稲村亭日乗

京都の渓流を中心にルアーでトラウトを釣り歩いています

駆除のために「天敵」を放つことの危うさ

2024年09月04日 | 日々
 9月3日、環境省が奄美大島でのマングース根絶を宣言した。

 果たしてできるのか?と案じていたぼくには驚きつつもうれしい話だ。

 元々は猛毒のハブ、それに農作物を食い荒らす
野ネズミ対策として1979年、30匹ほどが放たれたそうだ。

 しかし効果は上がらず、逆に絶滅危惧種の
アマミノクロウサギが減るなどで、駆除に乗り出したようだ。

 いや、ぼくもずいぶん以前に
テレビで毒蛇とマングースの対決映像を見たことがある。

 マングースが毒蛇を仕留めるところをみて、
「これはすごい、これならハブ退治もできる!」と確信したものだった。

 が、後で聞いたところでは、マングースも命がけであり、
わざわざ危険をおかして毒蛇狩りなどはせず、もっと捕食しやすい生き物に向かうはずだと。

 さらに、ハブは夜行性であるのに対し、
マングースは昼間に活動するということで、元々無理があったようだ。

 そんな基本的な知識や熟慮もないまま放ってしまったとは・・・。

     

 しかしマングースの移入は1870年頃から
世界各地で行われており、今になってみんな困っているそうだ。 

 根絶は簡単ではなく、今回のケースはとても珍しいとか。

 奄美大島で根絶できたのは、
国や島民の一丸となったねばり強い取り組みがあってのことだろう。

 比較的小さな島であったことも幸いしたかもしれないが、
20年余りに及ぶと聞く気の遠くなるような努力には頭が下がる。

 アマミノクロウサギの個体数が順調に増えているのがうれしい。

 ある種の生物を駆除するために、
安易にその「天敵」なるものを放つという考えがいかに危ういことか。

 この教訓は大きい。
 
 
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トラウト釣りから見た笙の川

2024年08月20日 | トラウト
 笙の川との出会い
 トラウト釣りでは、
ぼくは特定の川に固執せず、なるべく多くの川に入ることにしてきた。

 そうしているうちに出会ったのが笙の川で、その後の最大のお気に入りとなった。

 何がいいのか?といえば、ひとつには遊漁期間全体を通じてよく釣れること、
もうひとつはこの川で釣れるトラウトが、元は放流されたものであっても、
自力で繁殖し、生育するものが多いと思われることからだった。

     

 漁協のていねいなアマゴ放流
 笙の川は日本海に注ぐ。

 当然、元々はヤマメの川だ。

 ところが、ぼくが通い始めたころ、釣れるのはヤマメでなくアマゴばかり。

 これは漁協が釣り人の要望に応え、
長年アマゴを放流してきたからで、この事情は美山川(京都)などと同じだ。

 そこでぼくはぜひとも在来種のヤマメを釣ってみたいものと思い、上流にもよく足を運んだ。

 例えばこの水系の一部を成す黒河川での体験。

 林道をずんずんさかのぼり、山深い釣り場に到着。

 「このあたりまで来ればヤマメか?」
 と思ったが、釣れるのは朱点鮮やかなアマゴばかり。

     

 そこから釣り上がり、大堰堤に遭遇。

 「この堰堤の上ならヤマメがいるのでは?」

 いやそこもアマゴ、さらに・・・。

 いやはや、こんな最上流部までアマゴだとは!

 しかも、この状況は、支流の五位川や麻生川などでも同じなのだ。

 ここを管轄する漁協(敦賀河川漁協)は
なんと広くていねいにアマゴを放流していることか! 

 ぼくには驚きだった。
  
     

 アマゴからヤマメへの転換はしたけれど
 ところが、2014年だったか、県の指導で放流はヤマメに戻された。

 漁協事務所でこの話を聞いたとき、ぼくは思った。

「それはいいこと。すると、笙の川では
これから急速にアマゴからヤマメに変わっていくことになる」と。

 で、ほぼ10年後の現状はどうだろう。

 確かに本流部、中流部ではヤマメが優勢だ。

 しかし、少し上流部にいくと今もアマゴが優勢なのだ。

 これは何を語っているのか?

