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山崎山公園4

2023-07-31 23:51:08 | 之波太:柴田

昭和12年、船岡村に海軍火薬廠が進出するにあたり、65戸の移転、電信、電話

並びに送電線の移設、道路、排水路の付け替え、墓地の移葬等が行われた。

当時は何月何日まで移転しなければ、火を放って焼いてしまうという軍の命令が

あったらしく、移転者は慌ただしく移転した。

こういうことは現代ではとても考えられないことである。

当時、農業で生計を立てていた人達は小作人が多く、家屋の構造は萱葺きが多かった

ようで、時間の無いまま強制移転させられたということである。

(柴田町史 通史編2)

明治時代になって船岡の飯淵家の墓地公園となり、大正時代から昭和初期にはいろいろな

樹木が植えられ、回遊して楽しめる散策路として紹介されている。

当時は中腹に墓守の家があったと伝えられている。

火薬廠本部(現・仙台大学)近くの山崎山公園の敷地は廠長・高等官の宿舎用として

火薬廠用地に接収されました。

墓地の移転先は角田市神次郎の日蓮宗・法光山妙立寺です。飯淵七三郎の大きな墓石他

多くの飯淵家の墓石が移転されました。慌ただしく移葬したせいか、数基の墓石が

山崎山公園に残りました。


山崎山公園3

2023-07-30 23:19:16 | 之波太:柴田

 迅速測図 槻木(2万分の1)

 明治23年測量 明治27年製版 陸地測量部・第二師団参謀部 

左下に「山崎山公園」が見える。明治23年頃、すでに公園と呼ばれていた。

公園を調べてみた。

日本における近現代公園史  -Wikipedia-より

日本の公園は、明治時代以降に開設された。これより以前に、江戸時代には仙台に桜の

馬場(元禄8年(1695)) 現在の榴岡公園)など各地に馬場が存在し、社寺境内と同様に

鑑賞樹木を植栽し見世物小屋や射的、茶屋などが出店しにぎわいをみせていた。

明治に入ってからは神戸の外国人居留遊園(明治元年(1868))と北海道開拓史偕楽園

(明治4年現存せず)、横浜の山手公園(明治3年))が存在した。明治期に入って

からすぐのものは、居留地の外国人専用などであり、日本国民にとっては公園ではなかった。

太政官布告による公園整備

日本では、明治6年(1873)1月15日の「明治6年太政官布告第16号」において、

『三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊観ノ場所

{東京ニ於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、

嵐山ノ類、総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類} 従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽

ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右地所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添

ヘ大蔵省ヘ伺出ヘシ』

と定め、上知令により旧社寺地等を接収し公園としたのが営造物公園制度の始まりである。

この布告で1873年3月25日国内最初の5公園が正式指定され、明治20年(1887)頃までに

約80ヶ所の公園が全国で設置された。

 

明治20年頃までに約80カ所の公園が全国で設置されたとある。

この中に、山崎山公園が入っているのか?

旧社寺地等を接収し公園としたのが営造物公園制度の始まりである。

とある。山崎山公園も墓地であったので、旧寺地を接収した公園が合致するが・・・。

もう少し調べる必要がある。

 


山崎山公園2

2023-07-29 23:36:08 | 之波太:柴田

山崎山公園の史料の続き

正式測図 舩岡(2万分の1)

明治40年測量 明治43年印刷 大日本帝国陸地測量部

山崎山公園のところに墓地の地図記号が見える(赤矢印)

 

迅速測図とは、明治政府が作成した、日本で初めての広域で近代的な測量による地図。

この時代、三角点や水準点など、厳密な測量に必要となる基準点があわせて整備され

つつあった。迅速さを旨とするこの地図のあと、基準点測量に基づく正式測図が作られた。

 


山崎山公園

2023-07-28 23:10:06 | 之波太:柴田

 山崎山公園が初めて出てくる史料

 迅速測図 槻木(2万分の1)

 明治23年測量 明治27年製版 陸地測量部・第二師団参謀部 

左下に「山崎山公園」が見える。明治23年頃、すでに公園と呼ばれていた。

迅速測図と正式測図

迅速測図とは、明治政府が作成した、日本で初めての広域で近代的な測量による地図。

この時代、三角点や水準点など、厳密な測量に必要となる基準点があわせて整備され

つつあった。迅速さを旨とするこの地図のあと、基準点測量に基づく正式測図が作られた。

 

 


山崎山公園の墓石

2023-07-27 23:44:36 | 之波太:柴田

船岡・山崎山公園内に墓石があります。

昭和12年、船岡村に海軍火薬廠が進出するにあたり、農地・宅地・山林等が買収されました。

火薬廠予定地内の民家も強制移転されました。

期限を決められていたため、慌ただしく移転しています。

山崎山公園も宿舎用地が不足することから、公園敷地が軍用地として接収されました。

藩政時代からこの山崎山公園は船岡の飯淵家の墓所でした。

慌ただしく墓所が移転したため、見逃された墓石があったと思われます。

昭和55年、山崎山公園一体は「こどもの森」として、遊歩道や東屋が整備されました。

その際、残されていた墓石が見つかり、六地蔵周辺に集められました。

このことを飯淵家の方にお話ししたところ、移転先の角田市神次郎の妙立寺の住職と相談し、

墓石に戒名が刻まれていたので、過去帳を調べていただきました。

妙立寺へ移転することになり、先日、墓石の心抜きが執り行われました。

お経あげる住職。右に墓石数基が見える。

移転作業は秋頃を予定。