何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

若狭の海は美しい

2012年08月31日 14時42分56秒 | Weblog
8月29日

熟睡している車の窓ガラスの向こうから眩しいライトの光が刺すのを感じた。
予想はしていた。
ライトを手にしているのは警察官だった。
折角ぐっすり眠っていたのに、ここで起こされたら、又寝不足で胃が痛くなってしまいそうだ。

若狭の海岸線も暑い。連日30度を上回る気温が続いている。車で寝る時は安全の為、窓を閉め、ドアをロックする。暑い日はエンジンを掛けてクーラーをつけて寝るのだが、お金が無いので、この日は汗をかきながら寝ていた。
光に気付いて目が覚めた時は、ズボンまでびっしょり濡れていた。水分は充分にとって寝たが、こういう時に熱中症になるのかも知れない。
そういう意味では、警察官に感謝しなければならないのかも知れないが、時計を見たら午前2時だった。思わずムッとした。まだ2時間しか眠って無いじゃないか、折角胃の痛みも和らいでこのまま朝まで眠れれば楽になれるかも知れないのに、と心で思ったが口には出さず。ただ警察官の質問に丁寧に答えて職務質問は終わりパトロールカーは去って行った。

深夜にもかかわらず今日も暑い、熱中症で死んだらバカみたいなのでエンジンを掛けてクーラーをつけて眠った。5時半に目が覚めた、胃は鈍く痛いが昨日ほどでは無い。昨日から何も食べて無いので、近くのコンビニに走ってヨーグルトを買って食べた。乳酸菌パワーか、食べているうちに少しずつ胃が軽くなっていった。コンビニまで運転するのも大変だったが元の駐車スペースに戻る時にはすっかり楽になっていた。

民宿まつぼっくりに電話した。松井さんは麦刈りに出掛けていて6時には戻るという事だった。ガソリンも残り少しになってきたし、体調もいい感じだったので敦賀市内まで走りガソリンをいれて市内のスーパーマーケットの駐車場で、胃が痛い時も顔を歪めながらもやり続けていた2ミックスマスタリングを始めた。起きている限り音楽をやり続けたいのだ。後もう少しで理想の音に限りなく近くなるのだが、少しが微妙で、時間が掛かる。

夕方6時過ぎに民宿まつぼっくりに到着。ライヴのお願いをして、帰るつもりだったが、昨日来るつもりが胃が傷んで途中で動けなくなった事を話たら、今夜は泊まって体を休めていけばいいと言ってくれたので、泊めていただく事にした。胃の調子は完璧ではなかったが出していただいた夕食を一緒に食べる事が出来るほど楽になっていた。

着いた時、CD「東京」をブレゼントするつもりで持ってきたのだが、僕が困っているだろうからと1万円も頂いてしまった。
断れない自分が情けなかったが、ありがたかった。
松井さんは僕のほとんどのCDを持っているが、「普段着のままで」は人に貸して戻って来ていないらしく、それなら今夜CDに焼いて差し上げる事を約束して、少し気が楽になった。ついでに音が格段に良くなった「証明…あかし」と、松井さんが持っていなかった「ランナー」音の良くなった「素描Dessin」も受け取ってもらう事にした。
それともう一つ、折角やってきたので車からギターを出して、宮城県石巻市に行った時に作った詩に滋賀県守山市の藤木猛さん主催のライヴで曲をつけた「この空涙で濡らしましょう」と「春よ来い」を奥さんと二人に聞いてもらった。

明日も早起きで麦刈りの松井さんのお邪魔にならないように、早々と部屋に戻り、CDを焼き付けようとしたが、眠くて眠くて何もできずに布団の上に倒れこんだ。

今日は歌が唄えて幸せ。

まだ生きてる

2012年08月29日 19時09分25秒 | Weblog
8月28日

昨日はお昼ごろ池田町を出て、燃料を入れる為に、国道八号線を目指した。一昨日は2時間、昨日は12時過ぎに管理棟の床で眠ったがご来光を見る為に早起きしたので、完全な睡眠不足、東京からの長距離運転の後の二回のライヴで疲労度は200パーセント。

