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花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた

2021-06-08 23:00:18 | 展覧会
「京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完了記念
花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた」
タイトルが長いのだけど、まさにそれ。

京都文化博物館で6/4から始まった展覧会、その二日目に出向いた。
道筋としては久しぶりに大丸京都店の地下を通って錦の出口に出るのだけど、百貨店が開いてて、賑わっている、と言う状況が嬉しくて嬉しくて。(対コロナ的にはあかんけど)
なんしかごの御時勢だからなあ。
それでふと見れば売り場が変更されてて、矢印に従って歩くと鳴海餅も阿闍梨餅も場所が変わってた。
阿闍梨餅はカフェIORIの方になってましてな。
それでわたしは箱ではなくばらで購入する。またね、というのがいいよね。

こういう看板にそそらるわけだから、いかにわたしがにぎやかな街の様子が好きかがわかるというものだ。

中世末期から現れ始めた裕福な商工業者が自治を尊び、横のつながりを強くし、儲けることを身上に、文化の隆盛も担い、「町衆」として大きく踏み出した。
別に生粋の京雀でなくとも京都の地で繫栄し、京都に富と文化とを齎した連中は少なくない。ついうっかりするが、利休なども堺の商人なのだし、それが京都で文化の中心に鎮座ましまして、ついに四百年すぎた。
その間に色々あり(過ぎるほどあって)、150年ほど前には天皇も東京へ行ってしまったが、それも「遷都」とは決して言わない。「奠都」という言葉がそこに現れる。
なるほどなあ、と「浪花のことは夢のまた夢」のぜーろくからすれば実は他人事なのだが、今回この展覧会で「天皇東行」という言葉を見て、ヒャーッになった。
「東京行幸」ではない。
そういえば歴代の天皇で東へ行ったのは…いてはらへんのではないか。
天皇の子息は行ってるよ、古代に。倭建命は東征して焼津であっちっちっになっている。
まあ帝のおわした時代の文物を眺める展覧会なのだから、話を京都へ戻しましょう。

「花ひらく町衆文化 近世京都のすがた」
それも「誓願寺門前図屏風修理完成記念」なのである。

というわけで早速京都文化博物館の四階へ参りました。
するといきなり18世紀の「鴨川納涼図屏風」の部分拡大が現れて、おいでおいでをするわけですね。
ほんま言うとわたしなぞもこの中に入って「ああ、おもろいな」と言いたいところですがさすがに三次元キャラなので二次元には入れない。
その替りというのも語弊があるが、これらの屏風や当時の町衆の書いた手紙などを展示してあるのを見て回るのです。

前書きが長いのは常なので、あまり気にしてはいけない。
久しぶりの好きなタイプの展覧会なので喜んでいるのです。
さて、本当に感想を始めます。

京都地図屏風 19世紀  北を右に配置した地図。碁盤の目の町中は縦ではなく横広がりに表現。琵琶湖は中央下になる。その手前に山並みがもこもこ。
本圀寺、西本願寺がやたらと大きい。実際にそうだったのか、そう描きたかったのかは知らない。
西はこれは北野天満宮だろうか。「小野」にみえるが「北野」と思った方が妥当か。すぐそばに地蔵院もあるし。←椿の地蔵院。それから紫野もある。
そういえばこの地図は2015年以来の再会。
「左端には東寺、右端が鷹が峰」と当時のわたしは記している。


いよいよ岩佐又兵衛が描いたと伝わる誓願寺門前図屏風をみる。
これは修復前のを見ているが、わたしのような者にはどの辺りがよくなったのかあまりわからないので、こうして濃やかな解説があるのは嬉しい。
なお前回の展示の感想はこちら。2015年だったのだね。
京を描く 洛中洛外図の世界 2


桃山時代の作品なのは確かだそうである。修復していてもちょっと暗い。
五年ばかり調査と修理をした結果、いっとき襖絵に使われていたことがわかったそう。
賑やかな様子が描かれている。
修復の様子も紹介されている。



思えば天正19年に今の新京極に移転したわけだから、又兵衛が何歳くらいの頃に描いたかは知らんけど、完全に同時代の様子なのだよな。落慶法要は慶長二年だそうだし。
それから四百年以上経ったが今もあるものなあ。小さくなったけれど。
こちらは当時の様子

そして場所柄人の行き来するのが多いのは昔も今も変わらず。
コロナ下でえらい目に遭う日々だが、この展覧会観た後に通ったら、やっぱり人出が多かった。

桃山から江戸初期の食器の欠片をみる。
三条通の町家の並んでた辺りから出土。龍池町か。これはここの所蔵。
志野焼が結構多いな。ほかに瀬戸もの、美濃、織部。
今出川大宮の京都市考古資料館にもたくさん出土品があるが、そこでも志野、織部、唐津などをみている。
菊をモチーフにした皿、千鳥柄もあり、復元したものも並んでいるのでわかりやすい。

時代が下がり鍋島焼もある。大名間の贈答品ではあるが、豪商も鍋島焼を手に入れる状況があったのだな。染付で宝尽くしらしき文様が見える。柳に鷺の図の皿が参考に出ていた。
七宝繋ぎらしき文もみえる。

洛外名所図屏風 北川本 17世紀  西京あたりの名所図。
どうでもいいことだが、友人に高野の住人がいて、彼女も洛外人になる。
1金閣での茶会らしき様子がある。3下に北野天満宮、その門前で牛の大きな絵馬を運ぶ人がいる。
5相撲を楽しむ連中。6大堰川の様子。



