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韓国のこと いろいろ あれこれ いまむかし

1970年代から現在の韓国なんでも情報いろいろ目と足で集めました。

韓国の先祖は日本人を「礼儀を知らない下郎」という意味を込めて「倭人」と呼んで軽視した

2018-06-30 03:21:34 | 韓国旅行

かって韓国には「東方儀礼の国」と呼ばれる時代があった。

儒教の本家、中国にも劣らぬ礼経がきちんと行われる社会であることを誇りとしていた。

極端な話だが、当時の両班たちは一杯の酒を飲み干すまでに互いに百回の礼儀を尽くしたという。


彼らの言葉づかいや行動には気品があった。

また、たとえ首に刀を突き付けられても命より名誉と信義を重んじた。


韓国の先祖は日本人を「礼儀を知らない下郎」という意味を込めて「倭人」と呼んで軽視した。

ところがいつのまにか正反対になってしまった。

今、日本人は韓国人を礼儀知らずの人間だと考えている人も多い。


韓国は以前は、老人やからだの不自由な人はいつでもだれでも席を譲ってもらえた。

今やバスには彼らの座る場所はない。

混雑してぶつかっても「ごめんなさい」という言葉も聞かれない。

すっかり世の中が変わってしまったのだ。


日本人はいつも「ありがとうございます」と「すみません」を口にしている。

相手に対する心遣いがふと口をついて出てくるのだ。

感謝するときでさえ「すみません」と謝りながら相手を気遣う民族はほかにいるのだろうか。


日本人は感謝するときも謝罪をするときも腰を直角に曲げてお辞儀をする。

しかも一回では終わらず、たいてい三回繰り返し、相手が上げるのを待っておもむろに上げる。


一国のモラルをお辞儀や言葉だけでから判断できないが、感謝と謝罪の言葉が使われない国より、相手を気遣う言葉が行き交う国の方が気持ちがいいのは人情の常であろう。

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韓国では「日本海」という言葉はまさにタブーで、「日本海」という表記が出てくると、袋だたきにされます

2018-06-29 01:34:42 | 韓国旅行

 

「SEA OF JAPAN」という、世界公認の名称があるにもかかわらず、韓国は「日本海」という呼び方は日本が朝鮮半島をものにするために作り上げた帝国主義的な発想だとして、その表記を「東海」(EAST SEA)にすべきだと主張しています。


韓国では「日本海」という言葉はまさにタブーで、映画だろうとゲームだろうと地図だろうと、「日本海」という表記が出てくると、袋だたきにされます。


2014年11月には、IKEAが「SEA OF JAPAN」と書かれた地図を販売した件で(この商品は韓国以外の国でも販売されています)、韓国では不買運動が起こり、KORAIL(韓国鉄道公社)が全国規模で予定されていたIKEAの広報イベントを全キャンセルするなど、大騒ぎになりました。

韓国経済TVは、この件を「韓国を見下した罪だ」と報道しています(2014年11月19日)。


しかし、これは嘘です。

実は韓国側は、以前には日本海表記に何の反感も示しませんでした。


1983年9月3日の東亜日報の記事によると。

当時、韓国の大韓航空(KAL)機がロシアの戦闘機から攻撃を受けて墜落した事件で、国中が大騒ぎでした。

記事からは、「日本の後藤田正晴官房長官は二日の記者会見で、KAL機が東海(日本海)に撃墜された可能性が高いと~」など、東海と日本海の併記が二カ所、確認できます。

いまなら想像もできないほどの非難を受けたことでしょう。


京郷新聞1983年9月9日、KAL機の胴体と遺体を見つけたという無線連絡があったことを伝える内容の記事でも、「東ドイツの貨物船が、ソ連戦闘機によって先週日本海上空で撃墜されたKAL機の残骸や乗客の死体の一部を回収した」と、なんと、こちらは日本海単独表記になっています。

いまなら、新聞社が対国民謝罪でもしないといけないでしょう。


やはり、1983年、しかも全国民の目と耳が集中した大事件の記事において、「日本海」という名称にはなんの拒絶感もなかったことがわかります。

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日本協力の事実を隠す韓国メディア

2018-06-28 03:39:27 | 韓国旅行

日本協力の事実を隠す韓国メディア


業界やメディアは、日本との提携や日本の協力の事実は当然、知っている。

しかしメディアや教育はそれを隠して知らせない。

当事者もことが「日本」ゆえにあえて言わない場合が多い。


韓国社会には昔からこのような「日本隠し」が多くの分野で広範に存在する。

だから国民は「日本の協力の実際」について知らない。

知らされていない。

もしその事実がそのまま知らされていれば、日本に対する国民感情(つまり反日感情)もかなり変わったものになっていたことは間違いないだろう。


日本の外務省で前後十二年間にわたって韓国に勤務し、最後は駐韓大使(2010~12年)も努めた武藤正敏・前大使が1015年5月に回想録を出版した(『日韓対立の真相』悟空出版)