越前市にさしかかった頃から、胃の調子が悪くなりだした。ライヴ後の打ち上げバーベキューで、お酒は一合に満たない程度にしか飲んでいないので、酒のせいではない。
疲れがたまると胃に来る、これが60歳という年齢の成すわざか、60代は50代の延長だと考えているから、こんな事を何度も繰り返しているのかも知れない。
まだ無理がきいた50代とは違い、無理はきかない年齢になったと認識しなきゃいけないのかも知れない。と、頭でわかったつもりになっているが、これからもきっと無理をして、同じ状態に苦しむんだろうな高橋忠史は。

東京から福井に向かった時、厚木のインターの手前のガソリンスタンドで残っていた千円分だけガソリンをいれた。ポケットには300円しか無くなっていた。すべてのカードは使えなくなっているので途中で燃料が切れたら、お仕舞いだ。その時はその時考えればいい、高橋忠史は諦めないやつだから。
それにしてもお盆からガソリンの値段が高い。くそー、こんな時に、と思ってガソリンを入れようとしたら、現金会員カードを作ってメール会員にも登録したら、ガソリン代がリッターあたり4円も安くなるという張り紙を見た。
千円分だからたかが知れているが、少しでも多くガソリンを入れたいので早速店員を呼んで登録を済ませた。全国チェーンの大手のガソリンスタンドだからこれからも役に立ちそうだ。
そのガソリンスタンドが八号線にあった。今日は、借金をはらっても少しお金が残るので、3千円分いれた。リッター4円引きは大きい、なんて喜んでいたら、この頃から胃の痛みが強くなり出した。

前回来た時、お母さんが亡くなりライヴとお通夜が重なってライヴがキャンセルになってしまった敦賀市の珈夢に寄った。オーナーの中村さんは居なかったが、お店の人が連絡してくれて、急いでやって来てくれた。珈琲が美味しいお店なのに、胃の痛みがひどくて、何も注文しないで、ライヴの相談だけして、お店をでた。
この後美浜町の民宿まつぼっくりに出掛けて、ライヴのお願いをするつもりだった。

27号線を美浜町に入った頃、痛かった胃がさらに猛烈にわしづかみにされたように激しく傷んだ。
運転しているのも辛い。民宿まつぼっくりまでは後5分もあれば着ける所まで来ていて、進む力は失せた。海沿いに駐車スペースがあったので、そこに車を停めてシートを倒してうずくまる姿勢で痛みをこらえた。
いつまでたっても痛みはおさまらない。胃薬を飲んだ。しばらくすると、胃の痛みと共に胸がムカつき始めた。ドアを開けて外に出る気力もない、車にあるピニール袋を取り出して、おもいっきり吐いた。

少し楽になったが、身体はうずくまったままの状態で起き上がる事も出来ない。
楽になったのは少しの時間で、又先程と同じレベルの痛みに戻ったままいっこうに楽にならない。もう一度、胃薬を飲んだ。

すぐに吐き気が襲ってきて又吐いた。今度はかなり楽になったので、身体を起こしシートの上に横になって寝る事が出来た。
でも痛みがおさまった訳ではない、どんどん気持ちが落ちてゆく。
あー、このまま死んでしまうのかな?。
今まで生きていられた事の方が不思議な人生だから、死ぬ事は怖くも何とも無いが、まだ死にたくない。

やっと自分なりのライヴが出来るようになって来たばかりだし、音作りのノウハウも理解出来て来た。これから完成に向けて突き進もうとしている時だ、ここで死ぬのは悔しい。

そんな事を考えながら痛みに耐え続けたが、耐えられない。吐いたら少し楽になるかと、痛みを止める目的ではなく吐くために胃薬を飲んだ。理由は分からないが、薬を飲むと胃が拒否反応を起こし、胃の中の物を押し出そうとする、しばらくすると吐き気が襲って来た、今度は車から外に出る事が出来たので、道端に吐いた。何も食べて無いので液体だけだ。血は混じっていない、とりあえず安心だ。昼過ぎにここに駐車して辺りは真っ暗だ。車に戻って横になった。10時を過ぎていた。

