ったり、なんだかんだと楽しく支度していたのに、怨むべきコロナのせいで上演中止の憂き目をみた。
あまりに惜しく、今もだいじにチケットやチラシを手元に置いている。

40年近い雌伏の果て、ついに2021年に孝玉、いや、今は仁左玉の桜姫に出会えることになったのは、わたしの人生における快挙の一つだと思っている。
洛外に住まう友人を通じてチケットを頼み、6/13に二階の一等席を取ってもらった。
なんでもチケットは即日完売だったそうだ。
ああ、本当に嬉しい、ありがとう。

物語についてはこちらのサイトが詳しいので是非ご一読を。

あの上演は82年だったようだがその年の暮れの放送がまた新たなファンを獲得し、83年は大いに盛り上がった。実際その年に山本鈴美香さんが「愛の黄金率」で「桜姫」を作中で紹介したのがリアルな時代の反応の一つでもあった。
後年、木原敏江さんが「花の名の姫君」で通しをコミック化されているが、ここではラストに姫の心模様が描かれている。
姫は「お家の為に身を落としてまで」と称賛され、生き残った弟松若丸からも「自慢の姉上」と誇られ、あちこちの名家から降るような縁談があり、お上からもお褒めの言葉がある。
しかしそんな外とは別に内心で姫は権助を想い、死んだ赤子の後生を秘かに祈り、清玄にも気の毒なと思うのだが、「どうで何を言おうとわらわは」と、明るく開ける未来に黙って乗ってゆくのである。

南北の芝居は孝夫時代から仁左衛門丈は得意とし、四谷怪談の伊右衛門、累の与右衛門、合法衢の立場の太平次と二役で大学之助、他にも三五大切、亀山鉾と見事にヒットしている。
役を離れればすこぶる人柄の良い方だと評判も高いが、芝居では本当に悪人がよく似合う。それもこの大南北の描くドライで色と欲にまみれ、女も道具に玩具にし、最後は怨み怨まれても「首が飛んでも動いて見せるわ」と嘯く色悪が最高に素敵だ。
わたしなどはもうずうっとその色悪ぶりにときめいてクラクラしたままだ。

悪を描くと言っても仁左衛門丈は南北役者であり、黙阿弥の世界とはまた少し色合いが違う。ニンが合わなくても芸の力でやってしまうだろうが、やっぱり観客は南北の造形した、反省しない強悪で最後の最後まで運命を足蹴にするような、しかし途轍もなく男ぶりのいい仁左衛門丈が見たいのである。
黙阿弥の悪人は村井長庵以外はみんな改心したり、運命を受け入れたりするが、南北の悪人は最後まで抵抗する。

前半での見せ場の一つに新清水寺の一室で姫と権助の再会がある。
今回わたしは上の巻を観ていないので実際とは違うかもしれないが、自分の記憶に残ることを記す。
姫と二人きりになった権助は姫からあの夜のことを話しかけられ、盗みに入った吉田家でついでに深窓の姫君を犯したことを思い出す。
姫は別に怒っても怨みにも思っておらず、怖かったけれど忘れられなくなったことを告白する。
そして男のことを忘れぬようにも腕に小さく釣鐘の刺青までしてしまうのである。
それをそっと見せられて権助もびっくりする。
更に姫はあのとき妊娠し、身二つになったことを言う。
「なに、ぽてれんになった」「あい」
今回ここでこのセリフがそのまま使われたかどうかは知らないが、80年代ではまだこの言葉は通じた。
権助は呆れるが、姫が満更でもない様子をみせるので辺りを見回し「久しぶりだの」と色事に誘うのである。
姫は決して抵抗しないどころか、これまた嬉しそうに受け入れる。

南北の芝居では徹底的に赤子は邪魔者である。「愛のお荷物」どころの騒ぎではない。
ここで既に権助からそんなものはいらないという意思表示をされている。
四谷怪談でも、伊右衛門は当初お岩を舅に取り戻されたのを怨んで舅を殺したほどだが、いざ同棲して子供が出来ると、途端に邪険になる。
「常から邪険な伊右衛門殿」と言うお岩だが、彼女が子を産んだのが悪いのだ、とばかりの伊右衛門なのである。

文化文政という時代の悪どく際どい面白さを思う。
そして仁左衛門丈は南北の芝居のうち「霊験亀山鉾」でこう抱負を語る。
『悪人が活躍するお芝居ですが、色気もありますし、そして冷酷さも混じっていて、華やかさと暗さ、陰と陽がうまく入り混じって構成されています。本当に残酷なお話しではありますが、お客様には残酷と感じさせずに、『ああ、綺麗だな、楽しいな』と思っていただけるような雰囲気が出せるように、そして退廃的な美といいますか、そういう昔の錦絵を見ているような色彩感覚、そして芝居の色、そうしたところを楽しんでいただければと思っています』
これは全ての南北劇に共通する言葉だと思う。
欲と色の二本立て。

さて上の巻で寺の中でみだらなことをした姫は罰せられることになり、前世の因果を示す香箱(清玄の名入り)が決め手となって、気の毒に無実の清玄が寺を追われることになる。
姫にしても実はそうではないと言えない事情がある。
あくまでも権助は下人なのである。
下人といちゃついていることが知れるのは恥ずかしいのである。それならまだ高僧と間違いを起こした、の方が姫の身分に傷はつかない。
ただし姫は罰として日本橋で晒し者になり、お家の没落もあって一旦はに落とされる。
だがこれはいつか回復可能な状況だということを踏まえていなければならない。

姫は放浪の身の上となり、前世の罪の償いのためにあえて罪をかぶった清玄もまた流浪のヒトとなる。
破戒坊主には破れ唐傘一本が渡される。更にその手には姫の赤子までいる。
隅田川上流の三囲神社の石段での一瞬の邂逅。
この場を篠山紀信が撮った写真もよかったなあ。