退任後間もない前任大使が、任地でのことについて直ちに回想録を出版するなどというのは極めて異例である。

とくに微妙な関係の相手だけに関心を呼んだ。


武藤氏はキャリア外交官として韓国語を専攻した最初の人であり、書記官から、参事官、公使、大使と韓国勤務を重ねたいわゆるコリアン・スクールの草分けのような存在だった。

その彼が大使経験者として異例の行動を取ったのは、長年付き合っていた韓国に業を煮やし「キレた」からかもしれない。

本人がそう言っているわけではないが・・・・・・。


著者は慰安婦問題や竹島問題をはじめ、経験にもとづく韓国に対する不満、注文を語ったものだ。

とくに「これから韓国は、日本について事実関係をより実証的かつ客観的に見て、是々非々で判断してもらいたい」と書いている。


そのうえでこう主張している。

韓国は日本に対して歴史に真摯に向き合えと言うが、向き合う歴史には戦前ばかりでなく、国交正常化後の日韓協力の歴史も含まれるべきである。私はなにも韓国に感謝しろというつもりはない。ただ日韓関係を改善させたいなら、日本が韓国に対して誠意をもって向き合ってきたことを韓国の人々に知らしめるべきではないか。それは韓国の国民感情を和らげ、対日外交をやりやすくするという意味で韓国にとってもプラスとなるはずだ。

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国産車「ポニー」、三菱製エンジン搭載車だが「韓国独自開発」

2018-06-27 03:26:14 | 韓国旅行

国産車「ポニー」、三菱製エンジン搭載車だが「韓国独自開発」


1970年代中盤ごろ、ソウルで市内バスに乗って周りを見ると、走っている乗用車を見るとほとんどが「ポニー」だったと記憶している。


韓国を代表する현대자동차(現代自動車)、その自動車生産の歴史は当初、フォードとの提携による組み立て生産でスタートしたが、1974年、初の固有モデルによる国産車と銘打った「ポニー」を生産したことで知られる。


「ポニー」は韓国自動車産業史の神話的存在である。

ところが事実関係でいえば、現代はフォードとの提携を解消した後、日本の三菱自動車と提携した。

「ポニー」の生産や輸出など初期の発展はこのことを抜きに語れない。

しかしこの「ポニー」「日本の協力、三菱自動車製エンジン」には一言も触れられない。


ところで「光復70年」の夏、韓国メディアの特集記事に현대자동차(現代自動車)の過去と将来を紹介したものがあった。

大手紙・中央日報が「創刊50周年」と銘打って連載していた韓国経済の再跳躍に関する記事で、その中で현대자동차(現代自動車)の歴史について次のような記載があった。

1967年創設された現代自動車が1974年に初めて生産、出荷した“ポニー“は、韓国最初の固有モデルだ。海外企業の牽制を乗り越えイタリアからやっとデザイン技術を学んで誕生した。最初の独自エンジンである現代のアルファ・エンジンは、試験中にしょっちゅうエンジンが止まるという困難の中で1991年に世に登場した・・・・・・。


歴史的事実で言えば、현대자동차(現代自動車)の最初の国産車「ポニー」は三菱自動車製のエンジンを搭載して開発された。

にもかかわらず、車のデザインがイタリア製だったことには言及しながら、肝心のエンジンが日本製だったことには触れていないのである。

記事によると独自エンジンの開発は1991年だという。


ならば「ポニー」第一号の1974年から1991年までの間、エンジンはどうしていたのか、中央日報読者は疑問を感じるだろう。

しかし記事はその疑問には答えない。

いや、あえて答えない。

言わないのだ。

エンジンが三菱製つまり「日本製」だったからである。


独自エンジン開発後も輸出用の「ポニー」には三菱製エンジンを搭載していたことは、業界ではよく知られている話である。

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「롯데 ロッテ」は韓国の文明開化  韓国の百貨店で頭を下げるようになったのは롯데 백화점(ロッテ百貨店)が最初だった

2018-06-26 03:12:27 | 韓国旅行

 

 

「롯데 ロッテ」は韓国の文明開化


「롯데 ロッテ」は在日韓国人の辛 格浩(신격호)氏(日本名・重光武雄)が創業者だが、その企業文化は日本文化である。

1979年、ソウル中心部にオープンした롯데 백화점(ロッテ百貨店)は、韓国の流通業のみならず韓国社会にとっては一種の文化革命だった。


「お客様は神さまです」という日本文化を持ち込んだのだ。

その象徴が日本流のお辞儀の導入だった。


日本からスカウトされ、初代の副社長として開業を担った秋山栄一郎氏が回顧録で語っているが、韓国の百貨店で頭を下げるようになったのは롯데 백화점(ロッテ百貨店)が最初だった。

