うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

ナショナルnational

2022年03月04日 | ことばを巡る色色
もうすぐパラリンピックが始まる。その前に北京の開会式閉会式について思ったことを二言三言。
中華の十二節、若葉のそよぎ、飛ぶ柳は美しかった。春節にやってきた世界の祭りを唄う。そうきたか、そうでなくっちゃね、と思ったよ。
で、その続きは、ね。
Appleのような、UNIQLOのような、Googleのような、 Coca-Colaのような、MUJIのような、シルクドソレイユのような、CM見てるような既視感。
おしゃれなものを作ろうとするとこうなってしまうのだな。
自らの文化をしめしながら、創造することのなんと困難なことよ。
他と違うということを違う人に向けて伝えることの、なんと困難なことよ。
いつしか自分も借り物の目で自分のものを見ているのだな。張芸謀でさえ、そこから抜け出せないのだな。正直なとこ、どんなすごいもの見せられるのかとビビってたんだけど、ショウジキなとこ、あんま、すごくなかったね。
どこかでみたような、丁寧でおしゃれなような、心を揺さぶりたがっている何か、でしかないもの。

そして、また、それとは別の問題ではあるが、母文化、祖国とは何かを考えてしまう。遠い記憶の中では一つの国であったのに、今は侵略するものと侵略されるものとなっている、幾つもの場所。同じ文化を持ちながら別の国となっていたり、全く別の文化なのに同じ国となっていたり。「現実」はおしゃれな映像になぞできぬのだ、というのが今日の現実だ。

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