牧谷峠、ご来光観察会

2012年08月28日 13時27分10秒 | Weblog



8月27日

峠のライヴ会場、管理棟に泊まったのは僕を含めて5人。
朝5時半に起床して、管理棟から歩いて150メートルほどのご来光絶景ポイントへ。

写真には撮ったが、実際にはもっと壮大で美しく、優雅で優しく感動的だった。生まれたばかりの太陽に照された仲間達が美しく見えたのは、光のせいばかりではなく、みんなの心が子供の頃のようにピュアになっていたからかも知れない。
長谷川さんの奥さんの朋ちゃんが、おにぎりと簡単なお惣菜をもって車でやってきたのは太陽が登りきった直前。道に座ってたべたおにぎりは最高においしかった。

この後僕は、地獄に突き落とされたような事態になってゆくのだが、それは又明日。

牧谷峠ライヴ

2012年08月28日 13時06分47秒 | Weblog


8月26日

福井県池田町魚見の長谷川さんの工房に、なんとかたどり着いた。ポケットには300円しか無くて、ガソリンが足りるかどうかひやひやだったが、ライヴ会場の牧谷峠に向かう道で給油ランプが点灯。
後百キロは走れるので、明日国道八号線に出るまでは大丈夫だ。ホッ…。

途中名古屋で2時間しか眠ってないが、ライヴは何とかなる。

今日のライヴが最終的に決まったのは2週間前、急な話で長谷川さんはお客さんが来てくれるかどうか心配していた。

そんな事はどうでもいい、語れないほど素敵なばしょでのライヴでした。お客さんは多くはなかったが、又、素敵な聞き手ばかり、昼と夜の二回のライヴで20人。

それぞれがそれぞれに楽しんだ、大人の隠れ家ライヴでした。

無駄な事は一秒たりとて無い

2012年08月28日 12時35分28秒 | Weblog
8月24~25日

明後日の昼までに福井県の池田町に着かなくてはならないのに、「素描Dessin」にはまり込んでいます。
とにかくクリアーなサウンドになって来ました。

と、ここまで当日書きましたが、25日の夜11時までコンピュータと格闘して、得た結果は無駄なあがきだったのか、いや、今は結果を見る事は出来ないが、生きていて、無駄な時間は一秒たりとて無い。
ミックスダウンをなめていた、まだまだ時間がかかりそうだ。
生きている間に完成させたいものだ。

そして燃料を3千円分入れ、小平市を出発した。

出口の無いトンネル

2012年08月19日 02時28分31秒 | Weblog
8月19日

昨夜は新大久保の東京労音アールズアートコートに出掛けた。ひとみさんからの紹介で中田順子さんからチケットを頂いた、植田あゆみちゃんの所属する「ウーマンオブザワールド」のコンサートを聞く為だ。アメリカで活躍しているあゆみちゃんの事は彼女がまだ幼い女の子の頃しか知らない。そんな子がもう立派な大人になって世界を又に掛けて頑張っている。僕も歳をとる訳だ。
コンサートはあゆみちゃんを含めた4ヵ国の女性コーラスを中心にキーボード、ベース、パーカッションの7人編成の女性グループ。国境を越えたコーラスの響きが素晴らしかった。
おもにアメリカのボストンを中心にして頑張っているようだ。この後、姫路、熊本でも公演があるそうだ。僕も負けてはいられないぞ。といい刺激を受けて会場を後にした。

さて、昨日の続きを書こう。
「証明…あかし」のプロデューサーの西田さんが、なぜ横浜まで高橋忠史のライヴを見にきたのか。どうして年齢的に売れる可能性の無い僕のレコードを会社のスタッフを説得してまで出そうとしたのか。

実はその頃、西田さんは出口の無いトンネルの中でもがいていた。ひょっとしたら夜も眠れない日が続いていたのかも知れない。

原因と理由はいまだに僕には分からないが、レコード会社の金をかなりの額使いこんでしまっていたらしい。その使い込みを埋め合わす為に沢山の音楽事務所から借金をしていた。借りては返し借りては返しても減らないどころか増えて行く借金、自分が破滅に向かっていた事は分かっていただろう。勇気を持って謝ればトンネルの出口が見えたのだろうが、暗闇の中、転げ落ちている事に気付いても這い上がる手段を見つけられなかったんだろう。
心すり減らす地獄のような毎日の中で高橋忠史と出会い、僕の唄う「仕事」の歌詞に心振るわせたのかも知れない。