そして下の巻はこの後から始まるのだ。
上の巻での状況を軽く説明し、初見のお見物にも話が通りやすくする。結構なことである。

身分を剝奪され放浪の身となった姫が山女衒と共に、清玄の弟子・残月と姫の局・長浦が同棲する庵へ現れる。その直前にこれまた不義密通がばれて追放された中年カップルは市井の人となっているわけだが、この庵にはもう一人、今や病を養う失意の清玄がいる。
清玄は白菊丸の生まれ変わりだということを姫が拒否し、自分を拒んだことから深い失望に苛まれ、今では寝込む日々を過ごす。心の慰めにと姫が逃げる際に落としていった香箱を眺めるばかり。
ところがそれを金目のものと勘違いされ、不埒な弟子の野合夫婦に毒殺される憂き目に遭う。
青蜥蜴の毒である。
これが本当にどこまで毒性が強いか知らないのだが、芝居ではとりあえず強い毒と言う決まりである。
実は今月の番付に毒について記したコラムがあり、面白く読んだ。
とりあえずこの青蜥蜴の毒では死なず、ただ額に不気味な痣が浮かび上がる。
夫婦はもうめちゃくちゃ。
殺し場でのドタバタは南北のお得意。殺しが巧い奴は不気味だが、へたくそなのはどこか笑えるように作られている。
凄惨な場でありながら笑えるのだ。

南北の芝居は殺し場と濡れ場が特にいい。
濡れ場などは実際には手を取るとか「久しぶりだの」で屏風なり襖なりで隠すわけだが、ああその奥で・裏で色々とあーんなこととかこーんなことをやっておるのですね、と想像させるわけだ。
芝居のいいところはこれだ。
映画やTVドラマでは役者さんががんばって色々なさっておいでだが、それより舞台のこういうのを見る方がよっぽど官能性が高いと思う。

さてようやっと扼殺した挙句金目のものと思ったものがただの香箱でがっかりした夫婦は、墓掘りを折助の権助に依頼する。この折助というものは武家の下男のうちの蔑称の一つだが、江戸時代の言葉とはいえ、近代まで活きていた言葉でもある。
狂言「武悪」などは成立したのがもう少し前なのでこの呼び方はないが、主人からすれば「武悪」は「折助根性」のついた悪い奴に過ぎない。
その権助はカネになれば何でもする男で、言われるままに家のすぐ裏を掘り始める。誰を埋めるかは別に問題ではないのである。

ところがそこへ山女衒がいいタマを連れてきたうえ、小耳にはさんだ話が儲けになりそうだと見極める。陰に回って話を盗み聞き。
連れてこられたのは桜姫で、お姫様の装束も吹輪もなにもなく、みすぼらしいなりをしているが、やはりたいへんきらきらと美しい。とんでもない目に遭いながらも特に気に病む様子もない桜姫だが、凄みをきかせて登場する権助を見て歓喜し、「会いたかった、会いたかった」とすがりつく。
残月らに腕の刺青の釣鐘を見せつける二人。
結局この庵を乗っ取る権助だが、姫はただただ権助に会いたかっただけなので彼の言うことにも唯々諾々。
権助は今は貧乏人の折助なのでお姫様とは暮らせないという。
品を落とせと言われてもピンとこない姫は「学ぶこと」を連歌などか、と口にする。
この「連歌などかや」の言い方は雀右衛門丈の桜姫が非常に良かった。
それを思い出しながら様子を眺めた。

やがてこの庵に一人取り残される桜姫。権助は清玄の死体を誰の者とは知らぬながらも見出して、これはまずいと屏風の影にしまって、姫に近づいちゃだめだよと優しく言い置く。
そのまま家を出たのは姫を売る算段をつけに行ったからだが、この辺りの呼吸がやっぱり南北の芝居だと嬉しくなる。

薄暗くなってきた。どこかで雷の音がする。昔のことだから照明と言えば行灯くらいか。
そこへ落雷。ひええと姫がうずくまるのとは対照的に、この落雷のショックでまさかの清玄蘇生。
二役なので仁左衛門丈が清玄になって、さっきとは逆に桜姫から嫌がられる嫌がられる。必死で縋りついても桜姫からは強く拒絶される。
元祖ストーカーと言われるだけあって、自分の体調のわるいのもあって、ついに無理心中を迫る。だが結局は清玄一人が包丁で死ぬことになる。
ここでも刃物を持ち出したものが死ぬという状況がある。
四谷怪談でも相好の変わったお岩を殺す名目の為に、按摩の宅悦に不倫を仕掛けろと命ずる伊右衛門だが、お岩さんは貞女であり武家の婦人であることから非常に憤る。
ところがこれが全て伊右衛門と伊藤家の描いた絵だと知り、更に持った刃物が喉に。
悶死する者たちは必ず亡霊となる。
憤りを懐いたお岩さんは怨霊となり、めちょめちょした清玄は影の薄い亡霊になる。

その清玄が死んでパニックが続いている中へ帰宅した権助の顔には、さっきまでなかった痣がべったり…
因果も因果。とうとう姫はやけくそになる。「毒喰らわば皿までも」と叫ぶ。
それを聞いて権助は笑いながら「去りゃあしねえよ」と洒落。
南北はダジャレが好きだったようで、他の芝居にもその当時の観客にしか通じない洒落が入っていて、それがまたそのまま上演されるので、多少めんどくさいところがある。
「藤八、五文、奇妙」などがそれ。文化五年に流行った薬の宣伝言葉である。
意味が分からないまま使うのは演者にも観客にもどうかと思うが、仕方がない。
なおこの由来やどのような声掛けだったかを調べたのは八世三津五郎。
この人は本当に博学でものを調べることに熱心な人だった。
亡くなられたとき、子供心にびっくりした。
ついでに言うと、「桜姫」の復活上演のとき、前述通りこの人が権助を演じた。そして当時桜姫を演じた雀右衛門が思い出話として色模様の時「兄さんの逞しい足が絡んできました」と言っていた。
八世三津五郎、孫の十世三津五郎、池上季実子みなさん脹脛がとても逞しいのはよく知られている。

話を元に戻して小塚っ原といえば処刑場だった。そこの女郎と言うとこれはもう本当に格が低いところで、なるほどお姫様を品悪くするにはぴったりの場所である。
どうでもいいことだが大阪人のわたしがお江戸の小塚っ原のことを知ったのは石森章太郎「さんだらぼっち」から。吉原でツケをした客の借金を回収する「始末屋稼業」を描いた作品で、その一編に幇間・与の字が本気で惚れた遊女の為に指を買いに小塚っ原に出向く話があった。小学生の時に連載で読み、中学生で単行本を買い、今もよく再読している。

