『押尾学事件より悪い片山右京遭難事故』(不思議な労災事故)
『たけしの東京スポーツでの毒舌コメント』
片山右京が富士山で遭難したらしいね。これ訓練なんだろ?
南極に行こうとしてたヤツが富士山で遭難してたらダメだろ。
南極と富士山じゃ全然違うよ。南極はケタ外れ。マイナス45度とかそんな世界だからな。
何やってんだ、この人。
一人だけで下山したって、何か変。これは森村誠一だったらすぐ書くな。
「富士山殺人事件」とか富士山のサスペンス。「何があった?」
「なぜ片山右京は生き残った!」って。何で片山だけ大丈夫なんだろ。
片山にはオレは一回会ったくらいだけど、日本人のF1レーサーって
何でF1やるのかよく分からないね。世界とはレベルが違うもの。
だけど片山は何しに南極に行くんだ。今は冒険家なの?
でも行ったってしょうがねえじゃん。アルゼンチンとかあっちの方から
飛行機で行くんだろ?結局、昭和基地とか暖房がしっかりしてる所で、
普通の雪見て帰ってくるだけじゃないの?
『職業登山家』?
最大の疑問点は、片山右京氏にしても富士山での2人の死亡を手放しで賛美する(自称アルピニストの)野口健氏にしても『何でメシを食っているのか』?ですね。
これがサッパリ判らない。
登山(アルピニズム)は他のスポーツと大きく違い誰かに見せる物ではない。
誰も観客のいない所で幾ら物凄い技術を披露しても所詮仲間内の自己満足が関の山。
サッカーで、ペナルティで観客抜きで予選を行った例があるが、あれでは誰も儲からない筈だ。
何故この人たちが山に登ると金が儲かるかが判らない。(金鉱でも探しているのか。?)
山だけでなく基本的にオリンピック競技の様なメジャースポーツ以外に『プロ』は成り立たないのです。
それどころか登山の様なマイナー競技では、スポーツを行うこと自体が色々な差別があり、日本ではこれ等マイナースポーツの置かれている立場が実に苦しい。
以前親友の息子が一輪車マラソン(42・195キロメートル)で2時間を切る日本記録(日本にしかないので自動的に世界記録)を出し優勝したが、長野の千曲川で行われた日本一輪車協会主催の全国大会参加の為に、高校で所属していたバスケットボールの練習を休んだとして他のメンバーの見ている前で顧問の教師に酷く叱られたのですよ。
何ともやりきれない話です。
それにしても片山氏や野口氏程度の技量や経験で幾らなんでも『プロ』は無いでしょう。
野口氏のブログを読んで見たが、あれは完全な政治ブログですね。
ブログにも橋本竜太郎首相との交友関係が色々書いてあるが、小沢一郎批判とかチベットを理由にしたネットウヨそっくりの中国批判とか政治がメインでそれ以外に付け足しに、山での塵拾いとか、戦場の遺骨拾いとか、あまりにも政治くさい話です。
何で山の塵を始末するなら、本当の困った塵である登山ルート上の遺体の始末が先決であろう。何ともインチキくさい男たちである
『日本の職業登山者たち』
登山のプロといえば、普通の人が思い浮かぶのが「登山ガイド」「ポーター」「山岳救助隊」程度だが 登頂成功で賞金がでるような山岳スポーツは19世紀のマッターホルン初登頂のウインパー隊以外聞いたことがない。因みにこの登頂では隊の7人中4人が墜死している。
登山用品メーカーとの契約とか登山をネタとした講演や著作が仕事になるようだが、これには誰が見ても納得する登山実績がいる。
片山右京は「チャレンジスクール」というのを主催していたようだが、レクリエーションスクールの様なもので現役登山者の仕事とはいえないだろう。
知人に日本アルパイン協会加盟のプロガイドを一名知っていますがお客さんを数名山へ案内する仕事で、例えるなら通訳とか介護ヘルパー見たいなサービス業。
親しい会の会員だったので登山経歴は良く知っているが、片山氏なんか足元にも及ばない凄い実績があるが、それでもプロガイドはそんなに儲かる仕事ではなく山が好きだからやっている。
プロガイドが案内している客を死なしたら勿論刑事責任モノなので絶対安全が身上。だから今回のような不思議な遭難なんかは起こさない。
荷揚げのポーターは昔はあったが今ではヘリ輸送が主。
