遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う

「遊行七恵の日々是遊行」の姉妹編です。
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「旅の美術」を大和文華館で楽しもう

2021-08-20 22:47:01 | 展覧会
大和文華館の夏は「旅の美術」展で彩られていた。
今回は日本と明代の作品が少し。


日本人は旅を好む民族だと言っていいと思う。
ゲルマン民族のような「民族大移動」と言ったものではなく、物見遊山も含めての旅である。
江戸時代の以降の双六を見ても東海道を往復したり、講を組んでどこそこへ出かけたり。
平安時代には既に紀行文学も生まれていた。
奈良時代には旅の歌も詠まれている。
好きで行く旅、行かざるを得ない旅、様々な形はあれど、一つ所にとどまらず出かけることを「旅」というならば、なんと多くの旅があったことだろうか。
そしてその旅をモチーフにした作品も多く生まれ、随分と好まれた。

今、コロナ禍により移動の制限がある。しかしそれでも人は旅をしたいと思うものなのだ。
引きこもる人も少なくはないが、かれらはかれらで自分の心の中で「ここではないどこか」を思っているかもしれない。
わたしも出かけたい。旅に行きたい。
叶わぬならば旅番組を見よう。そして遠隔地をモチーフにしたものを眺めよう…


・物語の旅
思えばトールキン「指輪物語」から生まれた「ホビットの冒険」の副題は「行きて帰りし物語」であった。
行ったきりではなく帰ることもまた大事なのだ。
そして本家の「指輪」の第一部のタイトルは「旅の仲間」であり、最後は「王の帰還」。

明妃出塞図巻 明代  王昭君の悲しい物語を巻物にした連作。匈奴の国へ王妃として贈られることになった王昭君の悲しみと、このような美女を贈られたことで匈奴の王とその兵たちは中国に対し、感謝の念を懐く。むろん王昭君はとても大切にされた。
匈奴の旗は虎が立ち上がって威嚇する姿。右足を上げて立つ絵である。その旗を幾本も立てながら馬やラクダで国へと去る。
王昭君は丁寧な設えのほこりよけの天蓋のついた囲いの中に納められ、故国から見知らぬ異国へと連れられてゆく。新しく彼女に仕えるらしき侍女たちはいずれもニコニコ。
ごくあっさりした淡彩とはっきりした線描で綴られる物語絵。


文姫帰漢図巻 明代  こちらは誘拐されて匈奴の国へ連れてゆかれ、そこで家庭を持った蔡文姫が十数年後に人質交換の対象となって、夫と二人の子供を残して故国へ帰る話。
彼女も匈奴ではたいへん大事にされた。今回は全18拍(シーン)の内1拍から5拍まで。
・実家から連れ出される・豹の毛皮の敷物に座しての旅・王の妻として宴席へ・夜空を見て嘆く・王による慰めの宴
こちらは派手ではないが彩色豊か。

砂漠を往くような描写を見ると、中央アジアから天竺へ向かった三蔵法師とその一行の「西遊記」を思う。なんと豊かな創作だろう。あの物語もまた「旅」を描いているのだ。
シルクロードを往くとは旅そのものなのだということを思う。

さて輝ける天平時代の後には、鎖国したがゆえに国風文化が華やかに開いた平安時代がある。あくまでも都すなわち京を中心にした時代である。
太宰府、土佐、陸奥などに赴任する人々はその先で豊かな郷土文化を知ることになるが、それでもあくまでも京にいてなんぼなのである。
そして京から少し離れた須磨明石でさえも流謫の地なのだ。

源氏物語も伊勢物語も主人公は旅をする。
楽しい遊山ではなく、政治的な立場がまずくなってのことである。
流謫地でも楽しく遊んで和歌も詠むが、あくまでも京都第一主義。
その地で綺麗な女人とねんごろになっても都へ帰ることばかり考える。
でもやっぱりその地その地で楽しいことをしているので、それが詩歌になり絵にもなる。

土佐光吉の源氏絵、伝・宗達の伊勢絵。綺麗なものです。
女をおんぶする昔男くんなぞは、その後女を取り戻されてくやしまぎれにトンでも話を付け加えるが、これは彼のいつものパターンでもある。
正直な話、こいつらまとめて殴りつけてやったら楽しいだろうな、とわたしなぞは思うことがある。
魅力的な絵や工芸があるばかりに好きでもないこいつらの恋バナを読むので、たまに虚無るが、ああこれが無常観かと悟る。