 つまり、ヤマメは中流部あたりで放流されるが、
堰堤にはばまれ、上流には向かえないのだ。

     

 その結果、既存のアマゴたちは堰堤の上流で居続けることになる。

 これは昔と違い、今の漁協の放流範囲がかなり狭くなっていることの証だろう。

 豊かな笙の川 生き延びるアマゴたち
 が、他方では、アマゴたちの健在ぶりはすごいことでもある。

 笙の川、エサ釣師も含め、釣り人はけっこうおり、持ち帰る人もいるはず。

 それでも、追加放流がなくとも、
彼らは上流部でたくましく自力で世代交代を重ねているわけなのだから。

 冒頭に記したぼくにとっての笙の川の魅力はここにあった。

 いずれにしても、この川が
永遠にトラウトたちを生み育てる豊かな川であり続けてほしいものだ。

 笙の川、ずいぶん楽しませてもらった。

 ありがとう、さよなら。

     

 付記
 なお、ぼくとしては笙の川だけを特別視して賞賛するつもりはない。
 他にもトラウトたちが自力で豊かに世代をつないでいる川も少なからず見聞きしてきたからだ。
 こうした川がこの先もずっとその力を保ってくれることを願うところだ。
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大事故にならなくてよかったクイーンビートルだが

2024年08月15日 | 日々
 博多と釜山をつなぐ高速船「クイーンビートル」。

 浸水を知りながら、それを隠して運航を続けていたという。

 しかも、浸水の警報が作動しないよう、
センサーに手を加えていたというから手が込んでいる。

 浸水量はずっと記録されていたが、
航海日誌にはずっと「異常なし」と記載されてきたという。

 素人たるぼくには、
この浸水が沈没などにつながるのかどうかはよくわからない。

 ただ、最初に浸水がわかった今年二月から、徐々に量が増えていたようで、
浸水箇所が拡大あるいは増加していたとすれば恐ろしい話だ。

     

 情けなく思うのは、
ここずっと続いている自動車産業に代表されるウソや改ざんなどの傾向だ。

 日本の仕事への誠実な姿勢、
世界からの信頼がとどまることなく崩れていくようで哀しい。

 ただ、今回の発覚は8月に行われた国の抜き打ち監査によったそうだ。

 だとすれば、国の担当者はよく見つけたものだと思う。


 いや、ひょっとして内部通報でもあったのか?と思わせもするが。

 いずれにしても内部関係者の良識に限界があるとすれば、
様々な方面からの「歯止め」に期待するしかないという、この哀しい現実。
 
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12月のイワナ

2024年08月11日 | トラウト
 12月にイワナは釣れるのか?
 何年か前の12月。

 ある日、一本の電話が入った。

「神田さん、12月にイワナは釣れますか?」

 電話の主は知り合いの大学の先生だ。

「さあ?どうでしょう・・・」
「研究上、○○川のイワナのサンプルが急に必要になりまして・・・」
「でも、今は禁漁期ですから・・・」
「いえ、〇〇川を管轄する漁協はありません。
 ただ、今の時期の捕獲は条例(都道府県)に抵触するんです。
 でも、そちらの方は私から大学を通じて関係局に許可を申請しますから大丈夫です。
 同行してもらえませんか?」

 そういうことならと引き受けた。

 とはいえ、解禁時のぼくの経験からは、寒い時期のイワナは釣りにくい。

 果たして釣れるのか?
 
 水温7℃の川で
 さて、12月半ば、ぼくは先生とその川を訪ねた。

 見上げる山々の峰はうっすら白く、山道の所々にはザラメ状の雪。

     

 間もなく小さな流れを見つけた。

 盛期であれば、比較的簡単にイワナが釣れそうなところだ。

     

 入ってみた。

 しかし、まったく反応なく、悪い予感。

 水温は7℃。

 イワナたちはどこか深いところでジッと耐えているのではないか?

 そこで、この川の主流部に入ることにした。

          

 ぼくはやや深くなったところをねらってミノーを送り込んだ。

 すぐに黒い影がミノーを追ってきた。

 が、食わずに反転。

 居たっ!

