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◆都には、

2017年08月09日 06時23分30秒 | 聖書
これを照らす太陽も月もいらない。(黙示録二一・二三)
かなたのさらにまさる世界で、民はどのような被造物からの慰めも必要としない。また衣服も必要ではない。彼らの着る白い衣は、決してほころぶことも汚れることもないからである。また彼らには病をいやす薬もいらない。「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わない」からである。そして、体力を回復するための眠りも必要としない。彼らは疲れず、昼も夜も神の聖所で神を賛美する。また慰めを得るために社交的な交わりに入る必要もない。人との交わりによって得る幸福がどんなものであろうと、それは彼らにとって不可欠のものではない。主との交わりこそ、彼らの最大の願望を十分に満たすからである。そこでは彼らは教師を必要としない。もちろん神について親しく語り合うが、ほかの者によって神の知識を教えられる必要はない。主についてすべて教えられるからである。
私たちの今の状態は、王の門前で施しを受けているようなものだ。しかしそこでは彼らは、食卓でごちそうにあずかる。この世で私たちは友情の腕によりかかっているが、そこでは彼らは愛する御子にのみよりかかる。この世で私たちは友の助けを借りなければならない。しかしそこでは彼らはキリスト・イエスの中にすべての必要を見いだす。この世で私たちは朽ちる糧を求め、しみの食う衣を必要とする。しかしそこにおいては、彼らは一切をキリスト・イエスの中に見いだす。私たちは井戸の水を汲むために容器を用いる。しかしそこでは彼らは水源に行って、いのちの水にくちびるをつけて飲む。この世では天使が私たちに祝福をもたらす。しかしその時はもはや天からの使いは必要ではない。また天使ガブリエルが神からの愛の手紙をもたらすこともいらない。なぜなら、顔と顔とを合わせて神を見るからである。
ああ、一切の二次的原因を超越して、神の御手の中に憩う時は、なんたる祝福の時か。被造物ではなく神が、主のみわざではなく主ご自身が、私たちの日々の喜びとなられる時は、なんという栄光の時か。そのたましいは全き祝福にあずかるものである。
 
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