山小屋の従業員が仕事の片手間に荷揚げする例は今でもあるが、これは職業登山者とは普通は呼ばない。
山岳救助隊は原則プロはない。
長野県や富山県の県警の中にある救助隊は勿論全部警察官で職業ではあるがプロの登山家とは誰も呼ばない。
これ以外に地元山岳団体や山小屋従業員など民間人が参加する場合には日当は支給されるが、これも原則プロとはいえないだろう。
原則日本では欧州のような常設の山岳救助隊はなく、其のつど遭難事故が勃発したときに臨時に編成されるだけ。
スポーツ登山発揚の地の欧州とは違い、日本では警察が一定程度受け持っているが登山道程度での遭難を引き受けているだけで困難な技術のところは誰も引き受け手がないのが現状です。
日本の山岳会とは、名前は同じだが中身が全く違い、欧米のアルピニストのサロンとしての『山岳会』(アルパインクラブ)ではない。
欧米ではスポーツ登山をしたい人は登山学校に入学して技術を学ぶが日本では其の様な常設の施設はないので、山学会が徒弟制度で行っている。山岳会とは私設登山学校でもあるのです。
そして、欧米にない日本独自の『山岳会』の大きな役割が登山者の『遭難互助会』としての役目なのです。
冠婚葬祭の互助会や協同組合のように、日本では登山者は自分が遭難した時の為に予め『互助会』に加入している。
冬の壁のような難しい場所では警察の救助隊であれ山小屋の従業員であれ、同じ山岳会の山仲間以外には技術上の問題があり誰も『遭難救助』には来てくれない。
勿論費用の問題もある。
救助隊員に日当を払ったのでは救助費用がかかりすぎて、山岳会に入っていないと残された家族が破産する。
同じ山岳会会員同士なら原則日当は無しで交通費程度を支払うだけなので随分安くつくので登山者はみんな好き嫌いに関係なく何れかの力量に会った山岳会には加入している。
今回自分が遭難するとは思っていない自称プロ登山家の両氏は何処にも加入していないし入山届けさえしていないお粗末さ。
入山届けは当日入山時に行うもの、登山届けとは事前に所轄の警察署に何ヶ月も前に送る物で、富山の剣岳や群馬県の谷川岳では冬季の届出が義務付けさら罰則もある。
今回の静岡県やそれ以外の長野岐阜山梨などの県では登山条例がないので義務ではないが事前に山行計画が出来た段階で当該警察署の山岳救助隊へ、無い場合には警察の外事課に送っておく。
もちろん事前の登山届けだけではなく、入山時には必ず忘れず入山届けも行ってから山に登る。
今回登山者であれば入山前の常識である『登山届け』『入山届け』のどちらの届けも怠っており『山で起こった』から山岳遭難は早計で、限りなく気分は遭難とは縁遠いハイキング。
『登山家ではなく冒険家』
目が点になる、青春賛歌で『悲劇のヒーロー』的な扱いが目立つ野口健のブログを見てしまった。
まるっきりこれでは自称剣道4段のインチキ森田健作で、赤面ものである。
いい年をした大人が『俺たち、青春だ~ア』なのである。
この人達は何歳なのでしょうか。とても二十歳を超えた大人とは思えません。
これに関して、ご本人も昔登山家で今でも山から離れられず街を捨てて樵になった愚樵さんの『コメントの言葉』を短く勝手に要約すると、
『野口健は冒険家という商売の根っこをよく知っていた』
『右京や野口は冒険家というけれども、商売のネタは要するに「希望」で自身がある種の限界に挑戦することで他人に「希望」を感じさせ大衆は「希望」にカネを払う』
『片山右京は今回の事故で売ってしまったのは「希望」とは正反対の「絶望」。これでは商売にならない』
『野口は「批判すること」自体が売り物の「希望」を傷つけるので同業者である右京の批判ができない』
『冒険家なんて因果な職業。売ることができるのは「希望」という名の虚構のみ。』
しかも困った事に『その『希望』は水増しして調味料も添加しないと大衆向けの売り物にはならない。』
『今回の事故ではその「水増し」があからさまになってしまった。気の毒というか自己責任というか、なんとも複雑な気持ちです。』
『冒険家?探検家?』
なる程。片山氏はプロの登山家とあるから『山をなめるな!』と腹を立てていたが、愚樵さんの説は『冒険家』ですか。
それならある程度は判ります。
しかし今頃冒険家とは。!