前にも書いた事だが、この「仕事」という曲は20代に作ったもので、アルバム「東京」の選曲の時、西田さんに聞かせている。でもその時の西田さんはレコード会社が出来てまだ一年しか経っていなかった時期で、肉体的にも精神的にもイケイケ状態だったから、「仕事」の歌詞の意味が理解出来なかったのだろう。
もちろんその時「仕事」は西田さんによってボツになった。そして10年後、自分がボツにしたその曲に心振るわせられてレコードを作る事になったが、本人は初めて聞いた曲だと思っていたはずだ。だから、ライヴ終了後、楽屋にやって来て「おまえの感性高くなったなー。」と言ったんだろう。僕が変わったのでは無く、西田さんが変わっていた事に気付いていなかったようだ。

のちに西田さんの使い込みが発覚したのは、僕が過去に所属していた才谷音楽の社長からの、悪くいえば、たれ込みだった。それでレコード会社が気付き職も家族も失う事になってしまう。
その才谷音楽出版の社長もその10年後、国の税金を騙しとる犯罪行為で実刑を受け刑務所に入りやはり音楽業界の仕事も家族も失ってしまった。

その当時まだ犯罪を犯していなかった社長に言われた。「西田はいろんな人に迷惑を掛けて来たが、忠史、お前にだけは誠実に付き合おうと頑張ったんだ。」と。
西田さんの最後はさみしかった。ガンに犯され、骨と皮になって亡くなった。見舞いに来る人もわずかだった。その事は、トーラスレコード時代の同僚の人から逐一連絡をもらっていたので知っていた。僕は千日連続ライヴツアー中で見舞いに行く事は出来なかった。同僚の人から、西田さんの命が後一週間も持たないかも知れないと連絡が来た。ツアー中の僕は病院に行く事は出来ない。
彼に一通の手紙をメールで託した。
「西田さん、お見舞いにも行けなくてごめんなさい。僕は西田さんのお陰でプロのミュージシャンとして今もライヴ活動を続けていられます。アルバム「証明…あかし」を出せていなかったら今の僕はありません。だからすべて西田さんのおかげだと感謝してもしたりません。本当にありがとうございます。」

その僕のメールを同僚の人が西田さんの枕元で読んだ時、大粒の涙を流して聞いてくれたそうだ。そして西田さんはその数日後に亡くなった。

沢山の人達に迷惑を掛けたかもしれないが、才谷の社長が言ったように、僕には最後まで誠意を示し続けて接してくれた。西田さんの犯した罪を正当化するつもりはないが僕の人生の中で西田という人は、僕にとって大切な人だったと言い切れる。

でも、どうしてアルバムに過去の楽曲である「海」を入れてくれと言ったのかは、亡くなった西田さんからはもう聞き出す事は出来ない。

ここ1ヶ月に渡ってアルバム「証明…あかし」の生まれたエピソードと曲にまつわる出来事を書いて来た。
高橋忠史の2ミックスマスタリングによって素晴らしい音に生まれ変わったアルバム「証明…あかし」、ぜひ買って聞いて下さい。
そして経済的ピンチな高橋忠史を助けて下さい。

2000円を下記銀行(どちらの銀行でもOKです)に振り込んで下さい。、送料手数料はいりません。

そして、メールで氏名住所をお知らせ下さい。メールを頂いたらすぐに発送できます。

セブン銀行
カーネーション支店
普通口座
口座番号 0513518


三菱東京UFJ銀行
鷹の台出張所
普通口座
口座番号 0249079

高橋忠史、出口の無いトンネルにはまりそうな大大ピンチです。助けて下さい。「東京」「素描Dessin」も2000円です。

「仕事」

2012年08月18日 13時32分12秒 | Weblog
8月18日

「海」、昨日のブログに掲載させて頂いたメールで、絶賛していただいた曲だ。
24歳の時発売されたデビューアルバム「遥かなる大地へ」に収録されていた「海」をどうして39歳の時発売された「証明…あかし」にアレンジも変えて再録音したか、これには当然の事だが理由がある。