そういえば南北は高級な見世の話は書かず、大抵は地獄宿か。
露悪的なのかその方が親しいのかは知らない。

ここで休憩。
久しぶりなので喜んで廊下トンビをした。古い言葉だなあ、「廊下トンビ」というのも。
飾られている名画をぱちぱち。山種美術館での展示も懐かしい。
思えば90年代なのよ、歌舞伎を観に行くのにのめりこんでたのは。

今では大家さんとして実入りもちょっと良くなった権助。きちんと羽織なども身に着けている。なんだかんだと欲に目が向いて赤ん坊を預かったり(実は桜姫との間の実子)、儲け話を探したりと言うところへ、小塚っ原から桜姫が判人と共に駕籠で帰ってくる。
腕の彫り物の小さな釣鐘が可愛いので「風鈴お姫」として売り出されたのだが、必ず枕元に清玄の幽霊が出てきて、客が震え上がり、いくつもの見世を変わったがどうにもならないので返されたのである。金がかかっているので代わりに女郎屋へ連れてゆかれるのがその場にいた葛飾お十という女だが、これは実は元の忠臣の女房。桜姫はそんなことは知らず、お姫言葉と女郎言葉をチャンポンに、権助に文句を言う。
子供を見て一言「みずからなぞは子供など嫌いじゃぞえ」。
まあまあ、と権助もニヤニヤ笑いながら戻されてきた桜姫をなんとかいなす。
この辺りの玉三郎丈の声が姫君の時とトーンが変わっているのが面白い。姫君はあくまでも高い声で、市井の女は低いのである。

折助だった頃の権助の魅力が失われ、今はただの欲ボケになった男を目の当たりにし、「会いたかった、会いたかった」は無くなった桜姫である。
とはいえ別に嫌いになったわけでも飽きたわけでもないのはその少し後の様子でわかる。
権助は桜姫の機嫌を取るために布団をしいて二人で並んでごろごろする。

実は1983年当時、この辺りのことがけっこう気になった。
「演劇界」か新聞か、評論家の誰かが「もう飽きた二人」というような意味合いのことを記されていたのだ。
当時まだそういうことを思いたくなかったわたしとしては、「ええー」だった。
やがて他の演者のそのシーンを見ると、案外さらっとされていた。しかしずっと気になっていた。
このシーンは今回も新聞にも写真が挙げられていたが、「もう飽きた二人」とまでは行ってない気がする。
実際1985年に刊行された篠山紀信の玉三郎丈の写真集でもこのシーンがあるが、二人とも口ではああは言うもののまだまだ飽きてはいない感じがあった。
「会いたかった、会いたかった」は無くなってもまだいちゃついているのである。
とはいうものの、色と欲にまみれた権助はここで桜姫の機嫌を取るために相手をしているのかもしれない。そこらは実際にはわたしにはわからない。

そして何やら町内の会合に出ないといけない予定が権助が遅刻しているので迎えに来た人がある。
「八百善のお膳ですよ」
これで喜んでいそいそと出かけるのだが、この辺りのせりふがちょっと変わった気がする。
とりあえず八百善の仕出しが出るとは豪勢な話で、喜んで権助は羽織を着て出てゆく。
残された桜姫は久しぶりに一人寝の自由を味わう。

独りなった途端ヒュードロドロである。
また出やがった、と「風鈴お姫」は煙管を使いながらいいかげんにしやがれとあしらう。
折角人気が出たのにお前が出るおかげで、というのである。
姫は別に女郎として働くことを苦にもしていないのである。
最初は哀れにも思い、と同情もしていたが毎晩のことなのでとうとう鞍替え鞍替え…
姫のそのイヤミに対し、亡霊は何も言わず、しかし何かを示す。
音声のない言葉なのである。
それで姫はそこに転がる哀れな赤子が自分の生んだ子だと知り、更にまさかの権助が清玄の弟だとも知る。
亡霊はそれで消える。

そこへしたたかに酔っぱらった権助が帰宅。
「酔った酔った素敵に酔った、豪的に飲んだわい」などと言いながら口が軽くなり、ついつい秘密をぺらぺら…
つまり権助はかつて信夫の惣太という盗賊であり更には元は武士だったことも口にし、吉田家のお宝「都鳥」の一巻を盗み、「追いかけてきた梅若丸と言うガキも」と斬り殺した手付きを見せる。
さすがにそこではっとなって「嘘だ嘘だみーんな嘘だ」と取り繕うも、聞いてしまったのよねえ…
都鳥の一巻もそこに出てきたし、事件の告白もあるし、ついに桜姫は思い切って権助に切りかかる。
最初の一撃が致命傷になるのだが、権助もまさか桜姫にこんな襲われるとは思っていなかったとはいえ元は屈強な男なので手向かいして狭い座敷中を…
ついに絶命する権助。そしてこの騒動の様子を垣間見た近所の人の通報もあり、更に赤子も死んで立ち往生する桜姫。

大詰、浅草雷門の場  バタバタと敵味方入り乱れてのちに、ついに桜姫主従と吉田家の跡取りの弟松若丸も大友頼国により身分回復・お家再興が成ることを知らされる。
この時の大友の役は仁左衛門丈。最後はこうしてカッコいい姿で再登場するのだ。
姫ももう元のように吹輪をつけた赤姫のなりで美しくその場にいる。

ああ…満足したわ。桜姫の業の深さとそれを軽々と乗り越えて幸福と称賛が約束された未来へ向かう姿のラスト。
南北の芝居は本当に面白い。
仁左衛門丈、玉三郎丈のこの芝居を観ることが出来て本当によかった…
これから先の人生で何度でも脳内再生し、思い出しては楽しめるのだ。
ありがとう…、本当にありがとう。

また時勢がよくなれば芝居を愉しみたいと思う。

田渕由美子展に行く

2021-06-22 12:45:17 | 展覧会
弥生美術館で70年代後半から80年代初頭にかけて大人気の「おとめちっく」の立役者の一人・田渕由美子展が開催されている。
日本の少女雑誌の歴史の中で「なかよし」「りぼん」は派閥が分かれていて、たまにどちらも好きと言う少女もいるが(わたしとかな)、大抵はどちらかに寄る。
その「りぼん」で短編マンガ、イラスト、付録に大活躍した田渕由美子の原画が展示されているわけだが、あの当時から田渕由美子ファンのわたしは行ける日を数えて待ち、とうとう朝からおとめちっくな世界に浸ることが出来た。