扇面貼交手筥 尾形光琳筆  モノクロだが、この笈を背負って歩くのが箱の蓋絵。
八つ橋図、住吉明神と白楽天、枯れ芦に雪図などが見える。


武蔵野・隅田川図乱箱 尾形乾山筆  兄とはまた違ういい絵を描く乾山。ネコ手のような波を描く。それが隅田川。

幕末の岡田為恭の八つ橋図がある。ごくシンプルな構成だからこその良さ。描表装は墨で小さく花しょうぶの群れを描く。そして絵の方は群青色横縞と霞の中に、殆どピクニックな一行。松の下の草の上でランチ。各自が小さな台をそなえて、そこに飲み物セット。童子が柄杓でお酌。三人きこしめている。

曽我物語図屏風  元禄頃のかと勝手に思っているが、眼鼻のはっきりくっきりしたキャラがごろごろいる富士の裾野の巻狩図である。曽我兄弟もいれば朝比奈も新田もいる。
ロン毛の美少年たちもぞろぞろ。「金平浄瑠璃」の挿絵にも似たキャラ達。

善財童子絵巻断簡 鎌倉時代 52番目。唐服風なものをまとう弥勒。善財童子の旅もいよいよ終わりに近づく。
ところでわたしは華厳経の善財童子の旅を知る前に、高橋睦郎の「善の遍歴」から善財童子を知ったのだ。めくるめくような展開の、奇人怪人の登場するゲイ小説で、九州から一人上京した善財少年は山手線をぐるり一周し、最後の手前で悲惨な目に遭う。そこからやっと脱出し、かれは大日如来ことマハーヴァイローチャナと共にこの穢土をさらば…

遊行上人縁起絵断簡 鎌倉時代  柳の前でドカドカ踊念仏してるのを見る三人の女たち。
結局のところ、遊行上人の踊念仏に熱狂したのは男女比どうだったんだろう…

さてここまではわりと大和文華館でおなじみの作品群でございましたね。
次からあまり見ないのが続くのでした。

西遊記表紙絵 富岡鉄斎  七冊の本の表紙絵を描く。それぞれのキャラの立ち姿など。
これを見ると藤城清治さんが邱永漢「西遊記」の表紙絵や挿絵担当したのを思い出す。
明治16年の作。1八戒風な悟空の立ち姿 2楼 3梅と雲 4滝に落ちる猿(悟空か) 5月下の藤 6朱と緑の寿老人と茶色の鹿 7火鉢に数珠青い浄瓶

「西遊記」は唐からシルクロード経由で天竺へ向かうのだけど、ほんと、大好き。
わたしが最初に知った「西遊記」は東映動画の長編アニメーションで手塚がキャラ設定したもの。
それとは別にとんでもギャグアニメ「悟空の大冒険」。歌がまたよかったなー。
次に子供向けのを読んで、それから君島久子さんの翻訳のを読み、堺正章主演ドラマ「西遊記」であの当時の子供の多くが「うおおお」になったのよ。
夏目雅子さんの三蔵法師があまりに綺麗で…それ以来イメージがある程度決まったのではないかと思う。
本来「西遊記」とはちょっとズレがあるけど、ED曲のゴダイゴ「ガンダーラ」も名曲だったし、憧れが募ったところへ今度はNHKが満を持して「シルクロード」を放送したのよね。
そしてその直後に教科書掲載の「幻の錦」龍村平蔵と大谷探検隊の話を読んでめちゃくちゃ感動したのだよ。
これはもう今日のわたしの基底の一つ。今思い出しても胸が熱くなる。
その数年後には諸星大二郎が「西遊妖猿伝」を開始したし。そして中島敦の「悟浄出世」なども読み、近年には平岩弓枝もいかにも平岩的なキャラの「西遊記」を出した
まあやはり「西遊記」は面白いのですよ。