 しかも動きは早い。

 これは予想外で、驚きだった。

 第二投目にも黒い影、しかしこれも食わずに反転し、あとは沈黙。

 これは釣れそう!とそこから釣り上がることにした。

 イワナたちはもう産卵を終えているだろうから、
ぼくらは産卵床を傷めないよう岸や護岸を伝って歩いた。

 次の落ち込み、ここでぼくの竿が曲がった。

 イワナだ。

 ぼくの当初の心配をよそに、12月のイワナはあっさり釣れた。

     

 その後岸際を歩くと、驚いたイワナが下流に向かって逃げていく姿も目にした。

 全般に川は浅かったが、イワナの密度はかなり高いと思われた。

 こうしてぼくは比較的短い時間で3匹(16.22.23cm)のイワナを釣った。

 この時点で「もう十分です。このあたりでやめておきましょう」と引き上げることにした。

 12月という時期のイワナ
 そんなわけで、12月のイワナは意外にもあっさり釣れた。

 しかもイワナたち、2月や3月の解禁時に比べれば、
瘠せ衰えはみられず、動きも活発に見えた。

 思うに、夏から秋に貯えた体力がまだ十分残っているからなのだろう。

 歩きながら川面や山道を見回した限りでは虫は一匹も飛んでいなかった。

 イワナたちにとっては、これからが本格的に厳しい寒さ、そして空腹の季節となるようだ。

     

 先生のおかげで12月のイワナ釣りという貴重な体験をさせていただいた。
 
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古座川アマゴへの思い

2024年08月03日 | トラウト
 古座川への夢
 南紀を代表する古座川。

 ぼくにとっては子どもの頃から慣れ親しんできた川だ。

 竹を切ったヤスでアユを追った日々もなつかしい。

 この川の水がかすかに帯びる青あるいは緑の色合い、
それは思わずうっとりするような深い透明感を伝えてくれる。 

 その古座川でぼくが初めてアマゴに出会ったことはすでに書いた。

 以来、ぼくはこの広い古座川水系の隅々までアマゴを釣り歩きたいものと夢みてきた。

 望みはたくさんのアマゴに出会うこと、できればノボリ(サツキマス)、
そして古老から聞いていたイワナにも出会うことだった。 
  ( 本ブログ 2011.9.15「古座川 まぼろしのイワナ」参照 )

 こうして退職後、ぼくの京都からの古座川通いが始まった。

     

 きびしかった古座川釣行
 しかし、ほぼ3年かけた釣行も、結果はきびしかった。

 土地の人の話を聞きながらのノボリ釣りは、
結局大きなウグイをたくさん釣っただけに終わった。

 また、イワナについては土地の人々に聞いても
「知らない」というばかりで、情報もなく、やはり釣れなかった。

 この間、ぼくはアマゴが放流されたと思われる水域は避け、
できるかぎり支流の奥など上流部を重点に探った。

 その結果、支流の奥地などで、在来種と思われるアマゴたちに出会うことができた。

 これはうれしかった。

     

 アマゴがいるはずなのに
 しかし他方では、地図で見るといい支流なのに、
一匹も釣れないどころか、追いすらなかったところも多かった。

 ある日ぼくは古座川漁協の組合員の方に出会い、放流状況を聞かせてもらった。

 古座川漁協では三か所の定点放流で、それ以上の分散放流はしていないこと、
また漁協内では「アマゴの放流事業をやめよう」という意見もあるそうで、漁協の主な関心はアユだという。

 ぼくには放流方法があまりに乱暴では?という印象だった。

 というのも、この方法では放流されたアマゴは堰堤にはばまれ、その上流や他の支流には広がらないからだ。

 もう一か所の放流現場にも出くわしたが、ここでも同じだった。

 堰堤の分布状況を考慮しながら、もっと分散放流しては?
と思ったが、労力、予算などいろいろな制約があるのだろう。

 アマゴのいない支流や谷があることの背景には、こうした事情もあるようだ。
 が、気になったのはもうひとつのケースだ。

 これも地図で見るといい支流。

 しかし、アマゴの追いがない・・・。

 と思っていたら、かろうじて10cmあまりの小さいのが釣れた。

 そんな支流がいくつかあった。

 そこでのアマゴたちは型、数ともにとても貧弱に見えた。

 いったいこれらの状況は何を語っているのだろう?