彼女は長期連載を持たない人ではあるが、読者の心に深い印象を残す作家である。
代表作と呼ばれる「フランス窓便り」の昔から、たいへん丁寧で繊細な絵柄と、こだわりのある植物描写、素敵な小物が心に活きている。

彼女は兵庫県に生まれ、豊中市で育ったとある。これはもうたいへんよくわかる。
わたしは豊中生まれの豊中育ち、先祖代々の土着民だが、兵庫の阪神間と昔で言う南摂あたりの地には非常に親しさを感じている。これはわたし一人の感性ではないだろう。
手塚治虫は豊中生まれだが、宝塚育ちである。同じだと言っていい。
北摂の人間を「阪急王国」の住民と言う巧い表現をした人がいるが阪急王国は兵庫県の東部分にも及ぶのである。
そして彼女の2000年代の自伝的な風味のある作品「大阪マウンテンブルース」を読むと、色々と思い当たることもある。また早稲田大学へ入学したことにもいくつかの予想がわく。

さて本題に戻り、作品の展示からうけたわたしのときめきを記してゆく。
改めて言うが、これはわたしの感想なので、展覧会レポではないのである。
展覧会レポはわたしなどではなく、もっと知性と理性のある方々が書いてくださるものなのだ。

・初期作品から
「雪やこんこん」 既にもう物語の展開も表現も後の田渕さんを彷彿とさせる。
こんな初期からずっとあのしなやかで魅力的な感性が活きていたのだ。
可愛くて、綺麗で、センスのいい、あの世界。

田渕さんの特徴として、大学生活を舞台にした作品が多いことが挙げられる。
今回の展示でのご本人の言葉などから、マンガ家デビューが早かったことから大学進学を考えなかったと知った。しかし周囲、就中編集者さんからの言葉で早稲田へ進んだそうで、結局それが本当によかったのだ。
また、進学を考えないといった北摂の女子高校生が現役で早大合格と言うだけで、どれほど田渕さんが「勉強のできる人」なのかがわかる話でもある。
ちょっと飛ぶが、日本橋ヨヲコさんの「少女ファイト」でもマンガ家志望の少年に対し、編集者さんが進学を良い言葉で勧めていて、これもとても印象に残っている。

「ライム・ラブ・ストーリー」 これも読んで印象に残っている。片思いの男性の気を惹くためにと、友人にごり押しされて、スケスケのシースルーを着たものの、やはり恥ずかしくて天気がいいのにレインコートを着て出向いたヒロイン。
当時シースルーは知っていたが、下着だという認識を持っていたのでびっくりした。
小学生のわたしはこの作品を読んで、シースルーはちょっと…と思うようになった。
今この原画を見て、展示に該当シーンはなくても印象深いシーンだったので、脳裏に展開されていった。
作中、陸奥A子さんへの私信が壁ポスターとして貼られていた。昭和の頃はこうしたちょっとしたおまけのようなものがわりと少女マンガにはあった。
ファンには嬉しいおまけなのである。

田渕さんの作品にはやさしい男しかいない。
1990年代の女性誌での連載以外には皆無である。
わたしは基本的にラブコメは受け入れられない体質である。
恋愛の成就が目的である作品には本当に関心がないが、田渕さんの作品だけは別で、繰り返し読み続けるのは、出てくる男性にやさしさがあり、女性をバカにしない性質が見えるからだと思う。
暴力もなく、女性にきちんと向き合う男性がいるという点でも、田渕さんの作品は輝く。

「クロッカス咲いたら」 この頃からはっきりと作画の中の植物の魅力が大きくなったように思う。いわゆる「花を背負った」キャラが描かれているのではなく、葉っぱや木花が背景に活きているのだ。その植物の描写に深く惹かれた。
今見ても本当に初々しい。葉っぱがやさしくて、風を感じる作画なのである。

「やさしい香りのする秋に」 素敵。着ているカーディガンも綺麗。日常を丁寧に生きている感じがある。

「フランス窓便り」 三人の娘のオムニバスもの。葉っぱもフランス窓のある建物も、なにもかもが素敵。この背景だけでときめく。
他人と勘違いされる杏、美大生でスモーカーの茜、大人っぽい詮子(みちこ)。それぞれの恋愛譚。
田渕さんによると、全然フランス窓とは無縁だったそうで、和も和だったとやら。
今でこそ和の建物、民家への目も優しくなったが、この時代は和に対してはあまり…

ところで他の作品、後の「桃子について」でもそうだが、けっこうスモーカーの女性が多いな。
当時は何も思わなかったが、田渕さんのキャラのタバコはどんな意味を持つのだろう。
…案外ご本人がタバコ好きなのかもしれないし、背伸びを意味するのかもしれないし、と考えることはいくらでも出てくる。
尤も、同時代のりぼん掲載の一条ゆかり作品「ハスキーボイスでささやいて」にはヘビースモーカーのマニッシュなミュージシャンが登場する。ボーイッシュではない、マニッシュなのである。そしてこの作品の彼女のそのスタイルが実は騒動の種となるのだが。

「あなたに」 ああ、これは今のわたしからすれば「こらっ」だな。だけど、それでも作画と感性に惹かれるのだ。

「ブルー・グリーン・メロディ」 1979.1月号 この作品が欧米物の最後だという。ああ、これは好きな作品で「林檎ものがたり」に収録されているが、大体同時期に読んだ弓月光「ラクラクBF獲得法」でも同じような指南書のせいでトラブルと誤解が生まれる話があり、子供心に「こういう文書は処分しないとヤバいな」と強く思ったものだ。
マンガでいろんなことを学んできたが、料理以外のノウハウ本に無関心なのはこの時からだ。
なお「ラクラク」は同時期に刊行された「ぶーけ」誌の冒頭の目玉たる再録で読んだのだ。
そして「ブルー…」での指南書とは正確にはノウハウ本ではなく、探偵社の所長が拵えた余計な文書なのである。
箱入りのお嬢さんが一人暮らしを始め自立しようとする。その父親が心配し、彼女の監視・保護を探偵社に頼んだことから話が動き始めるのだ。