2.名所の絵画
洛中洛外図の昔から、江戸時代の名所図会、浮世絵師の各地名所図、大正から昭和の新版画で表現した旅の風景。
なにもかもが素晴らしい。

南都八景図帖 吉田元陳のと狩野栄信のが並ぶ。去年の「梅と桜の美術」以来の再会。
奈良の名所はわりと近くにまとまっている。
 
京奈良名所図扇面冊子 江戸前期  60点の内34点が出ていた。金地に綺麗に名所図会。

都名所図会 1786版  石山寺、高尾、三井寺、野々宮のまつり、東寺、吉野、奈良大仏(大仏殿がない)、六角堂、舟が寄る竹生島、何故か富士山が右端に見えるどこか。

大和名所図会1791、河内名所図会1801、東海道名所図会1797…みんなこの時期に熱が高まったのだろうなあ。いい感じの本ばかり。

3.絵師と旅
多くの絵師が旅に出た。出ないままどこかを描く絵師もいたが、やはり旅に出ると気分も大いに変わる。

美人画で高名な鏑木清方は少年時代に脚気になった。江戸から東京になって30年ばかり経ってもやはり江戸の人々は白米を食べすぎて脚気を患い、旅に出て治した。
17歳の清方は「牡丹灯籠」で名高い圓朝師匠に誘われて栃木への旅に出た。
その旅については「こしかたの記」に詳しい。
後年挿絵の仕事が忙しすぎて神経を病み、電車に乗れなくなった清方だが、若い頃にはこのように旅にも出たのだ。
圓朝は少年にやさしく、清方はよい思い出を長く残した。
因みに清方の旅は、昭和五年にハイヤーを駆って数日をかけて京都へ出て、日本ローマ日本画展に向かう画家仲間を見送るというものがある。
電車に乗れずともハイヤーを何台か連ねれば東京から関西へ行ける、と言う見本である。
清方の傍らには夫人がついたが、二人の令嬢はそんな辛気臭いツアーは嫌だと、関西出身で鏑木家の信頼が非常に高い弟子・寺島紫明の案内で一足先に列車で関西入り。
この辺りは「続こしかたの記」にある。

殿様蛙行列図屏風 渡辺南岳  リアルな人体に顔だけトノサマガエルの大名行列。ちゃんと身分も分けられている。この屏風はなかなか楽しくて好きだ。

神奈川風景図 谷文晁 1802  手前に小さく房総半島もある。これをみて思い出すのは浦賀の果てまで行ってから船に乗って金谷まで出たこと。30分ちょいの船旅で鋸山の町へ出かけたのだ。東京湾フェリーで往復。楽しかった。2010年の話。

名所図を見ると、時代を越えて個人的記憶・感慨と絡まり合うのでとても楽しい。

暑中芙蓉峰図 森徹山・鄭嘉訓賛  鄭氏は中国名、琉球の官僚で書家の古波蔵爾方。
親方(うぇーかた)は称号で高い身分であることがわかる。
「琉球の風」で知った。その前に「ウンタマギルー」でも親方と呼ばれる人がいたので、旧時代での称号のこととは思いもしなかった。
こういうこともいちいち学ばないとわからないことだ。

富嶽図 宋紫石 1776  ああ、あの悲しいような大きい目をした虎の絵の人か。
チラシに。使われている。
豆州 田子浦 そして年月日


江の島図 小田野直武  こちらもそう。思えば富士山にしろ江ノ島にしろ、お江戸の人には旅なのだよなあ。むろん大和文華館の奈良からはとんでもなく長旅。

司馬江漢のあやしい絵もある。
海浜漁夫図  3.5頭身くらいの人々がいる。
七里ヶ浜図  波の静かな風景。
生命体が停まってる感じがするのよな。

攀嶽全景図 鉄斎 1889  大きいなあ。富士山図。大きいわ。
富士講の人だけでなく一般の人が富士を上るようになったのはいつからかな。
いや富士講も一般人か。

東遊雑記 古川古松軒 1789成立 写本  主に羽黒山ツアーを記している。
とはいえそれは「奥の細道」のような情緒のあるものではなく、比較検討してたり色々とリアリスティックな内容。
近藤重蔵がこの本を持って蝦夷地へ出かけたそう。他方松浦武四郎は彼の描いた内容を批判してもいる。
現物をきちんと読んだこともないので、わたしにはわからない。
なお弘前大学図書館は写本の一つで綺麗な挿絵入りのを所蔵してデジタル公開している。

京畿遊歴画冊  吉野山を中心にしたツアー 江戸後期、誰かがこうした絵を描いてくれたのが残っているのです。こういうの、本当に大事。


書き込みをみる。


翰墨随身帖 田能村竹田  今回はカニたちと奇岩の二点。2018年のこの展覧会以来かな。
生命の彩 ―花と生きものの美術ー 

イメージ (222)

