哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

呪術師,寄合,メディア

2016年08月26日 | yyy52私はなぜ新聞を読むのか


今、私の周りは、どうなっているのか?現時点での現実の状況を表示する信頼できる情報の流れに身体を浸している必要が、私たちにはあります。信頼できるかどうかは、理論ではなく、直感でそう感じられる必要があります。
かつて、それは呪術師であったし、中世の講や寄合だったし、族長や長老の説教だった。しかし時代時代で、最も信頼できるものは変わっていきました。それはその時代のマスメディア、つまり前世紀前半までは、新聞であったしラジオでもあった。







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現実を言葉で聞き取る

2016年08月25日 | yyy52私はなぜ新聞を読むのか


身の回りに広がる現実を言葉で聞き取ることで、私たちの身体は安心を得る。そのような機構が人間の身体に備わっているとすれば、そこに現代の新聞、テレビ、あるいはインターネットがなりたっている、といえます。







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幻想や精霊の動き

2016年08月24日 | yyy52私はなぜ新聞を読むのか


さらに原始時代、人々は事実と幻想と伝説が入り混じった現代人には不可解な世界観の中に生きていたと思われます。そこでも毎日、伝聞や幻想や気象や精霊の動きを見聞きして身の回りの変化をつかんでおくことは重要だったでしょう。







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怪しげな情報源

2016年08月23日 | yyy52私はなぜ新聞を読むのか


たとえば江戸時代、村や町には寄合というようなものがあって、人々は情報交換、つまり噂やゴシップを楽しんでいたようです。人事情報、犯罪のニュース、物価相場、あるいは宗教的な説教や道徳教育もあったかもしれません。今の新聞に書いてあるような種類の情報を、それらの集会あるいは辻の立ち話で見聞きしていたのでしょう。それは現代の私たちの見方では、不正確な怪しげな情報源ですが、そのころの人々には現実そのものでした。








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潜在的に受け入れる体質

2016年08月22日 | yyy52私はなぜ新聞を読むのか


新聞などなかった江戸時代、あるいは室町時代の人は、現代の新聞のようなものを受け入れる体質を持っていなかったのでしょうか?分かりません。さらに昔の文字がない原始時代の人々の身体であっても、潜在的には、新聞のようなものを受け入れる能力があったのでしょうか?









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