カット絵がある。それだけでもムードがある。描かれた人の背景や性格はわからないのに、何か惹かれる。

今わたしは学生時代以来の長髪なのだが、根底には田渕さんの描く素敵な長髪への憧れがあると思う。そしてわたしはこの髪で今なら田渕さんの描く素敵な世界の住人になれるような錯覚を懐いている。
この妄想は手放せない。ヘア・ドネーションのための既定の長さにカットする日までは。

「りぼん」表紙絵のいくつかが並んでいた。
77.12月号 クリスマスプレゼントを期待して、ちょっと欲深くとても大きな靴下を手にする少女と、その背後の窓から中の様子を見ているサンタさん。
この号の掲載作品は
陸奥A子「そりの音さえ聞こえそう」、千明初美「涙が出ちゃう」、佐伯かよの「思い聖夜」。
他に連載陣の一条ゆかり「砂の城」、坂東江利子「ちょいまちミータン」、みを・まこと「キノコ💛キノコ」…懐かしくて涙出そう。
千明さん、どうされているのだろう…

78年10月号 太刀掛秀子「花ぶらんこゆれて」、一条ゆかり「砂の城」金子節子「オッス美里ちゃん」、陸奥A子「歌い忘れた1小節」
この頃は「ミリちゃん」ものでしたか。今思っても「歌い忘れた1小節」はいいタイトルだなあ。「おとめちっく」を体現しているよ。

79年4月号 これにポスターにもなった「菜の花キャベツがささやいて」が掲載されているが、この号はわたしもよく覚えている。
清原なつの「桜の森の満開の下」、太刀掛秀子「花ぶらんこゆれて」、金子節子「オッス! Gパン先生」、佐伯かよの「ハローマリアン」、一条ゆかり「砂の城」…
清原さんの「桜の森の…」はタイトルはそれだが別に安吾の作品とは無縁だ。わたしはこちらを先に知った。この作品は後に初期作品集のメインタイトルにもなった。
清原さんは「飛鳥昔がたり」がいちばん好きだが、どの作品にもふんわりしたものとせつなさとがあった。ああ「花岡ちゃんの夏休み」もよかったなあ。

79年10月号 太刀掛秀子「花ぶらんこゆれて」、金子節子「オッス! Gパン先生」、佐伯かよの「ハローマリアン」、一条ゆかり「砂の城」

80年5月号 一条ゆかり「ときめきのシルバースター」、太刀掛秀子「まりの、君の声が」、久保田律子「たんぽぽ空へ」
この頃はもうあの「砂の城」「花ぶらんこ」も連載終了し、お二方の次の連載はそんなに重いものではなくなっていた。
「まりの」では今は懐かしきカセットテープに吹き込まれた声が次の下宿者にエールを送っていたのだったかな。
…わたしもこの頃までだったなあ、「りぼん」「なかよし」を読んでいたのは。
この頃のわたしは「少年ジャンプ」で「リングにかけろ」に熱狂し、「花とゆめ」で「はみだしっ子」にハラハラしていたのだ。

同時代の「なかよし」の紹介もあった。
「キャンディキャンディ」「おはようスパンク」「わんころべえ」がある。
みんな面白かったなあ。諸事情により二度と「キャンディキャンディ」が世に出ないのは非常に残念だ。近年になりわたしは家から偶然「キャンディ」全巻を発掘し、ちょっと言葉もなくなった。

田渕さんの一枚絵の良さは表紙絵だけでなく付録にも生かされている。
色んな付録がずらりと並ぶ。陸奥A子さんの「スペースファイル」79年6月号 は今も手元にある。
付録、もろに「おとめちっく」と書いてあるねえ。

トランプ、レターパット、ノート…
へんなたとえかもしれないが、歌手で言えば「りぼん」はユーミン、「なかよし」は中島みゆきのようなものだと思っている。

「林檎ものがたり」の紹介がある。これもオムニバス。
田渕さんの言葉によると、物語としては三話目がいちばんよいようだが、それぞれ面白く読んだものです。
第一話表紙 セピアとチェック柄と赤の配置がとても素敵。
そうそう、三話目のヒロインの名字が「納所さん」で、この作品からこの名字を知ったのだった。あと野草を食べるということも。
単行本表紙絵 胸のリンゴがとても存在感がある。

この作品集には前述「ブルー・グリーン・メロディ」も入る。
そして「菜の花キャベツがささやいて」で〆なのだが、今回の展示で初めてこの作品が「風色通りまがりかど」の続編だと知った。
「菜の花キャベツ」では学生結婚した周さんと林子の間の色々あることが描かれていたが、二人の住まうビンボーくさいアパートは田渕さんの最初の下宿がモデルだと知り、にやりとなった。
この作品を知ってから数年後にわたしは今東光「春泥尼抄」を読み、そこで阿倍野のアパートの様子が「菜の花キャベツ」のそれと同じだと思ったものだ。
つまりある一定年代までは東京も大阪もこういう形態のアパートが少なくなかったということなのだ。

単行本裏表紙には林子のイラストが載る。


「夏からの手紙」 ああ、ゆで卵をおでこで割る二人。そう、同じことをする二人の話で、男子の方がテスト用に鉛筆を削りコロコロと…それを彼女にそっと渡して転校してゆくのだよな。この作品を読んでからわたしも鉛筆の下に〇Xとか入れたなあ。←青春というより思春期。

「あの頃の風景」は81年2月号の付録だそう。今この原画を見て「ををを」になった。
この作品は未読なんだけど、小6の調理実習メニューが懐かしくて…
目玉焼き、ほうれん草のバター炒め、粉ふき芋。
これ、わたしも小学校の時拵えましたよ。豊中市の小学生の定番なのかな。

「つかの間の午後」83年4月号  これはまた大人っぽい物語だなあ。大学教員と再婚する若い女…年の差が大きいのとか色々考えるね。
ちょっと違うけど「みいら採り猟奇譚」を思い出すわたしはもう「おとめちっく」から遠く離れたなあ。

