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京都のキリシタンの史跡:司教座聖堂カトリック河原町教会と都の聖母

2008年10月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。

 ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え!

カテドラルと都の聖母

 1862年日本においてはキリシタン禁令の時代、教皇ピオ九世により二十六聖殉教者が聖人の位にあげられたましたが、1854年フランスのサン・クロード教区のロバン神父(Leon Robin)は日本の改宗のために祈祷の会を作りました。ド・シャモン司教(Bishop Antoine-Jacques de Chamon)により公式に認可されています。フランス人のレオン・ロバン神父は、日本の殉教者の記録を読み深く感激したからです。彼は、日本人の改宗のための祈祷会を起こし、日本に福音を説くために教皇から派遣される司教および宣教師が入国できるように祈る運動を始めました。

  ロバン神父は聖フランシスコ・ザベリオが聖母に奉献した聖堂を京都に建てたいと望んでいたことを知り、1864年から聖フランシスコ・ザベリオが日本に携えて来たと伝えられる聖母の画像にちなんで六体のブロンズの聖母像をローマで鋳造させ、翌1865年12月31日教皇ピオ九世から祝別を受け、「都の聖母」と命名しました。

 1866年6月14日、ヴィリオン(ビリオン)神父(Père Villion)はそのうちの一体をパリから日本にもって来て横浜にいたジラール神父 (Père Girard) のもとに届けられました。それは、ロバン神父が「京都を見下す高い丘の上へ埋めて下さい。聖母のとりなしにより京都に宣教師が入れる日が1日もはやくきますように。」という手紙をそえてパリ宣教会本部に三体の像を送っていたからです。何故京都かというと、当時、外国人は、横浜、長崎、神戸などの居留地から出られず、京都に宣教師が入ることは不可能であったからです。

 ヴィリオン神父(ビリオン神父)は日本で、京都の博覧会(1873年5月欧州外交団が仙洞御所の特別拝観を許された)に列席をゆるされたヴィグルー神父(すでに日本に入国していたパリ外国宣教会の宣教師)に像を託しました。

 当時は禁教状態の日本で、ヴィグルー神父 (Père Vigroux) は京都で信仰を伝えることが許されず、博覧会の後は京都を去らなければなりませんでした。真理なるカトリック信仰が都で自由に伝えることが出来る日を祈り希望し、1873年、ルイス原田という日本人の助けを得て、ヴィグルー神父によって「都の聖母」像は市内を見おろす東山将軍塚の六本の松の木のそばにひそかに埋められることになりました。
 深い信仰を持っていたヴィグルー神父は、御殿場の神山復生病院の二代目院長となり、神山復生病院をよく理解して、患者たちのためによく働いていました。しかし、健康上の理由で、院長となった六年後フランスへ帰国しています。(御殿宣教師物語


【ジラール神父とヴィグルー神父の綴りは、3回ほど来日した Mgr Francisque MARNAS (1859-1932) 著 La Religion De Jésus ( Yaso Ja-Kyo) Ressucité Du Japon Dans La Seconde Motié Du XIXeme Siècle.(「日本キリスト教復活史」)によった。 Mgr Francisque MARNAS は、Claude Prudhomme, professeur d’histoire contemporaine, Université Lumière- Lyon 2 によると、リヨン出身で特定の外国宣教会には属していなかったようだ。】





  1879年(明治12年)9月28日フランス語教授という名目で最初に京都に赴任したヴィリオン神父(A. Villion)は、厳しい宣教に直面しながらも、翌日、早速話に聞いていた将軍塚に登り、聖母像を掘り出し、彼は御像を大切に持ち帰り、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置しました。やがてザヴィエルの願いが成就し、京都に聖堂の建つ日が来ました。1890年5月1日河原町教会の献堂式の日、当時京都の属していた中日本代牧区を管轄するミドン司教は、説教の終わりに、すでに脇祭壇に置かれてあった「都の聖母」(Our Lady of the Capital/NUESTRA SEÑORA DE LA CAPITAL) の由来の一部始終を参列者に紹介し、京都で最初に献堂された河原町教会に安置されたのです。

 ヴィリオン神父は、将軍塚の聖母マリアのあった場所をそのままにしておかず、御像のあったところの樹に小さな十字架像を付け、この場所に毎日聖務日課を唱えに登りに来たのでした。

 現在カトリック河原町教会にある聖母像がこの像です。

Se souvenant que quelques années plus tôt, une statue de la Sainte Vierge, bénite par Pie IX, avait été enterrée sur une colline dominant la ville, dans le but d’obtenir, par l’intervention de Marie, l’introduction d’un missionnaire à Kyôto, il [=Pere Villion] va la reprendre, puisque le but est réalisé, et la transporter dans son oratoire. Pour ne pas laisser la place vide, il attache un petit crucifix à un arbre, et chaque jour vient réciter son bréviaire à cet endroit, d’où l’on aperçoit la ville aux mille pagodes.





カトリック河原町教会(カテドラル)
京都のカテドラル:カトリック京都司教区 司教座聖堂 カトリック河原町教会
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カトリック河原町教会(カテドラル)
京都のカテドラル:カトリック京都司教区 司教座聖堂 カトリック河原町教会

カトリック河原町教会(カテドラル)
京都のカテドラル:カトリック京都司教区 司教座聖堂 カトリック河原町教会



カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像
都の聖母マリア
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像


カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像の説明

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像の説明


ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え。
ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え。
ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え。

Oh, Our Lady, being buried, thou hast prayed for Japan in the soil, pray for us.
Oh, Our Lady, being buried, thou hast prayed for Japan in the soil, pray for us.
Oh, Our Lady, being buried, thou hast prayed for Japan in the soil, pray for us.

¡Oh tu, la sepultada de la colina, Señora Nuestra! Ruega por Japón, Ruega por todos nosotros.
¡Oh tu, la sepultada de la colina, Señora Nuestra! Ruega por Japón, Ruega por todos nosotros.
¡Oh tu, la sepultada de la colina, Señora Nuestra! Ruega por Japón, Ruega por todos nosotros.


ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、
土に埋もれたままのような聖伝のミサがもう一度日本の地に与えられんがために、
我らのために祈り給え。
土に埋もれたままのような聖伝のミサがもう一度日本の地に与えられんがために、
我らのために祈り給え。
土に埋もれたままのような聖伝のミサがもう一度日本の地に与えられんがために、
我らのために祈り給え。


【推薦サイト:関連サイト:参考資料】
京都市内キリシタン遺跡 案内
十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日
京都のキリシタンの史跡:六条河原の元和の殉教碑、廬山寺
京都のキリシタンの史跡:二十六聖人発祥の地、フランシスコの家(キリスト教文化資料館)
京都のキリシタンの史跡:曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺
京都のキリシタンの史跡:キリシタン大友宗麟の瑞峯院の閑眠庭(大徳寺)、金毛閣(大徳寺)、北野天満宮のキリシタン灯籠
京都のキリシタンの史跡:慶長天主堂跡地 (上京教会跡地)

被昇天のしるしのもとで. 日本におけるカトリックの歴史
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第385号)
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第387号)
京都の大殉教
日本188殉教者名簿
SSPX ASIA Newsletter May-Sep 2007
京のキリシタン史跡を巡る―もう一つの京都 風は都からBy 杉野 榮 著/ 嶋崎賢児 写真

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