探検家と冒険家とは同じモノなのでしょうか。?
帝国主義の時代の探検家は本人たちは善良だったかも知れませんし、冒険家たちに拍手喝采を送った帝国主義列強の市民たちにとってはある種の『希望』であったことは間違い有りませんが、これら探検家の存在自体が『どうしようもなく政治的な存在』でもあったのです。
歴史を調べれば必ず最初に探検家が行き、次に宣教師が行き最後に植民地にするために列強の軍隊が派遣されたのですよ。
『探検家(冒険家)とは基本的に違う登山家』
基本的にスポーツとしての登山の世界では野口氏や戸塚ヨットスクールの様な、あんな風に遭難を美化する者は一人もいません。
例外は『そこに山があるから』と言ったマロリー(エベレスト初登頂時で遭難死)や同じくエベレスト冬季初登頂後下山中にジェット気流により遭難死した加藤保男のような例では、登山者なら誰であれ批判できない。
何故なら彼等は『誰にも出来ない事』をして遭難したのであるから、批判も矢張り『誰にも出来ない』のです。
勝てば官軍負ければ賊軍。山で死んだ遭難者を美化して如何する心算でしょうか。?
山岳遭難は判断ミスがあったから、遭難したとの原則があるのです。
あれはもう現役でない登山者なら原則を曲げる例も少しはあるが、基本的に有り得ないのです。
『大したミスも無しに登山者が死んだ』では『同じことをしている』現役の登山者は、これから怖くて登山が続けられないのですよ。
だから如何しても『失敗したから死んだ』が原則でなければならないのです。
普通なら死ぬはずのない富士山の6合目で死んでは堪らない。労務管理の責任を追求され非難されて当然なのです。
『職業として登山していたら山岳遭難ではなく労災事故』
今回はたけしの発言が一番マトモでしょう。
プロ登山家を自称していたそうですが、山登りが趣味ではなく仕事なら今度の事故は不慮の『山岳遭難』ではなく納期を守る為に無理をして労務管理を失敗した『労災事故』になる。
死んだ二人は片山事務所のスタッフで、会社の慰労会などでの一気飲みの強制による急性アルコール中毒による死と実情が五十歩百歩ではないのか。?