ポーリー・ポエットそばかすななつ  「赤毛のアン」を好きだったというのを知り、それを踏まえてこの作品を見ると、ファブリックや建物の佇まい、町の在り方にも納得する。
そしてこの話自体は「ブルー・グリーン・メロディ」の別バージョンだという感想をどこかで見て、なるほどとも思う。
布の質感、レンガの表面、そんなものが感じられる絵。

やがて子育てで一線を退き、表紙絵だけを世に贈るようになる田渕さん。
80年代のカラー絵は水彩画ではない。カラーインクを使用する。
時代に沿った画風に変ってゆく…
コバルト文庫の仕事もされていたのか。おお、「赤毛のアン」の挿絵も。
今から思うと80年代の絵は、なかじ有紀さんの「学生の領分」とも共通するものがあるなあ。特に髪型がね。

そして95年「チュー坊がふたり」エッセイマンガを連載された。
これは掲載誌は読んでないが、単行本が98年に刊行されてから読んで、非常に嬉しかった。
「子育てが一段落して復活されたんだ」
この嬉しさと言うのはちょっと言葉に出来ない。
YOUNG YOUなどで陸奥さんが復活されたときもそうだった。
「りぼん」の少女たちが真っ当な成長を遂げた姿がここにある、と思った。
これについては以前弥生美術館で開催された陸奥A子展でも書いている。当時の感想はこちら
陸奥A子+ふろく展

「桃子について」が世に出たとき、とても嬉しかった。
わたしの手元にあるのは新装版である。おしゃれしている桃子。

彼女と付き合う相手の青年がやっぱり田渕由美子世界のヒトで、これもすごくうれしかった。桃子自身は翻訳の下請け作業をして、とても多忙で、しかしあまり収入は良くない。最初に好きになった相手は、自分の妹と結婚する。その痛手を隠して桃子は妹一家に誠実に向き合う。
やがて自分より年下のまだ学生の山男の青年とようやく付き合い始めて、そこから諸々の揺れがあり、生活苦もなんとかなり、未来が開けてくる。
ほっとした。
作中でテート・ギャラリー展に行くのがまたリアルで。
そうそう、わたしも見に行った見に行った、と嬉しく思いもした。
こちらは裏表紙


ところで田渕さんは水彩画を好む理由についても語っている。
そこでは「たよりなさのある水彩」と表現している。
ああ、なんだかわかるなあ。田渕さんの繊細な絵にはやはり水彩絵の具がいいもの…

20世紀末から21世紀初頭にかけて田渕さんは連載作品を何本も出す。嬉しい。
短編もよかった。
「NO.ブランド」 素敵な表紙絵。


収録の「外は白い雪」は男の都合のよさにちょっと腹が立つのだが、ここに出てくる古い洋館がとても素敵で、わたしが近代洋風建築が好きな要因には田渕さんの作品も関わっているかもしれない、と今になって考えたりしている。
そしてこの作品集ではりぼん時代から一歩進んでラブシーンがあるが、その中でもタイトルの「NO.ブランド」のそれはかなり笑えるのだった。理由は読んだらわかるので書きません。ぜひご一読を。わははははは。

「オトメの悩み」 少女小説家・黒田笑さんの年下の編集者青年とのモダモダした話。
いやもう連載当時わたしも気になって気になって…なんだか知人を応援する心持だった。
丁度同世代だったのだ、この頃の田渕さんの作品のヒロインの大半は。
なのでわたしにもなにかこう…えへんえへん、もうかなり前なんだな。

そうだ思い出した。今回展示には出ていなかったが、京都・嵯峨野へ青年を案内する話を昔読んだがあのタイトルは何だったかな。着物を着て案内する娘さん。
それで下宿に来た青年の名が「日野」か「壬生」だったので、日野菜とか壬生菜とか呼ばれていたな。こういうところに大阪の人間の明るい感性を感じるのよ。

ラストに「大阪マウンテンブルース」の紹介が来た。

帰宅後、再読し直す。やっぱりせつないのと「ううう」となるのがある。
冒頭、ものすごく良くわかる。
そう、豊中辺りでは夕日は六甲山に沈むのよ。わたしの見る夕日も六甲山へ沈む。
ああ田渕さん、1970年も2021年の今も、その辺りは変わってないですよ。

裏表紙 いい男だなあ


休筆されてからもだいぶ経つ。もう描かれないそうだ。でも、描いてほしいと思う。
思うのはわたしの、わたしたちファンの勝手な気持ち。
今回の展覧会で改めて田渕さんの世界に浸ることが出来て本当に良かった。
やっぱり好きです。

6/27まで開催中。


2021.6月の東京ハイカイ録

2021-06-14 23:45:28 | 展覧会
今回はなにがなんでも東京へ行く気でいた。
行かねばならないのだ。
理由と目的は二つ。
弥生美術館で田渕由美子展をみることと、歌舞伎座で「桜姫東文章」を観る、これに尽きた。

田渕由美子は70年代後半のりぼんの看板作家、「おとめちっく」三本柱の一人で、たいへん人気が高かった。
子育てと仕事の両立をやめて子育てに力を入れた人なのでマンガの空白期間があるが、イラストの仕事は活きていた。
わたしも今回の展示で自分がいかに田渕由美子作品に惹かれていたかがよくわかった。
いや、もともと好きなのは確かだった。
なので90年代末というか00年代初頭にレディスコミックで作品を発表しているのが嬉しくてならず、出るたびに購入していた。
その人の原画と作品の記憶を語る言葉のついた展示があるのだから、予約を取るのにも力が入った。
展覧会の感想はまた別項に詳しく記すが、本当に嬉しかった。
いいものを見せてもらい、ありがとう。

さて10時半から13時過ぎまで展示を見ていたので歌舞伎座へ行くのにちょっと焦った。
東大前から飯田橋経由で銀座一丁目というルートを考えていたのでとりあえず歩かねばならない。
すると東大の壁面から紫陽花があふれ出していた。
可愛いなあ。

銀座一丁目の何番出口か、地上へ上がると某チェーン店が見え、そこでランチにした。
まことに珍しいことをした。
それから東銀座へむかって歩くと、やっぱり何年もこっちへ来ていないからか、随分と変わったなと思った。ううむ、ううむ。あ、まだ改造社の本屋さんがある。