それまでの韓国の百貨店従業員は実にぶっきらぼうだった。

客が品物について聞いてもだいたいが「オプソョ(ありません)」「モルラヨ(分かりません)」の二言でおしまいだった。

そして店内は薄暗く、楽しくなかった。


롯데 백화점(ロッテ百貨店)は店員たちに笑顔で頭を下げさせ、어서 오세요(いらっしゃいませ)」「감사합니다(ありがとうございます)」「またおいでください」を言わせ、開店時には軽快に行進曲「アイーダ」を流し、食堂街やイベントコーナーも設け、店を明るくし、百貨店をモノは買わなくても楽しい、遊びのある空間にしたのだ。バレンタインデー・セールもロッテが初めて日本から持ち込んだ。


秋山氏は、日本で三越など多くの百貨店にかかわったベテランの百貨店マンだが、ロッテ首脳に請われて韓国に渡った。

彼の韓国でのモットーは「怒らず、叱らず、悲しまず」だった。


韓国で「顧客中心」の商法はロッテから始まったといっていい。

これまた見事な日韓協力、あるいは日韓文化交流である。


韓国社会にはこんな話が無数に隠れているが、韓国国民のほとんどはそれを知らないし、知らされていない。

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야쿠르트아줌마(ヤクルトアジュンマ)は、食品配達という職業の社会的評価を一挙に向上させた

2018-06-24 03:17:51 | 韓国旅行

「ヤクルト」は1970年代初めに日韓合弁企業として韓国で生産を始めた。


韓国では初めての乳酸菌飲料の市販だったが、ヤクルトのヤクが「薬약(韓国語でもヤク)」に通じ、さらに国籍不明(?)のネーミングだったことも功を奏し、たちまち韓国社会に定着した。


現地化を進め、最も成功した日韓合弁企業の一つといわれるが、“日本商品“と知っている韓国人は少ない。


しかしヤクルトの韓国社会への貢献はもっと別のところにある。

配達の「ヤクルトおばさん(韓国語では아줌마アジュンマ)」である。

シャレタ帽子にユニフォーム、スニーカーそれにカート・・・・・・という姿が、これまで社会的評価が低く、賤業的だった食品配達ビジネスのイメージを一変させたのだ。


「야쿠르트아줌마(ヤクルトアジュンマ)」には希望者が殺到した。

カッコいいというわけだ。

つまり食品配達という職業の社会的評価を一挙に向上させたのだ。

牛乳配達など同業他社もヤクルトを見習うようになった。


しかも主婦たちにパートタイマーとして職場を組織的に提供した。

これも韓国では「야쿠르트아줌마(ヤクルトアジュンマ)」が初めてだった。

ヤクルトのお陰で韓国の主婦たちも堂々とパートがやれるようになったのである。

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韓国の「라면・ラーミョン」が発明国・日本からの無償技術提供によって始まったことを知っている韓国人はほとんどいない

2018-06-23 03:44:53 | 韓国旅行

 

韓国では即席麺のことは「라면・ラーミョン」といっている。

漢字の「拉麺」からきている。


韓国の即席麺は生産、消費、輸出とも今や世界のベストスリーに入る。

とくに一人当たりの消費量では世界一である。

韓国は“라면・ラーミョン大国“なのだ。


しかしその韓国の「라면・ラーミョン」が発明国・日本からの無償技術提供によって始まったことを知っている韓国人はほとんどいない。

知らされていないからだ。


しかもこの日韓協力は国交正常化の1960年代前半に実現している。


韓国のインスタントラーメンである「라면・ラーミョン」の歴史は、草分け企業となった三養食品の創業者・全仲潤会長が1963年、日本の明星食品から技術提供を受けてスタートした。

全会長は明星食品の奥井清澄社長(故人)に直接会い、当時、食糧不足に悩んでいた韓国の実情を説明し、インスタントラーメンによる問題解決という“志“を熱っぽく訴えた。

奥井社長は全会長の熱意にほだされ、無償協力を約束した。


全仲潤会長は奥井社長からOKが出た翌日からそのまま明星食品の工場で十日間、技術指導を受けた。

ラーメン製造の核心である原料配合表(レシピ)も、社内の反対を押し切った奥井社長の決断で帰国の日、羽田空港でもらった。

機内で全氏は「嬉しくて、感激の念が一杯でひうてもふいても涙が止まらなかった」という。


明星食品からは技術指導のため社員が無償で派遣された。

生産・出荷には一年かかったが、その後、「三養ラーミョン」は草分けとして長く業界のトップを占めた。


全会長は2014年に他界した。

韓国マスコミはその人生を紹介し、韓国におけるラーメン開発の歴史を振り返っていたが、日本からの無償提供の“美談“に触れたところは見当たらなかった。

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国交正常化による日韓の協力体制が、それまで北朝鮮に比べて劣勢にあった韓国経済がその後、逆転に成功するきっかけになった