死んだ二人は片山社長の事務所のスタッフで両者は対等ではなく職務命令に従う上下関係にあった。
来月の南極行きも、普通に我々一般人が行う趣味の範囲の登山などと違い、職業としての『登山』であったと考えられる。
言い換えれば、片山事務所の営業としての『南極行き』であり、今回の富士登山は其の準備活動と位置づけられています。
事務所スタッフの二人は、普通の登山の『個人の趣味の世界』とは全く別の、(勤務時間内であるか、時間外労働であるか。?それともいわゆるサービス残業であるかを問わず)『仕事として』参加していた可能性が高いのです。
しかも富士山へは平日に行っているが、入山届けさえしていない。
基本的に登山に限らず普通の会社の社員でも、就職氷河期の現在、休日のゴルフや引越しの手伝いを社長に誘われて断れる勇気のある社員は滅多にいません。
ましてや今回の登山はゴルフなどとは大きく違い、会社の営業内容そのものですよ。
会社の営業内容そのものである今回の富士登山を断る社員は、片山氏に限らず会社の代表なら誰であれ間違いなく首にするでしょう。
今回死亡した事務所のスタッフの二人には、最初から『今回の富士は危険なので断る』という選択肢は残されていなかったのです。
参加者個人個人が自分で参加の可否が判断出来なければ山岳遭難に適用される個人の『自己責任』も当然存在するはずもない。
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さりさんが、釈然としないのは当たり前だろうと思います。
押尾事件とは経過が何とも納得いかない・・・実に不思議でしたね。
まず起こった時期が不思議だ。酒井法子と同じなのです。
押尾事件の発覚直後に酒井法子の夫が覚醒剤所持で捕まる。
逮捕現場に酒井法子が呼び出される。
逮捕された夫から呼び出されたとあるが、別居していた夫が覚醒剤で逮捕されている現場に駆けつけたのが何とも不思議。(閣僚クラスの有力者でも薬物では見逃してはくれない)
特に、逮捕現場に行く事は自分に使用暦があれば絶対に有り得ない。
現に現場から逃亡しているのですよ。
酒井法子は(多分警察に)騙されておびき出された可能性が高いでしょう。
新聞ネタには『暇ネタ』と言うのがあり何もニュースがないときに紙面を埋めるために使われる持ちネタです。
全身刺青で自称プロサーファーで日ごろから言動が可笑しいと周りで評判だった夫は警察の(何時でも仕事の暇なときに使う為の)『暇ネタ』だった可能性が非常に高い。
その後のマスコミ報道はご存知の通り。
酒井法子報道の洪水で押尾事件は全く報道されない。
人は人混みに隠すのが一番で、ニュースはニュースの海に隠すのが一番確かな方法なので押尾事件隠蔽の為に酒井法子が使われた可能性が高い。
警察の対応で、特に問題なのは死んだ女性の死因の未特定なのです。
死因が特定されない限り現行の刑事訴追法では『女性の死』と押尾学は結び付けられないので殺人とか傷害致死には絶対に問えないのです。
それで現在薬物所持とか保護責任者遺棄などのより軽い刑罰の取調べを行っているが幾ら立っても本丸には辿りつけない。
全ての原因は最初の検視時の不可解な不手際で死因を特定していないからです。
当該の警察は薬物死であるとは断定されていなくて『事件性なし』で処理(隠蔽)しようとしたのです。
それでは今回は如何でしょう。
二人の死因は凍死と判定されている。今回のようにマイナス何十度もの野外で事故後大声で泣き叫ぶパニック状態を放置すれば確実に遭難死は免れないでしょう。
そしてこの二人は片山社長の管理化にあったのです。これが平地で行われたなら間違いなく業務上過失致死罪や保護責任者遺棄罪での片山社長の逮捕は免れない。
死んだ二人と片山社長は、通常の登山のときのような対等な関係には無かった事に注意してください。
生き残った者と死んだ者の間には命令する物とされる者との『力関係』が圧倒的に違いがあるのですよ。
この場合には、『命令する側』が死んだのであれば問題は発生しないが、『命令を守る側』が死んだなら自動的に責任問題に発展していきます。
そして今回は片山事務所の営業の範囲としての『登山』である可能性が高く、それならこれは通常の山岳遭難よりも『労災事故である』と判断出来るでしょう。
それにしても日本ではこの様な時に『責任』云々を口にするものが少ないし異端視されがちです。