最後に讃岐の源内焼、緑釉日本地図文角鉢  方位盤まで描き込みされてましたわ。そういうちょっと科学的な感じが「源内」焼ぽくて楽しいよ。

8/22まで

あやしい絵展に溺れる その5

2021-08-13 11:56:25 | 展覧会
眼差し一つでこちらを魅惑する絵がある。
高畠華宵の描く少女の目に見惚れて、随分長くこの道を歩き続けている。


華宵「サロメ」である。かれのサロメは浅草オペラのサロメなのでビアズリー、モローとは無縁な美を見せる。
そしてこのサロメは便箋の表紙絵であり、わたしもひの便箋の復刻版を弥生美術館で購入した。
同時代のノイエ・タンツを思わせもする。素晴らしい。


「少女画報」1925年8月号 大正末期の海水浴。薔薇柄のケープ。
この眼差しに惹かれた高校生のわたしは真似をしようと必死だった。
あやしい眼差しは得られなかったが、怪しい目つきの人にはなれました。

こちらは1928年4月号。「ばらの園」

優美な娘がこちらへ目を向ける。

パリに暮らしながら日本の少女たちの為に作品を提供したのがこの時期の蕗谷虹児だった。
「少女倶楽部」1926年12月号「夜会の仮装」旧字の美にもときめく。
アールデコの洗礼を受けつつ、愛らしいドレスやりぼんで飾られた少女たちを描く。


アールデコの前のムーブメントはアールヌーヴォーだった。
日本では特にこのアールヌーヴォーを深く受容し、独自に構築した芸術家が少なくない。

化粧品文化と深い関係がある二人の作家の絵を紹介する。

山名文夫 「アフロヂテの誕生」プラトン社「女性」1923年7月号
関東大震災前の大阪での仕事である。

そして同じく「女性」1922年12月号には山六郎「妖姫タマル」がある。

プラトン社は中山太陽堂から生まれた出版社である。

1925年1月号「女性」表紙 山六郎のカラー作品

1920年代へのときめきが止まらないのはこうした作品が現れるからなのだ。



プラトン社からは「苦楽」も出た。
発行期間は決して長くはないが、そこから現れた作品に囚われた人は少なくはなかった。

マッチ箱にも魅力的な意匠があった時代。
荻島安二という人を知らないが、この図様をみて「残していたい」というキモチがわくのは当たり前だ。




こうして見ると武井武雄、村山知義とも共通するセンスの良さがある。
お店も工夫して魅力的なものを選んだのだ。

こちらは山名文夫


商業デザインの魅力は罪深い。

撮影禁止なので挙げなかったが、鏑木清方の退廃的な「刺青の女」「妖魚」(共に福富太郎コレクション)があったのも本当にうれしかった。
わたしが最初に見た清方の絵はこの二点なのだ。
そこから他の作品を知り、清方の美に溺れた。
挿絵画家から出発し、鏡花作品を愛した人が描いた「あやしい絵」は実は数多い。
「卓上芸術」を標榜し、晩年は心ゆくまで好みの絵を描いた。
「雨月物語」の「蛇性の淫」、半ば蛇体となって泳ぐ「清姫」、谷崎の「少年」の挿絵などに「あやしい絵」がある。

わたしは見ることが出来なかったが、速水御舟の不気味な「舞妓」、松園さんの「花筐」、村上華岳「裸婦図」も並んでいたのだ。
福富太郎コレクション、弥生美術館、京都、大阪の知られざる作品群、この展覧会だからこその邂逅。
まことに素晴らしい。

大阪歴史博物館では8/15まで開催している。
見に行くことが叶う人は見てほしい。
近年まれにみるトキメキの展覧会なのだった。

あやしい絵展に溺れる その4

2021-08-12 16:22:49 | 展覧会
今回は商業芸術から。
こちらは宣伝するという大義があるが、表現は奔放なものが多い。
そして宣伝のための作品であることから、一目で見るものの心を掴まねばならず、その分面白さが強い。