     

 古座川アマゴの衰退という予感
 いい支流なのにアマゴがいない。

 これは漁協の放流の仕方が不適切だから?

 しかし、太古の昔にはアマゴはいたはず。

 ならば漁協の放流がなくとも、天然モノが自力で命をつないでいてもおかしくないはずでは?

 ここでぼくが推測したのは、
これは古座川アマゴの衰退を示しているのではないかということだった。

 そんなとき、串本の知り合いがぼくに言った。

 「和歌山県のあちこちの川でアマゴ釣りをしている人が言っていました。
 古座川のアマゴは放流事業をやめればすぐ絶滅ですよと」。

 この話を耳にしたとき、ぼくにもわかるような気がした。

 専門的なことはともかく、古座川は元々四国、九州などの南部と並び、
アマゴやヤマメの分布はほぼ南限といってもいいだろう。

 温暖化という長きにわたる環境変化のなか、
古座川のアマゴたちには自然の繁殖や生育がむずかしくなりつつあるのではなかろうか。

 数値的裏付けのない、ぼくの個人的推測ではあるが、この予感はぼくを愕然とさせた。

 さよなら古座川
 こうして、ぼくの古座川通いの結果は、残念ながら当初の期待に沿うものではなかった。

 それでも奥地でのアマゴたちとの遭遇のうれしさは何ものにも代えがたかった。

 せめて彼らがこの先、少しでも長くその命をつないでくれることを願うばかりだ。

 慣れ親しんできた古座川、いつまでもあの深い透明感を伝える美しい川であってほしいもの。

 ありがとう古座川、さよなら。

     

 
* なお、ぼくの解釈はあくまでも個人的な体験を基にした推測で、 
 ほかにもいろいろな解釈があることと存じます。可能であれば御教示願います。

* また、同じ古座川水系に属する七川漁協の放流状況については確認できていないことをお断りしておきます。
 
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心痛むネタニヤフ演説と米国議会

2024年07月26日 | 日々
 24日、イスラエルのネタニヤフ首相が米国議会で演説した。

 氏はガザへの攻撃を指してこう言った。
「これは文明同士の衝突でなく、文明と野蛮との衝突だ」と。

 だから文明側が勝利するためには、
米国とイスラエルが結束しなければならないのだと。

 ここでの「野蛮」との呼び方に
差別と憎悪に満ちたネタニヤフ首相の思いが見える。

 かつて虐げられてきたユダヤの民が
今やパレスチナの人々にその矛先を向けているかのようで、心が痛む。

 驚いたのは、その演説に大きな歓声をあげ、
ときには起立して拍手を送るたくさんの議員たちの姿だ。

     

 これがアメリカ国民を代表する意志なのだろうか。

 狂気のような異様ささえぼくには感じられる。

 演説に抗議の意思を表したり、欠席した議員たちもいたと聞くが、
少数であったとしても、それがせめてもの救いだ。

 が、あまりに遠い道のりに茫然となりそうだ。
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夏のアマゴを探して

2024年07月18日 | トラウト
 きびしい夏のアマゴ
 さて、先日も記したように、
ぼくは古座川をきっかけに久多川で本格的にアマゴ釣りを始めた。

 よく釣れた。

 ところが梅雨が明け、
暑くなるにつれ、アマゴたちはだんだん姿を見せなくなった。

 ぼくは、放流されたアマゴたちが釣り切られ、その数を減らしたものと解釈した。

 「アマゴとはそういうものなのか、また来年なのか」という気分だった。

 翌二年目、久多川に加え賀茂川水系の年券も買った。

 3月、賀茂川の解禁の日、京都市内とあって、たくさんの釣り人。

 割り込みもむずかしいほどだったが、隙間を見つけながらの転戦、転戦。

 解禁日はよく釣れた。

 楽しかった。

 しかしそれは一瞬のこと。

 アマゴたちは解禁当日、その大半が釣られ、釣り人たちもすぐにいなくなった。

 ぼくはしばらくは「落穂拾い」に通って楽しんだ。

 しかしそれも4月半ばくらいには終わった。

     