大井川春遊図屏風 17世紀  これは静岡のではなく嵐山に流れる大堰川なのだった。川遊び、筏師、花火もある。

洛中洛外図屏風 狩野益信 18世紀  清水から始まる。その下には方広寺。大きな大仏殿。4,5に四条、芝居小屋も。左は愛宕山?川がやたらと多い。秘して全体的に山水画風な味わいがある。

書状も色々。
片桐且元、前田利光のは大仏づくりの件で、これを見ると「ああ、徳川にやられやがって」という気分になるのよな。
17世紀初頭頃には町衆の中でも後藤家の力が大きかったようで、彼らとの交流を示すものがいろいろ出ていた。
加藤清正からは「虎の皮と大皿くれてありがとう」…清正が・虎の皮を・もらった のだ。
小堀遠州との関係は深いようだ。仲良しさん。伊庭山の松茸、海老のお礼などがある。
遠州が書いた手紙への返事、それへの返事を一枚の書状で綴る。こういうスタイルを勘返状というそう。
メールでも元メールを載せたままの所へ新しい返事が来てて、それでまた…と言うのと同じですな。

後藤庄三郎邸址の出土品がいい。今の新風館のところに当たる。鳴海織部、美濃の鉄釉、長石釉、白っぽくなった黄瀬戸、唐津の大皿、肥前のウサギ柄のものも参考に出ているが、陶磁片から見るともとはこれらしい。

慶長大判・小玉銀  銀が黒くなった。金と言えば高島屋のCMを思い出すね。

柄のついた鏡が世に出るのは随分と遅かった。室町の末頃からだという。8種のサイズの規格が定まったそう。
ずらりと並んだのは実際に使われたもの。背面の文様の豊かさは平安の頃と変わらない。
桜、梅、鶴、松、蓬莱、「源氏」の文字のみ、なかなか面白い。

この鏡の鋳造の工房の遺物も出てきた。鋳型が比較的楽になるような工夫がある。
模様をつけやすくするためにつけられた工夫も面白い。

十二ヶ月図屏風 狩野永敬 元禄七年以前  大方は定家のそれを絵にするのだが、これは珍しく畠山作匠亭の歌を絵にしている。だからちょっと違う感じもある。
それで畠山匠作亭とは誰か、何か、ということを後で調べたところ、研究者の方がこう記していた。
「能登畠山家二代の畠山阿波守義忠の自邸で催された歌会の「畠山匠作亭詩歌」を絵画化。
和歌は一条冬経ら12名の寄合書き」
などとある。上に和歌、下に絵がある屏風。
またさらに調べると、内容の画面が公開されていた。


町衆の力は大きく、陶片を見てもその豪華なラインナップから様々な情報を得られる。
華南三彩、李朝の白磁、伊万里焼などなど贅沢なものが出土している。

幕末の騒乱の前の四条河原納涼図が二点並ぶ。
呉春の弟子・紀広成と横山華溪の嘉永五年のもの。
四条も五条も賑やか。
華溪のは左上に月も出て、祇園の赤い提灯も並ぶ。
紀はシンプルにシルエットな人物ながら、よく見ると色々と描き分けられている。

リアルな町衆の暮らしの一端も書状などから伺える。
引っ越しの理由や商売をするにあたっての取り決めなどの保証書などがある。
今も昔も「汚すな・他人に迷惑をかけるな・騒ぐな」ということである。
場所が今の東華菜館辺りで髪結い床の新規開店、この近くの三条高倉上るで生簀の料理屋などなど。

幕末のどんどん焼けの瓦版もある。そりゃまあこの時代はまた京都がやたらと舞台になりましたよな。
真面目なニュースとしての瓦版が展示されていて、天龍寺、二尊院の焼失が記されている。
元治元年のとんでもない話。
なんしか洛中がほんまに焼けてしまったからなあ。
昔の太郎焼亡次郎焼亡との比較は出来ないが、どちらにしろこれはひどかった。

蛤御門の変に使われたマスケット銃の弾もある。ははあこれがか。400m南の民家からみつかったそうな。
そういえば鳥羽伏見の戦いのとき、対岸の島本町立歴史文化資料館の界隈に流れ弾が飛んできて被害があったそう。六年ほど前に行ったとき、現物を見た。


さてその被害の現物がここにも展示。
曇華院前町にあった頃の曇華院の焼け焦げた瓦類。丁度この文化博物館のほん近くというか、物凄くご近所さん。…ここなのか? 知らんけど。
水の上の龍、ひまわりみたいなの、巴文などの瓦がよく焦げつつも残っている。
このお寺もそのせいで嵯峨野へ移転。

そして焼け焦げたり割れたりの陶磁器がまたまた現れる。
下京区東錺屋町辺りからの出土品。
景徳鎮の青花、欧州の染付、三田焼のオリーブグリーンの青磁、古九谷、柿右衛門…
贅沢な器である。…もったいない。

森寛斎 京新名所四季図屏風 1873  明治になっての絵。新時代をイメージしてるのだ。
春…円山公園、吉水温泉、今のお宿吉水
夏…三条大橋の鉄橋化。人出が多い。
秋…集書院(図書館)紅葉が可愛い。
冬…京都府中学 勉学の場所

明倫小学校の明治の頃の様子を写した模型もある。京都の番組小学校の1。
京都の中学、女紅場などで使われた古い教科書も。



そして谷口香嶠 出町柳農婦 明治の初期の庶民はまだ江戸時代と同じような暮らしぶりの人も少なくなかった。

出口付近には吉田初三郎の京都市街の鳥瞰図のパネルもあった。

最後にちらしにもなった鴨川納涼図 ちょっとばかり。
描かれてる人々が本当に可愛くてね。夏だから瓜をよく食べてるようで、まさに「瓜売りが瓜売り帰る」

色んなお店や楽しそうな人々。
夏の楽しさがここに集約されている。

7/25まで。


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