北野恒富の「クラブ歯磨」の宣伝ポスターである。
かれは「浪花の悪魔派」と謳われたが、たいへん魅力的な婦人たちを数多く描いた。
それもこのように大正時代のポスター美人だけでなく、舞妓をモデルにした美人画、様式美に則っての安土桃山頃の風俗の美人画など、画風を色々に調整して魅力的な作品を多く生み出した。

クラブ歯磨とは中山太陽堂から発売された歯磨き粉で、中山太陽堂は創業者・中山太一が宣伝の力の重さを知り抜いており、その宣伝芸術は一時代を築き上げた。
2021年8月現在、中山太陽堂の後身たるクラブコスメチックスの文化資料室が大阪の阿波座にあり、展覧会を開催中である。
そしてこのポスターも出ている。
人気が高いポスターだったのだ。

その北野常富の屏風絵
死と性の匂いが濃厚に漂う。

道行 1913 二人の行く先には何もないのだ。このあとは情死しかない。
随分昔の話だが、京都文化博物館で春のひな人形展に行くと、立雛を寝かせて展示したのを見た。
女雛の髪がほどけて広がり、にっ と笑うその頬に後れ毛が張り付いていた。
どうみても心中の姿、情交の果ての行き止まりの死の様相にしか見えなかった。
あの人形をこのように展示した人の意図は知らない。
ただの偶然だったかもしれない。
しかし視てしまう者がここにいる。
凄いものをみた、と今もよく思い出す。目に意識に焼き付いている。

往々にして上方画壇の人の絵が「あやしい絵」だと目されることが多いのかもしれない。
女性の日本画家として名高い大阪の島成園の絵が来ていた。
この女の顔は特にわたしの好きな顔だ。

黒髪を梳く女。これは福富太郎コレクションの所蔵品だが、堺市にも確か別バージョンがあったような気がする。
調べればよいのだが、怠惰なわたしは動かない。

挿絵を見る。
小村雪岱の絵が多く出ている。たいへん嬉しい。
彼の絵の良さを深く知るようになったのはこの20年ばかりだ。
以前はそうは思わなかった。
成人後にそれまでと違いとても好きになった画家といえば
小出楢重、岸田劉生、小村雪岱の三人がいる。
そしてこの三人、偶然にも筆が立ち、随筆が面白いのであった。

先般、雪岱の研究者でありコレクターの真田さんがご自分の素晴らしいコレクションを展示してくださり、そちらもわたしは撮りに撮った。
しかしいくら死後数十年経って著作権が切れていようとも、この膨大な作品群を集められた真田さんの労苦に対し、気軽に挙げることは良くないと思い、わたしは自分で眺める楽しみの中に入れた。
挿絵や商業芸術の運命の悲しさがそれだ。つまり本画と違い軽くみられ、失われてしまうことが多いのだ。
だが、その挿絵、口絵、ポスターには「一目で魂を掴め」という使命がある。それで生涯を掴まれることも少なくないのだ。


雪岱の挿絵はやはり邦枝完二、子母澤寛の作品で輝いたと思う。
装丁家としては鏡花作品で素晴らしい花を見せた。カラフルな美はこちらで。
モノクロの美は邦枝、子母澤作品の挿絵で痺れればよい。







「お傳地獄」のこの刺青シーンは後に彩色されたものが版画で現われもした。
そして93年11月にわたしはニューオータニホテルの外国人向けのショップでその彩色した絵の絵葉書をみつけた。
それを買ったのが、雪岱作品集めの始まりだった。



弥生美術館は挿絵専門美術館である。
近年は往年の少女マンガの原画展示もあり、ますますかつての少女たちの胸を焦がす。
わたしが最初に行ったのは1989年5月だった。
竹中英太郎の挿絵展が開催されていた。
当時すでに乱歩「孤島の鬼」の挿絵に惹かれていたので、それが見たくて友人らと東京へ行ったのだ。
そしてその年の暮れには会員となっている。
当時の「竹中英太郎懐古展」のポスターは横溝正史「鬼火」のお銀を描いたこの絵だった。

「鬼火」は手元にあるが、それよりも同じ本に収録されている「蔵の中」に熱狂しているわたしは、「鬼火」の面白さを理解していなかった。
だがこの挿絵を見て、俄然「鬼火」の面白さに目覚めた。
今でも「蔵の中」はわたしの中では特に偏愛する作品の一つだが、「鬼火」はこの英太郎の挿絵を見て初めて、その魅力を知ることになった作品である。
いかに挿絵が重要なものかがわかると思う。