 こうして、ぼくの初期のアマゴ釣りは放流区域が中心だった。

 夏の日、上流でアマゴに出会う
 ところが、何年目だったか、上桂川に入った年のことだ。

 もう夏も終わろうという時季、ぼくはまだ落穂ひろいを続けていた。

 釣れなかった。

 ある日、上桂川でも奥地域にある広河原地区に入った。

 小さかったけれど、アマゴが釣れた。

 ところが、さらに2匹、3匹と釣れる。

 これはめずらしいと喜んだ。

 このとき、ぼくはハッと思った。

「ひょっとして、これは上流域あるいは支流だから釣れたのではないか?」と。

 ぼくは早速試しに上桂川の別の支流に向かった。

     

 本流と支流では水温が2度ほど違っていた。

 そうして、支流に入ると釣れるではないか!

 集中放流区のアマゴたちは釣り切られたかもしれないが、
上流部や支流のアマゴたちは夏でも健在なのだ。

 なんということ、ぼくはアマゴのほとんどいない水域を釣っていたわけだ。

 ベテランの諸氏に対しては恥ずかしいが、当時のぼくにとってこれは大発見だった。

 転機となった遠回りの末の「発見」
 ここからぼくの釣りは季節とともに場所を変えるものになっていった。

 当然といえば当然のことながら、
いかにぼくが情報や知識、経験を持っていなかったかということだ。

 当時、ぼくには渓流釣り仲間がいなかった。

 また、釣り場で教えを乞うルアー師に出会うこともなく、条件は悪かった。

 思い返せば、ひどい遠回りをしたものだった。

 それでもこの「発見」のうれしさは何ものにも代えがたく、
ぼくの渓流釣りにとっては大きな転機となった。
 
 
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「組織文化の問題」克服はできるのか?

2024年07月13日 | 日々
 12日、防衛省で異例といわれる218人もの処分。

 多くは海自関係の「特定秘密保護法」違反のようだ。

 海自といえば、先日も川崎重工への「たかり」同然の事実が発覚したばかり。

 加えて潜水手当の不正、何千万円にのぼるという。

 また、「不正喫食」なる「無銭飲食」まで。

 あまりにもセコいとあきれはてる。 

 結局、その財源は?といえば血税ではないか!

     

 辞任を表明した酒井良海上幕僚長が述べたそうだ。

「きわめて私の個人的な見解ながら・・・組織文化に大きな問題がある。
 個々の事案の対応策では対応できない・・・長期的な対策を講じなければ・・・」

 幕僚長としての責任を認めつつも、その「組織文化」なるものは
深く根付いており、改革は容易でないことを率直に語ったもののようだ。

 歴代の幕僚長が問題を認識しながら手を打たなかった、あるいは打てなかったとも考えられる。

 この種の難題の克服、つまるところ自浄は望めず、結局「外圧」頼みしかないのだろうか。

 ため息が出そうな気分になるが、一国民としてはこの機会を是非とも生かしてほしいものだ。
 
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高知でのプール死亡事故 思い出す学校水泳のこと  

2024年07月09日 | 日々
 高知のプールでの事故から
 7月5日、
高知の小学4年生がプールでおぼれ、病院に搬送されたが亡くなった。

 報道によれば、
その生徒が沈んでいるのを見つけ、引き上げたのは同級生たちで、
その時点まで三人いた教諭は誰も気づかなかったという。

 対処はすみやかだったのか?、
 また蘇生のための応急手当は施されたのか?