36歳の夏、販売用のカセットテープのライヴアルバムを作った。より良い録音をする為に、才谷音楽出版で一緒だった「ふきのとう」繋がりで、コンサートミキサーの佐藤純さんに録音をお願いした。
それがきっかけで佐藤純さんとは親交が深まり、彼の呼び掛けで弾き語りライヴだけでは無く、バックミュージシャンを着けたライヴを何度かおこなった。そのバックメンバーには、「ふきのとう」のコンサートメンバーでシンセサイザー奏者のキタローさんのワールドツアーにも参加した都留教博さん、南こうせつさんのコンサートで必ずベースギターを担当している河合徹三さんなど超一流のミュージシャンが、信じられない事に高橋忠史の為にボランティアで参加してくれていた。
そんな素敵なメンバーと横浜でライヴをした時、アルバム「東京」のディレクターだった西田さんが突然やって来た。

話は横にそれるが、このライヴのリハーサルは凄かった。25年も前の事なのに、いまだにしっかり覚えている。その頃僕は「うすのろ」というタイトルの詩を模索していた。自分自身の弱い部分を強調した主人公を設定し、生きるってなんだろうと問いかける歌にしたかったが、なかなか完成しなかった。
音響機材のセッティングが終わり。佐藤純さんに「じゃぁ、忠史さんからお願いします。」と言われ、ギターを弾き始めた、Gから始まるスローなスリーコードのカントリーバラードを意識して。その時頭に「うすのろ」の詩が浮かんだ。まだ未完成だったが、

…おいらうすのろ、うすのろと呼ばれ、今日まで生きて来た…

その部分を何度も繰り返し、その場で思い付いたストーリーを即興で歌い進んでいくうちに、頭の中で創造力が高まっていき、映画を見ているかのように切なくはかないストーリーが展開していった。
気がつくと、河合さんのベースが淡々と低音部を支え、日高靖志のギターが音の隙間をオブリガードで埋めて、ピーちゃんのドラムが静かにリズムを刻み、都留さんのキーボードがストーリーに色と深みを加えてくれていた。
延々と演奏と歌は続き、主人公の「うすのろ」の生きざまが浮き彫りになり最後は出だしと同じフレーズで
…おいらうすのろ、うすのろと呼ばれ、今日まで生きて来た…

で終わった。時計を確認したら30分を経過していた。まるでコンサートを一本やり終えたような充実感があった。即興であったのにメンバー達の演奏もシンプルで余計なフレーズも入らずまるで何回もリハーサルを繰り返したかのように素晴らしかった。

本番で演奏する曲は一曲もやらずにリハーサルは終わった。すぐに本番だったので、そのストーリーを書き留める事もできず。幻の名曲として二度と再演出来ないものになってしまった。おおよそのストーリー展開は記憶の中に残っているので、この30分の大作を、いつか、新曲として、作り上げたいと思っています。
そんな興奮状態が続いたまま本番を迎えたので、ライヴは最高のエンターテイメントだった。アンコールを終え、楽屋に戻ると、西田さんが飛んでやって来た。いつも冷静な人だったが、その時はやや興奮ぎみで、「忠史、よかったよ。お前の感性すごく高くなったなぁー。特に「仕事」っていう曲は最高の作品だよ。俺の心にひしひし伝わってきたよ。忠史、お前がこんな素敵なライヴを作れるようになってるとは思いもしなかった。いやーもったいない、俺も何か手伝いたい、忠史、俺に出来る事はないか。」
立て続けに話かけて来た。
そこですかさず僕は言った。「西田さんに出来る事は僕のレコードを作る事ですよ。」。
僕として無理は承知で、冗談まじりで期待を込めて言った事だった。
が、その当時、トーラスレコードの製作部長という立場にいた西田さんにとって、僕の意見は簡単な事では無いが、実現可能な事だった。
西田さんの答えに驚いた。「そうだな、レコード会社に居る俺が出来るのは、レコードを作る事だな、よしわかった、少し時間をくれ、なんとかする。」と、言ってくれた。
その後、何度か打ち合わせをし、トーラスレコードから400万円のレコーディング費用をもらい。都留さんのブライベートスタジオでレコーディングする事になった。
アルバム一枚をジャケット製作まで含めて400万円でレコーディングするなんて不可能な事だ。だが、佐藤純さん、都留さん、河合さんの力で数多くの素晴らしいミュージシャンが少ないギャラでレコーディングに参加してくれ実質一千万円以上掛かるほどの素晴らしいアルバムに仕上げてくれた。