続く

あやしい絵展に溺れる その3

2021-08-09 21:11:47 | 展覧会
安珍清姫伝説もまた多くの画家を魅了した。
清姫を最も清楚に描いたのは小林古径。
清姫を気の毒に思えるように描いたのは村上華岳。
清姫を恐ろしく思えたのは月岡芳年。
清姫をこう描くか、あの人がと驚いたのは鏑木清方。
そしてこの清姫はまだ人の形をしているが、既に心は枠を越えつつある。

木村斯光 清姫 
大正末期の清姫。花の吹輪をつけているところや振り袖が娘であることを示しているが、もう顔つきはそんなものではない。少しばかり六代目菊五郎に似ているのは時代のせいかもしれない。
ヨカナーンにしても安珍にしても恐ろしいほどの情念を持った女に思いつめられたのである。

2で少し上げた名越国三郎の残した数少ない作品から「水のほとり」

ありがたいことにこの作品を含んだ画集「初夏の夢」は国会図書館デジタルアーカイブで見ることが出来る。
こうして見て見ると、ハインリヒ・フォーゲラーの影響を受けているように思う。
大正五年の作なので、明治43年の「白樺」表紙絵に使われたフォーゲラーの絵も当然見ているだろうし…

梶原緋佐子の展覧会を見たのはもう随分昔のことだ。手元にある図録を見ると1991年ではないか。
京都の高島屋で見たように思う。その時、絵の変わりように驚いた。
わたしは晩年の綺麗な婦人像ばかり見ていたので、初期の社会派的な作風を知らなかったのだ。
昭和初期から突如として優美な婦人像が描かれる理由について、彼女は言葉には残さなかったが、これは重苦しさが限度を超えた世相への華麗なる反抗だと思う。
もう、大正までの社会の底辺をうごめく人々を描くことが出来なくなるほどの、時代・世相の悪化を実感したのだろう。それで絵が変わった。
この「老妓」は大正中期の作品である。飾られているのは写楽の「二世瀬川富三郎」か。


なまなましい女を描いたのは京都画壇だった。
中でも佐渡出身の麦僊から「穢い絵」と決め付けられた甲斐庄楠音は実際「あやしい絵」を描いていた。

踊る女達はなにやらグロテスクな魅力を放っている。

この赤。内臓のうごめきを思わせる。

発表当時大変人気の高かった「横櫛」の京近美版


着物の細部を見る。




大阪展では広島県美の「横櫛」も出る。


甲斐庄は日本画壇を離れてから溝口健二の映画製作スタッフになり、多くの仕事をした。
「雨月物語」の娼婦たちなどは彼の絵から抜け出てきたようにしか見えない。
溝口組の他にも「旗本退屈男」のあのハデハデ装束を御大市川右太衛門(北大路欣也の父)に着せて、世間に「旗本退屈男」のイメージを定着させたのも甲斐庄だった。
やがて晩年のかれは京都の名士の一人となり、再び絵筆をとるようになった。
彼の死後、その生涯を追った栗田勇は「女人讃歌 甲斐庄楠音」を執筆する最中、未完の大作「畜生塚」を発見する。








悲痛な運命を嘆く女達、諦念を懐く女達、いまだどうしても納得がゆかない者もいる…
「殺生関白」と呼ばれた秀次の乱れた生活に巻き込まれた数十人の女達。
処刑を待つその一群の姿を描く。

苦しむ女を描いたのは甲斐庄だけではない。
秦テルヲもまたその描き手だった。

かつて練馬区立美術館で回顧展を見た時、その重さに苦しんだ。
ただ、かれの絵日記などでようやく息をつけた。
そのうちの一点

働く人たちがいる。

この絵が発見された時のことをよく覚えている。1985年。
岡本神草 拳を打てる三人の舞妓の習作

当時まだそんなに日本画に興味があったわけでもないのだが、このニュースにはなにやら興奮した。
その発見から様々な事情をまとめたのが「美の巨人」で、まだその放送回のまとめ記事は生きていた。
こちら
絵が全景を取り戻してよかった。

続く。

あやしい絵展に溺れる その2

2021-08-09 21:07:14 | 展覧会

初めてミュシャの絵を見たのは高1だった。
夏休みが明日から始まるというので、友人宅で打ち上げをした。
そのときに出会った。
常にミュシャの絵と様々な記憶とが絡み合って蘇ってくる。