 いずれにしてもいたましい事故だ。

 これを機に、学校側が
水泳指導をやめてしまいはしないかという心配もまた起こる。

 思い出す学校水泳の日々
 こんなとき、ぼくは郷里串本の「学校水泳」のことを思い出す。

 ずいぶん昔、ぼくが小学生だったころ、
毎年7月ともなれば午後の授業は毎日海水浴だった。

 泳力に応じた等級制度もあり、
7級(5メートル)から1級(遠泳 1300メートル)まであった。

     
        ( 学校からの引率で )

 夏休みに入ると、
学校が指定した町内の三か所の水泳場で午後の2時間、海水浴ができた。

 PTAが組んだ当番制で、
水泳場ごとに3人くらいの保護者が毎日監視員として詰めた。

 ぼくら小学生は保護者なしでの水泳は禁じられていたが、
指定された水泳場なら小学生同士でも泳ぎにこられた。

 これが「学校水泳」だった。

 海で遊ぶのが好きだったぼくは友達と誘い合わせ、毎日通った。

 楽しくて楽しくて、夏休みがずっと続けばいいと思った。

 学校水泳の危うさ
 しかし、大人になってぼくはプール事故の報道に接するたびに、
この学校水泳にある種の危うさを感じることになった。

 PTAの監視員たちはたいていお母さん方だった。

 仮りに誰かがおぼれたとしても、助けに行けるとは思えなかった。

 いや、それ以前に実際、監視員たちが砂浜に座り、
百人以上の子どもが広い範囲で水遊びに興じているなか、
おぼれているなどの異常に気づけるなどできっこない。

 プールのような限られた範囲の監視とはワケが違うのだ。

 ぼくはある年の夏休み、
これから泳ごうと砂浜で服を脱ぎながら歩いていたとき、
足の裏にするどい痛みを感じた。

 ガラス瓶のかけらを踏んでしまったのだ。

 かなり出血した。

 監視員がやってきて
「これはあかん、医者や」と言われ、医院に送られ縫合処置を受けた。

 監視員の役割というのは、
実態からみればこうした「連絡」だったのかもしれない。

 結局ぼくのケガのときと同じように、
もしも水難事故が起きれば監視員たちは児童から連絡を受け、
一方では可能なら救助、もう一方では警察や学校に連絡といった、
あくまでも事後的対応、それが限界だったのではないか。

 発見、救命という点では明らかに遅い。

 学校水泳は、つきつめれば
この限界を認めた上に成り立っていたという気がしてならないのだ。

 昨今、プールでの事故が起こるたびに
厳しく問われる現場の教諭たちの責任、そして学校や教育委員会の責任。

 今なら、当時の串本の学校水泳制度などは、
危険すぎるとして、学校側もウンとは言わないだろう。

 また責任を問われることを恐れ、
監視員になる保護者も出てこないだろう。

 時代とともに
問われる責任の重さがまったくちがってきたと感じるところだ。

 されど思い返す学校水泳のありがたさ
 けれども、もしもぼくらの小学生時代、
あの学校水泳制度がなかったら、ぼくらは夏休みにほとんど泳ぎには行けなかった。

 というのも、ぼくの親は自営業で、
当時の仕事には休みというものがなく、友達の多くも同じような事情だったからだ。

 おそらく、あの当時なりに、教育委員会や教職員、
PTAなどでも安全性をめぐっての議論はあったはずだ。

 そのうえで知恵をしぼって学校水泳の実施を決断したのは、
子どもたちに健康的で楽しい夏休みを!という願いからだったのではなかったか、

 そう思うと、ぼくの心は感謝の気持ちでいっぱいになる。

    
       ( 指定水泳場のひとつ 上浦 )

 やがてぼくらは卒業。

 その何年か後には串本小学校にもプールができた。

 それを機にか、学校水泳はいつしかなくなったようだ。

 學校水泳の期間中、水難事故があったという話は聞かなかった。

 「よかった」としみじみ思う。

 大水崎(おおみさき)、夏休みにぼくらが毎日遊んだ
そのなつかしい砂浜もすでに埋め立てられ、今はもうない。

 改めて学校水泳のために尽くしてくれた当時の先生方や
PTAの方々の努力に感謝したい。

 あの楽しかった夏の日々の記憶は今もぼくの宝物なのだから。
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アマゴとの出会いとバス釣りの終わり

2024年07月03日 | トラウト
 渓流釣りへの関心
 さて、バス釣りにのめり込んだ日々。

 が、ある時点でぼくは他の釣りにも関心をもつようになった。

 そのひとつが渓流釣りだった。

 ルアーの入門書や雑誌には時折り触れられていた。

 しかしどこでどうやって釣るのだろう?