…歌舞伎座である。
今回は友人の伝手でチケットを取ってもらった。なにしろ前売り券は即日完売である。
「ナウシカ」は泣いて諦めたが、37年ぶりのこの二人の「桜姫」は何があろうと諦めきれるものか。

二階の前から五列目、一等席とはいえ花道が見えないのは残念だったが、よくぞ取ってくださった。
ありがたや。

37年前の記憶は鮮やかだ。
というより、繰り返し思い出しているので常に思い出は新鮮なのだ。
当時の批評家の言葉まで思い出せる。

わたしとしてはやはりさすが大南北!と大満足だったが、友人にはちょっと合わなかったようだ。
申し訳ない。わたしはな、映画やTVではコロシも濡れ場も無関心だが、芝居ではエグいのが好きなんよ。

ハネてから友人としゃべりもって歩く。
おお、ええ時間になりましたな。同じ新幹線ながら席は別です。
ああ、今日は本当に大満足の一日でしたわー。

やっぱり月1回は東京へ出かけられる身の上でなくてはなあ。

花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた

2021-06-08 23:00:18 | 展覧会
「京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完了記念
花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた」
タイトルが長いのだけど、まさにそれ。

京都文化博物館で6/4から始まった展覧会、その二日目に出向いた。
道筋としては久しぶりに大丸京都店の地下を通って錦の出口に出るのだけど、百貨店が開いてて、賑わっている、と言う状況が嬉しくて嬉しくて。(対コロナ的にはあかんけど)
なんしかごの御時勢だからなあ。
それでふと見れば売り場が変更されてて、矢印に従って歩くと鳴海餅も阿闍梨餅も場所が変わってた。
阿闍梨餅はカフェIORIの方になってましてな。
それでわたしは箱ではなくばらで購入する。またね、というのがいいよね。

こういう看板にそそらるわけだから、いかにわたしがにぎやかな街の様子が好きかがわかるというものだ。

中世末期から現れ始めた裕福な商工業者が自治を尊び、横のつながりを強くし、儲けることを身上に、文化の隆盛も担い、「町衆」として大きく踏み出した。
別に生粋の京雀でなくとも京都の地で繫栄し、京都に富と文化とを齎した連中は少なくない。ついうっかりするが、利休なども堺の商人なのだし、それが京都で文化の中心に鎮座ましまして、ついに四百年すぎた。
その間に色々あり(過ぎるほどあって)、150年ほど前には天皇も東京へ行ってしまったが、それも「遷都」とは決して言わない。「奠都」という言葉がそこに現れる。
なるほどなあ、と「浪花のことは夢のまた夢」のぜーろくからすれば実は他人事なのだが、今回この展覧会で「天皇東行」という言葉を見て、ヒャーッになった。
「東京行幸」ではない。
そういえば歴代の天皇で東へ行ったのは…いてはらへんのではないか。
天皇の子息は行ってるよ、古代に。倭建命は東征して焼津であっちっちっになっている。
まあ帝のおわした時代の文物を眺める展覧会なのだから、話を京都へ戻しましょう。

「花ひらく町衆文化 近世京都のすがた」
それも「誓願寺門前図屏風修理完成記念」なのである。

というわけで早速京都文化博物館の四階へ参りました。
するといきなり18世紀の「鴨川納涼図屏風」の部分拡大が現れて、おいでおいでをするわけですね。
ほんま言うとわたしなぞもこの中に入って「ああ、おもろいな」と言いたいところですがさすがに三次元キャラなので二次元には入れない。
その替りというのも語弊があるが、これらの屏風や当時の町衆の書いた手紙などを展示してあるのを見て回るのです。

前書きが長いのは常なので、あまり気にしてはいけない。
久しぶりの好きなタイプの展覧会なので喜んでいるのです。
さて、本当に感想を始めます。

京都地図屏風 19世紀  北を右に配置した地図。碁盤の目の町中は縦ではなく横広がりに表現。琵琶湖は中央下になる。その手前に山並みがもこもこ。
本圀寺、西本願寺がやたらと大きい。実際にそうだったのか、そう描きたかったのかは知らない。
西はこれは北野天満宮だろうか。「小野」にみえるが「北野」と思った方が妥当か。すぐそばに地蔵院もあるし。←椿の地蔵院。それから紫野もある。
そういえばこの地図は2015年以来の再会。
「左端には東寺、右端が鷹が峰」と当時のわたしは記している。


いよいよ岩佐又兵衛が描いたと伝わる誓願寺門前図屏風をみる。
これは修復前のを見ているが、わたしのような者にはどの辺りがよくなったのかあまりわからないので、こうして濃やかな解説があるのは嬉しい。
なお前回の展示の感想はこちら。2015年だったのだね。
京を描く 洛中洛外図の世界 2


桃山時代の作品なのは確かだそうである。修復していてもちょっと暗い。
五年ばかり調査と修理をした結果、いっとき襖絵に使われていたことがわかったそう。
賑やかな様子が描かれている。
修復の様子も紹介されている。



思えば天正19年に今の新京極に移転したわけだから、又兵衛が何歳くらいの頃に描いたかは知らんけど、完全に同時代の様子なのだよな。落慶法要は慶長二年だそうだし。
それから四百年以上経ったが今もあるものなあ。小さくなったけれど。
こちらは当時の様子

そして場所柄人の行き来するのが多いのは昔も今も変わらず。
コロナ下でえらい目に遭う日々だが、この展覧会観た後に通ったら、やっぱり人出が多かった。

桃山から江戸初期の食器の欠片をみる。
三条通の町家の並んでた辺りから出土。龍池町か。これはここの所蔵。
志野焼が結構多いな。ほかに瀬戸もの、美濃、織部。
今出川大宮の京都市考古資料館にもたくさん出土品があるが、そこでも志野、織部、唐津などをみている。
菊をモチーフにした皿、千鳥柄もあり、復元したものも並んでいるのでわかりやすい。

時代が下がり鍋島焼もある。大名間の贈答品ではあるが、豪商も鍋島焼を手に入れる状況があったのだな。染付で宝尽くしらしき文様が見える。柳に鷺の図の皿が参考に出ていた。
七宝繋ぎらしき文もみえる。