2018-06-11 02:51:39 | 韓国旅行

 

「日本との関係」を活用した韓国

 

南北格差のきっかけになったのは、1965年の韓国の日本との国交正常化である。

この国交正常化による日韓の協力体制が、それまで北朝鮮に比べて劣勢にあった韓国経済がその後、逆転に成功するきっかけになった


1965年の国交正常化に際し、韓国が手にした日本からの経済協力資金が使われた。

日本の対韓経済協力支援というのは政府からの五億ドル(無償三億、有償二億)と民間融資三億ドルだった。

現在の感覚でいえばさしたる数字ではないが、韓国の外貨保有高が数億ドルで日本の外貨保有高が二十億ドル程度だったころの数字である。

今とは価値が違う。


さらにその資金を受ける方についても、空腹の時のラーメン一杯と飽食の時のビーフステーキはどちらが美味しく、有り難いか。

答えは明らかだ。


しかしそうした経済協力が、いかに韓国経済の発展の基礎になったかということもさることながら、日韓国交正常化というのは韓国という存在が国際的に認められ評価されるのに決定的に重要だった。

日韓国交正常化で韓国は、国家として安定的なイメージを国際的に獲得することになった。


日本が韓国の国家信用度を保証したようなものである。

この国際的認知、あるいは保証の意味と効果は、直接的な支援・協力に劣らず大きい。

こうした1965年の日本との新たな関係設定が韓国のその後の発展を支え、ひいては北朝鮮との発展の格差につながったのである。

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日本統治時代の工業化という“違算“のお陰で、韓国より北朝鮮の方が発展の可能性があった

2018-06-10 03:37:50 | 韓国旅行

 

韓国より北朝鮮の方が発展の可能性があった


日本支配から解放された1945年以降、そのままの状態であれば北朝鮮の方が韓国より経済発展の可能性があった。

実際に、朝鮮戦争後にもかかわらず1960年代までは、工業化が進んでいる北朝鮮の方が経済力は上だといわれていた。

日本統治時代の工業化という“違算“のお陰といっていいだろう。


しかし結局は、現状を見れば明らかなように北朝鮮は韓国に逆転され、逆に大きな格差が生まれた。

韓国は経済規模で世界十位に肉薄する経済強国になったのに対し、北朝鮮は世界の最貧国に転落してしまった。

南北の格差を象徴的に言えば、北朝鮮は飢餓情報さえ伝えられ、海外からの食糧支援を受けるほど国民は植えているが、韓国は外食産業における食べ残しがゴミ処理の最大問題になっているほど飽食国家である。


韓国と北朝鮮の発展差の原因は何か?


北は共産圏に属し南は自由主義圏に属したからということになる。

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1945年以降の南北の発展の格差  韓国は日本と仲良くしたために発展し、北朝鮮は日本を遠ざけたため発展できなかった

2018-06-09 03:22:59 | 韓国旅行

 

 

南北は昔から基本的には同じ民族、同じ文化であり、人間的あるいは文化的、社会的に優劣はなかった。

あったとしても地方差といった程度のものだった。


その朝鮮半島が南北に分断されてから70数年経ったのだが、現在の朝鮮半島を見て南北の違いに驚かない人はいないだろう。

とくに国力の差というか、国家発展の格差は著しい。

これが同じ民族だろうかと思うほどだ。


たとえば国力つまり経済力でいえば、韓国のGDPは北朝鮮の四十倍以上であり、人口が二対一であることを考えても、南の一人当たりの富は二十倍以上である。


南北は1945年に日本支配から同時に解放され、米ソによる分割支配下で南北に分かれて別の国をつくった。

しかし七十年後にこうした極端にも見える発展の違いが生まれた。

この南北の違い、格差はどこからきたのだろう。

 

朝鮮半島のこうした南北格差についてわれわれは一見、自然現象のように思って意識していないが、これはよく考えると不可思議である。

この問題は意外にも「日本」と関係があるのだ。


朝鮮半島における1945年以降の南北の発展の格差には、日本が深く関係している。


南の韓国は「日本」との関係を維持したため発展し、北の朝鮮民主主義人民共和国は「日本」との関係を拒否したため発展できずに落伍したのである。


簡単にいえば、韓国は日本と仲良くしたために発展し、北朝鮮は日本を遠ざけたため発展できなかったということである。

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