バーン・ジョーンズ「flowerbook」より。
このシリーズをまとめた本が手元にある。懐かしい出版社。

浮世絵もある。

雷鳴と凄まじい雨の描写。

早世した田中恭吉の版画
百年前の若者の描いた幻想


青木繁を集めた章がある。
神話への憧れ
明治の若者が夢みたもの。
かれは日本神話と天平時代とを多く描いた。
百年後の人々はかれの描いた天平時代に強く惹かれ、神話の絵にときめいた。

黄泉比良坂 明治36年すなわち1903年
この年は豊饒の年であった。
八雲は帝国大学を退職したが、学生たちにときめきを残した。
漱石が英国から帰り、露伴が活躍し、そしてまだ若い鏡花が「風流線」を世におくった。

伊弉諾を追う黄泉醜女たちが桃を投げ擲たれる様子。改めて眺めると、こちらを見る女もいた。
恐らくこの女も青木の恋人・福田たねか。


大穴牟知命  この絵も来ていた。東京へ見に行ったのはこの絵がここでだけの展示だからだ。これは撮影禁止。
わたしがこの絵を知ったのは高校の時熱狂した谷川健一「魔の系譜」に一生丸ごと充てられていたのを読んでのことだった。つまり本物を見るより先にわたしは谷川健一の文章世界に溺れ、それから実物を見るまでの長い間、妄想に焦がされ続けたのだ。
社会人になってから青木の画集を買ってその絵を見たが、やはりよかった。
本物を見た時、谷川の文章とわたしの妄想とが入り混じったものがようやく昇華した。

今回の展覧会でもしかするといちばんクローズアップされているのは橘小夢かもしれない。
かれの回顧展はこれまでに弥生美術館で行われている。
その後も二、三度やはり「あやしい絵」を集めた展覧会で主要な作家として作品が集められた。
実際大阪での展覧会の告知ポスターとして車内吊り広告にかれの絵が使われている。

安珍に巻きつく歓喜の清姫

鏡花の「高野聖」は多くの芸術家を魅了した。
ここでも清方、川端龍子らの絵がある。
小夢もまたモノクロ、それから彩色の絵を残した。



迷い込んだ男たちをおもちゃにし、飽きるとさまざまな生き物に変化させる力を持つ女。
中国に伝わる「三娘子」から「旅人馬」の話が本朝に伝わったのは江戸時代だが、鏡花はその物語を更に妖しく進めたのだ。

だが、男の変化ものよりあやしい生命体としては女の方が多くの人を歓ばせた。

水島爾保布「人魚の嘆き」がある。
挿絵はモノクロの静かな美をみせるが、彩色は魚類の生臭ささえ感じられる。
中公文庫版の谷崎の小説群は挿絵もそのままのものが多い。
「人魚の嘆き・魔術師」「鍵・瘋癲老人日記」「聞書抄」などがそれである。
わたしは水島の人魚しか知らなかったが、名越国三郎のそれが発禁処分になったというのを後に聞き、一度くらい見て見たいものだと思っていたが、この絵を発禁にしなかった政府が、どのような絵を発禁にしたのか、妄想を逞しくしていた。ただ、名越といえば草花を摘む女の絵を1990年頃から見知っていたので、どうもよくわからないままなのだった。
今回少しばかり調べるうちに興味深い論考を見つけたのでご紹介する。
「人魚の嘆き」挿画考~挿画家の謎

ところで水島はビアズリーにたいへん影響を受けていた。
日本でビアズリー、ミュシャの影響を受けた画家、マンガ家は数多い。
中でも画力の高さを誇る作家の方がより多くかれらの絵を自作に引用している。
わたしがビアズリーの「サロメ」を知ったのは手塚治虫「MW」からだった。
リアルタイムに連載を読んでいたので小学生の時に知ったのだ。
ただそれ以前にそうと知らずビアズリーの絵をモチーフにしたものを見ていたことに、後年気づいた。
高階良子「血まみれ観音」である。時計塔のある洋館に飾られた絵画が実はビアズリーの作品の転用だった。
あの絵が飾られていたことで、洋館がいよいよ謎めいて見えていたのである。
そのビアズリー「サロメ」を掲載した本が出ていた。


つづく