竹取翁と万葉集のお勉強

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大伴旅人と藤原房前 「長屋王の変」の後 後編

2009年12月01日 | 万葉集 雑記
前編からの続き

ここで、私がどうしても誤読したい年号の神亀五年が出てきます。集歌0793の歌の年号を神亀五年から神亀六年に誤読すると、私の中で物語が完成します。
春二月、都で「長屋王の変」と云うクーデターが勃発します。元明太上天皇から内臣として元正天皇の補佐を行なうようにとの遺言を受けた藤原房前が、そのクーデターの後始末を画策したのではないでしょうか。それが、集歌1764の七夕の歌です。どんな障害があっても、その障害を取り除くから大宰府から船に乗って上京して来いとの誘いの歌と思っています。
その藤原房前の誘いに対する回答が、次の集歌0793の「報凶問歌」と集歌0806の「謌詞兩首」の歌です。集歌0793の「報凶問歌」の歌は、集歌4227の「大殿之雪」の歌に対する答歌です。そして、集歌0806の歌は、集歌1764の七夕の歌で暗示された上京への確認の歌です。この集歌0806の歌は、神亀六年秋七月から八月の歌でしょう。
集歌0806の歌の内容とその標から、集歌0806と集歌0807の歌は都の誰かに贈られています。その都の誰かからの、その確認の歌に対する答えが集歌0808の「答謌二首」の歌です。私は、ここで藤原房前と大伴旅人の盟約は成立したと確信しています。
この思いがあるために、私は神亀五年を神亀六年に誤読するのです。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問に報(こた)へたる歌一首
禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳 (筆不盡言 古今所歎)
訓読 禍故重疊し、凶問累集す。永に崩心の悲しびを懐き、獨り断腸の泣を流す。ただ兩君の大きなる助に依りて、傾命を纔(わづか)に継ぐのみ。 (筆の言を盡さぬは、 古今の歎く所なり)

集歌0793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされた時、いよいよ、ますます、悲しいことです。
神亀五年六月二十三日

謌詞兩首 大宰帥大伴卿
標訓 歌詞(かし)両首(にしゅ) 大宰帥大伴卿
集歌0806 多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
訓読 龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしか青丹(あをに)よし奈良の都に行きて来むため
私訳 天空を駆ける龍の馬も今はほしいものです。青葉美しい奈良の都に戻って行って帰るために。

集歌0807 宇豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曽
訓読 現(うつつ)には逢ふよしも無しぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
私訳 現実には逢う手段がありません。闇夜の夜の夢にでも絶えず希望を見せてほしいものです。

答謌二首
標訓 答えたる歌二首
集歌0808 多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古邇 許牟比等乃多仁
訓読 龍(たつ)の馬(ま)を吾(あ)れは求めむ青丹(あをに)よし奈良の都に来む人の為(たに)
私訳 天空を駆ける龍の馬を私は貴方のために探しましょう。青葉の美しい奈良の都に戻って来る人のために。

集歌0809 多陀尓阿波須 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟
訓読 直(ただ)に逢はず在(あ)らくも多く敷栲の枕(まくら)離(さ)らずて夢にし見えむ
私訳 直接に逢うことが出来ずにいる日数は多いのですが、貴方が床に就く敷栲の枕元には絶えることなく逢う日が夢に見えるでしょう。

集歌0808の歌で、藤原房前と大伴旅人の盟約は成立したと確信しています。その盟約の確約の書類が、次の大伴旅人が詠う「梧桐日本琴一面」の歌です。歌は、藤原房前を通じて元正上皇と舎人親王へ提出する忠誠の誓約書です。そして、都の藤原房前から大伴旅人へ、上京と都での立場について確約が届きます。

大伴淡等謹状
梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝
標訓 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石山の孫枝
此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞韓九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰
訓読 此の琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余根を遥嶋の崇き巒に託け、韓を九陽の休き光に晞す。長く烟霞を帶びて山川の阿に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木の間に出入す。唯百年の後に、空しく溝壑に朽ちむことを恐るるのみ。偶良匠に遭ひて、散られて小琴と為る。質の麁く音の少しきを顧みず、恒に君子の左琴を希ふ」といへり。即ち歌ひて曰はく、
私訳 この琴が娘子になって言うには、「自分は遥かな島の高き嶺に根をおろし、幹を美しい日の光にさらしていました。長く霞に包まれ、山川の間に遊び、遠く風波を望み、お役に立てる用材になるかならないかと案じていました。唯、心配な事は、百年の後に寿命を向かえいたづらに谷底に朽ち果てることですが、図らずも良き工匠の手にかかり、削られて小さい琴となりました。音色も粗く、音量も小さいのですが、どうか君子の側近くに愛琴となりたいといつも願っています。」と言って、次のように歌いました。