 ぼくのまわりにはバス釣り友達はいたが、ルアーでのアマゴ釣りは誰もいなかった。


 初めての渓流 古座川へ
 そこである年の6月、郷里串本に帰省したとき、ダメ元で古座川奥に出かけてみた。

 とりあえず竿はバス用の180cmをそのまま使い、釣り糸は8ポンド(2号)、
ミノーは5センチ程度の小型を持参、足元は普通の長靴といういでたちだ。

 日券を買った家のおばさんに
「どこへ行けば?」と尋ねると「よう知らんのです」とすまなさそう。

 これもとりあえず、松根という最奥集落のひとつまで行き、そこから入渓することにした。

 さて、ぼくのミノーの技がアマゴに通じるか?期待と不安。

 が、すぐに気づいたのは、長靴では川歩きは無理ということ。

 ぼくは頭のなかで、
水の中に入らず川岸を伝って歩き、川岸に立ってルアーを投げると想像していた。

 そんなことはできっこないのだ。

 しかたがない、濡れてもいいか、と川にザブザブ。

 次なる問題は、いったいアマゴはこの比較的広く長い川のどこにいるのか?

 これもしかたがない、どこでもいい、ところかまわず投げながら釣り上がることにした。

     

 念願のアマゴ
 さて、最初の手応え。

 上がってきたのはカワムツだった。

 うれしかった。

 ぼくのバス釣りの技が少なくともカワムツには通じたのだ。

 次いでやや水深のある瀬に至ったときのこと。

 水が集まる地点、そこにミノーを投げ、トゥイッチ。

 突然、水面から魚体が跳ね上がり、それが近くの平らな石の上に乗り上がった。

 その魚はすぐにもう一度はね、水中に没した。

 「???、大きい!」

 バスがトップに食わずに威嚇するような動きにそっくりだ。

 次いでもう一度同じところに投げ、トゥイッチ。

 今度はミノーを激しく追いかける、いや追い立てるといったふう。

 そうして反転、戻っていった。

 もう一度!

 今度は着水してトゥイッチしたとたんに重みが手元に伝わってきた。

 リールを巻くと、水しぶきをあげながらの激しい抗い。

 なんとかそれを岸にズリ上げ。

 アマゴだ。

 初めて近くで見るパーマーク、とてもきれい。

 測ってみると29.5cm。

 これは正にビギナーズラック!

 その後もぼくはズブ濡れになりながら、釣り上がった。

 しめて5匹ほど釣れたろうか。

 けれども、6月とはいえ、川の水は冷たい。

 だんだん体が冷え、ついに耐えきれず納竿。

 しかし、ぼくの釣り方がアマゴに通用したこと、このことが何よりもうれしかった。

 本格的に渓流釣りへ
 京都に戻り、早速買い求めたのはウェイダーだった。

 そうして安曇川水系久多川の年券を買った。

     

 久多川はこじんまりしていて、古座川の松根よりも釣りやすかった。

 ここで初めてイワナを手にした。

 「ほう、これがイワナか」とまじまじ。

 こうして、ぼくは急速に渓流ルアーに傾斜していくこととなった。

 なお、これを境にぼくはバス釣りから遠ざかり始めた。

 もともと気になっていた生態系の破壊という議論や琵琶湖の漁師たちの怒りや嘆きの話。

 他方では、ぼくが湖沼や河川にバスを放流したわけではないし、
また、バスに罪があるわけではないとの思いも。

 しかしそんなモヤモヤ感のなか、秋月岩魚氏が著した
「ブラックバスがメダカを食う」(宝島社)を読んだとき、
生態系の問題の深刻さを改めて感じざるをえなかった。

     

 このころからぼくは釣ったバスの再放流をしなくなり、
やがてバス釣りそのものをしなくなっていった。
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