洛外名所図屏風 北川本 17世紀  西京あたりの名所図。
どうでもいいことだが、友人に高野の住人がいて、彼女も洛外人になる。
1金閣での茶会らしき様子がある。3下に北野天満宮、その門前で牛の大きな絵馬を運ぶ人がいる。
5相撲を楽しむ連中。6大堰川の様子。



大井川春遊図屏風 17世紀  これは静岡のではなく嵐山に流れる大堰川なのだった。川遊び、筏師、花火もある。

洛中洛外図屏風 狩野益信 18世紀  清水から始まる。その下には方広寺。大きな大仏殿。4,5に四条、芝居小屋も。左は愛宕山?川がやたらと多い。秘して全体的に山水画風な味わいがある。

書状も色々。
片桐且元、前田利光のは大仏づくりの件で、これを見ると「ああ、徳川にやられやがって」という気分になるのよな。
17世紀初頭頃には町衆の中でも後藤家の力が大きかったようで、彼らとの交流を示すものがいろいろ出ていた。
加藤清正からは「虎の皮と大皿くれてありがとう」…清正が・虎の皮を・もらった のだ。
小堀遠州との関係は深いようだ。仲良しさん。伊庭山の松茸、海老のお礼などがある。
遠州が書いた手紙への返事、それへの返事を一枚の書状で綴る。こういうスタイルを勘返状というそう。
メールでも元メールを載せたままの所へ新しい返事が来てて、それでまた…と言うのと同じですな。

後藤庄三郎邸址の出土品がいい。今の新風館のところに当たる。鳴海織部、美濃の鉄釉、長石釉、白っぽくなった黄瀬戸、唐津の大皿、肥前のウサギ柄のものも参考に出ているが、陶磁片から見るともとはこれらしい。

慶長大判・小玉銀  銀が黒くなった。金と言えば高島屋のCMを思い出すね。

柄のついた鏡が世に出るのは随分と遅かった。室町の末頃からだという。8種のサイズの規格が定まったそう。
ずらりと並んだのは実際に使われたもの。背面の文様の豊かさは平安の頃と変わらない。
桜、梅、鶴、松、蓬莱、「源氏」の文字のみ、なかなか面白い。

この鏡の鋳造の工房の遺物も出てきた。鋳型が比較的楽になるような工夫がある。
模様をつけやすくするためにつけられた工夫も面白い。

十二ヶ月図屏風 狩野永敬 元禄七年以前  大方は定家のそれを絵にするのだが、これは珍しく畠山作匠亭の歌を絵にしている。だからちょっと違う感じもある。
それで畠山匠作亭とは誰か、何か、ということを後で調べたところ、研究者の方がこう記していた。
「能登畠山家二代の畠山阿波守義忠の自邸で催された歌会の「畠山匠作亭詩歌」を絵画化。
和歌は一条冬経ら12名の寄合書き」
などとある。上に和歌、下に絵がある屏風。
またさらに調べると、内容の画面が公開されていた。


町衆の力は大きく、陶片を見てもその豪華なラインナップから様々な情報を得られる。
華南三彩、李朝の白磁、伊万里焼などなど贅沢なものが出土している。

幕末の騒乱の前の四条河原納涼図が二点並ぶ。
呉春の弟子・紀広成と横山華溪の嘉永五年のもの。
四条も五条も賑やか。
華溪のは左上に月も出て、祇園の赤い提灯も並ぶ。
紀はシンプルにシルエットな人物ながら、よく見ると色々と描き分けられている。

リアルな町衆の暮らしの一端も書状などから伺える。
引っ越しの理由や商売をするにあたっての取り決めなどの保証書などがある。
今も昔も「汚すな・他人に迷惑をかけるな・騒ぐな」ということである。
場所が今の東華菜館辺りで髪結い床の新規開店、この近くの三条高倉上るで生簀の料理屋などなど。

幕末のどんどん焼けの瓦版もある。そりゃまあこの時代はまた京都がやたらと舞台になりましたよな。
真面目なニュースとしての瓦版が展示されていて、天龍寺、二尊院の焼失が記されている。
元治元年のとんでもない話。
なんしか洛中がほんまに焼けてしまったからなあ。
昔の太郎焼亡次郎焼亡との比較は出来ないが、どちらにしろこれはひどかった。

蛤御門の変に使われたマスケット銃の弾もある。ははあこれがか。400m南の民家からみつかったそうな。
そういえば鳥羽伏見の戦いのとき、対岸の島本町立歴史文化資料館の界隈に流れ弾が飛んできて被害があったそう。六年ほど前に行ったとき、現物を見た。


さてその被害の現物がここにも展示。
曇華院前町にあった頃の曇華院の焼け焦げた瓦類。丁度この文化博物館のほん近くというか、物凄くご近所さん。…ここなのか? 知らんけど。
水の上の龍、ひまわりみたいなの、巴文などの瓦がよく焦げつつも残っている。
このお寺もそのせいで嵯峨野へ移転。

そして焼け焦げたり割れたりの陶磁器がまたまた現れる。
下京区東錺屋町辺りからの出土品。
景徳鎮の青花、欧州の染付、三田焼のオリーブグリーンの青磁、古九谷、柿右衛門…
贅沢な器である。…もったいない。

森寛斎 京新名所四季図屏風 1873  明治になっての絵。新時代をイメージしてるのだ。
春…円山公園、吉水温泉、今のお宿吉水
夏…三条大橋の鉄橋化。人出が多い。
秋…集書院(図書館)紅葉が可愛い。
冬…京都府中学 勉学の場所

明倫小学校の明治の頃の様子を写した模型もある。京都の番組小学校の1。
京都の中学、女紅場などで使われた古い教科書も。



そして谷口香嶠 出町柳農婦 明治の初期の庶民はまだ江戸時代と同じような暮らしぶりの人も少なくなかった。

出口付近には吉田初三郎の京都市街の鳥瞰図のパネルもあった。

最後にちらしにもなった鴨川納涼図 ちょっとばかり。
描かれてる人々が本当に可愛くてね。夏だから瓜をよく食べてるようで、まさに「瓜売りが瓜売り帰る」

色んなお店や楽しそうな人々。
夏の楽しさがここに集約されている。

7/25まで。