集歌0810 伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
訓読 如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ
私訳 どんな日のどんな時になれば、私の音を聞き分けて下さる人の膝で琴である私は音を立てることが出来るのでしょうか。

僕報詩詠曰
集歌0811 許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
訓読 言(こと)問(と)はぬ樹にはありとも愛(うるは)しき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし
意訳 (琴の娘よ)物言わぬ木であったとしても、立派な御方の愛用の琴にならなければいけません。
呆読 子(こ)等(と)問はぬ貴にはありとも愛(うるは)しき王(きみ)が手馴れの子(こ)等(と)にしあるべし
呆訳 家来である家の子たちを区別しない高貴なお方といっても、家来は麗しいあのお方の良く知る家の子らでなくてはいけません。

琴娘子答曰
敬奉徳音 幸甚々々
訓読 「敬みて徳音を奉はりぬ 幸甚々々」といへり。
片時覺 即感於夢言慨然不得止黙 故附公使聊以進御耳 (謹状不具)
訓読 片時にして覺(おどろ)き、即ち夢の言に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。故(かれ)公使に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。(謹みて状す。不具)

天平元年十月七日附使進上
謹通 中衛高明閤下 謹空
跪承芳音 嘉懽交深 乃知 龍門之恩復厚蓬身之上 戀望殊念常心百倍 謹和白雲之什以奏野鄙之歌 房前謹状
訓読 跪(ひざまづ)きて芳音を承り、嘉懽(かこん)交(こもごも)深し。乃ち、龍門の恩の、復(また)蓬身(ほうしん)の上に厚きを知りぬ。戀ひ望む殊念(しゅねん)、常の心の百倍せり。謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙の歌を奏る。房前謹みて状す。

集歌0812 許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母
訓読 言問(ことと)はぬ木にもありとも吾(わ)が背子が手馴(たな)れの御琴(みこと)土(つち)に置かめやも
意訳 言葉を語らない木であっても、私の尊敬する貴方の弾きなれた御琴を土の上に置くことはありません。
呆読 子(こ)等(と)問はぬ貴にありとも吾が背子が手馴れの命(みこと)土に置かめやも
呆訳 家来の家の子たちを区別しない高貴なお方であっても、私が尊敬するあのお方が良く知るりっぱな貴方を地方に置いておく事はありません。
謹通 尊門 (記室)
十一月八日附還使大監

大伴旅人は、この翌年の天平二年十月頃に大納言就任し、奈良の都に戻っています。十月の大納言就任の内示とすると、それ以前に都で誰かが根回しを行い、クーデターを行った藤原武智麻呂・宇合兄弟の承認を取り付ける必要があります。さて、誰が根回しを行なったのでしょうか。舎人親王でしょうか、それとも藤原房前でしょうか。
大伴旅人の帰京後、都では微妙な平静が保たれます。まず、舎人親王が人臣の筆頭の位置に帰り咲きます。また、朝廷の参議の格に藤原氏、皇族、丹比氏、大伴氏の代表が入り、さらに、軍事・警察権は惣官・鎮撫使の役職を新たに設け、藤原氏、皇族、丹比氏、大伴氏が分け合って任命されています。ここには、藤原氏による権力中枢の独占の姿はありません。神亀六年(天平元年)夏から天平二年春に掛けて、「長屋王の変」以降の都で何かが変わったのです。
人は、大伴旅人から藤原房前に贈り物と歌を贈って猟官したと評価します。私は、藤原房前から皇族派としてのクーデターの巻き返しの相談が大伴旅人へあったと思っています。その都と大宰府との秘密の通信が、紀貫之が云う「花鳥の使ひ」です。
どうでしょうか、その気になって万葉集を眺めると、天平の政治の裏側を覗いたような気がしませんか。私が思う大伴旅人と藤原房前との和歌の相互の贈答は紀貫之が云う「花鳥の使ひ」に相当しますが、本来の「花鳥の使ひ」は中臣宅守が詠ったものです。この天平元年の「花鳥の使ひ」から、もう一つの中臣宅守が詠う「花鳥の使ひ」を見てみたいと思います。
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