そして西田さんは、金は出すが口は出さないという最高のプロデューサーだった。思いっきり自由なレコーディングが出来た。でも、一つだけ西田さんからの要望があった。コロムビアレコードから出たデビューアルバムの収録曲「海」をもう一度アレンジし直して今回のアルバムに入れてもらいたいというものだった。僕自身、いつか「海」をレコーディングし直したいとは思っていたが、50歳を過ぎた頃と思っていたのでまだ早い。でも、20代前半にレコーディングしたものを50過ぎて完璧に唄いこなす為の途中経過の記録として残すのも悪くないか、と思った。
アレンジは河合さんだった。詩のイメージを理解してくれて壮大な楽曲に仕上げてくれた。

「証明…あかし」はこうして沢山の人達の協力で出来上がった素晴らしいアルバムだ。誰も売れる事なんて考えてなかった。それぞれがそれぞれの立場でその時最高のものを作るんだという情熱を注いだからこそ、20年経っても色あせないアルバムとして昨日のメールの方のように心に届く作品として残っているんだと僕は信じています。

横浜のライヴで「仕事」を聞いて感ずるところがあってレコーディングそして全国発売にまでもっていってくれた西田さんは、その当時とんでもない苦しみを背負っていた事はその後に知った。

その事は又いずれこのブログで発表します。

素敵なメールが届きました

2012年08月17日 20時11分39秒 | Weblog
8月17日

先日の大多喜町の「道の駅たけゆらの里」で立ち止まって聞き入ってくれて、CD「証明…あかし」を買って帰ってくれた方から素敵なメールを頂きました。
このメールを頂いて、一生懸命唄う事の大切さを改めて教えて頂きました。そして勇気を頂きました。
その方からブログに掲載する事を承認して頂けたのでここに掲載させて頂きます。

高橋忠史様

突然のメール失礼致します。

先日千葉県大多喜町のたけゆらの里で、CDを買わせて頂いた者です。

あの日は仲間たちと旅行に出かけた帰り道でした。
休み中にも容赦なく襲い掛かる(笑)仕事の電話に、
少しゲンナリしていた時に高橋さんの歌声が聞こえてきました。

言葉のひとつひとつが伝わってくる高橋さんの歌には、大変癒されました。思わず座ってしまい聞き惚れてしまいました。
道の駅はトイレや買物という目的性の高い場所なので、せかせかと行き過ぎる人たちの中、高橋さんの歌声が、すり抜ける南風に乗って心地よく響いていました。

たけゆらの里から東京方面に出発する時、マルマルモリモリを踊っていた高橋さんを車から拝見し、「元気なおじさんだなあ」。
とみんなで感心しておりました。

あの後は車の中でゆっくりCDを聴いていくはずだったんですが、旅行の余韻の話題にもちきりであまり聴けませんでした。

その後自宅へ戻り、ブログを拝見しました。高橋さんの人となりが伺えて楽しく読ませて頂きました。ギリギリに生きている方なんだなあと正直驚きました。「歌いながら死にたい」という言葉が印象に残りました。

数日後、実家からの帰り道にCDをじっくりと聴かせて頂きました。
丁度レインボウブリッジにさしかかる高速道路で、5曲目の「海」がかかりました。下には大きなクルーザーが橋をくぐろうとしていました。

左側から差し込んでくる夕陽。右側には房総半島。

「海」は名曲ですね。。。映画のエンディングで聴いてみたい様な雄大な曲です。きっといつか大きな評価を得られる気がします。

私は普通の会社員で、小遣いは昼食代入れて月3万円です。
夏休みに仲間と旅行に行くために、この一年間弁当を作って倹約に努めてきました。 正直ものすごくケチな(笑)日常が習慣化して
いた私が、高橋さんのCDを買ったことは変な話しですが自分でも驚きでした。
心を突き動かされた感覚を覚えたからだと思います。
ある意味私はまだまだ長い長いトンネルの中かもしれません。
でも出口の光は確実に見えている様な気がします。
今後クヨクヨした時は「トンネルを抜けて」を聴いて、今日を乗り切ろうと思っています。

中学校の講演会などお忙しい日々ですね。

どうぞお体ご自愛下さい。
またどこかの街でお会いしましょう!