普通は責任を問われず美談や英雄物語に摩り替えられるのです。
だから其の(責任を問われない)日本の歴史的な事実を良く知っているので片山右京は『全部自分の責任です』などと喋れる。
『全部自分の責任』と言ったほうが日本では責任を逃れる事が出来るのです。
100年前に日露戦争の準備の為の無理な行軍で199人が死んだときも責任問題には全くならず美談や英雄物語に歪曲されたのです。
因みにこの歴史上最大の気象遭難では命令する立場にある上官(将校、下士官)では生き残った者は11名いたが、参加者の殆どだった兵士では一人の生存者もいなかったのです。
社長だけが生き残り社員全員が全滅した今回の富士山と八甲田山と規模は違うが内容が似ている酷い無責任な事故です。
誰かが責任を語らなければ死んだものが浮かばれないし野口健氏の様に英雄すれば八甲田の様に悲劇は何回も繰り返されるのです。
日本軍の戦争では弾に当たって死んだ兵士(戦死者)は少数でそれ以外の多くの兵士は兵站の失敗(餓死、病死、凍死)で死んでいるのです。
日本独自の風習なのでしょうか。『責任者には責任がない』のです。最高責任者にはもっとない。
それで350万人の日本人が死んでも『最高責任者には責任はない』ので、責任を問われない。
当然日本の敗戦後に戦犯に問われる参謀や将軍たちで国外逃亡を図った人は一人もいないのです。
対して2度の敗戦の経験のあるドイツでは将官だけでなく左官クラスの高級将校は遠く南米はパラグアイなんかに逃げていっている。
自分が責任を取らされると知っていたのです。
ところが日本では『責任を取る』文化がない。それで片山右京は『全部自分の責任です』などと言う。
対して責任に対して理解している欧米では絶対に謝罪しないし『責任云々』を口にしない。
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活動再開だそうですね
亡くなった二人のためにも頑張ってもらいたいものです
批判されたら今度は号泣して涙の謝罪を行う。
謝罪会見にはシルバーのスーツに黒シャツ、赤や黄色の柄が入ったネクタイに白い革靴というスタイルで現れて新聞にド派手姿で謝罪と書かれているが、
今後の進退について『ロマンを持って監督をしている。もう1度やりたい』と監督を続ける意向。
本当に腹を切ったら監督どころの話では無いと思いますが、何時から日本では年長者の責任ある立場の品格がや責任が全く無くなったのでしょうか。
朝青龍や国母選手のような20代の第一線のトップに立つ若者たちを『品格が無い』と批判する前に、
2人も殺した右京のような人物が3ヶ月で何も処罰されることなく公開の場に出てくることに日本国の無責任体質が証明されるが、
アジア人2000万人を殺しても軍神として靖国で祭ってしまうのですから、これはもう致し方ないでしょう。
確かに、岩下俊三さんが指摘される通り「封建制度と父性絶対を守り続けた日本の保守性」は根強く残っており、企業でも政治・行政でも責任者が責任を逃れようとする事例は多い。 しかし、それは被害を被った側が十分に責任を追求しない(或いは、追求しにくい状況がある)という明白な原因があるからです。 それにしても、たとえ革命は難しいとしても、保守性を改革出来なければ日本はますます没落する可能性が高い。
ちなみに、「謝罪」しても責任を取らないのは、日本語(文化)の曖昧な特性にも原因があります。 つまり、日本語の謝罪には厳密に言うと「責任を取らない建前謝罪」と「責任を取る真の謝罪」の2通りが混在しているという事です。 責任を取らない建前謝罪には、『起こった事は残念だが、自分には責任はない』『気の毒だと思うが、悪く思わないでくれ』『許してください』『穏便に済まして下さい』『世間を騒がせた点は謝罪します』という本音が隠されています。
例えばドイツ語(文化)では、『起こった事は残念だが、自分には責任はない』『気の毒だと思うが、悪く思わないでくれ』『許してください』などに対して、『私に責任があります』『損害を賠償します』という意味の明確な謝罪の言葉が存在しており、責任の所在も明らかです。 日本語の『申し訳ない』『すみません』では、責任の所在が曖昧。 私は、外国人の方々には、多くの場合は日本人がすぐ謝るのは建前であり、本当は責任を取りたくない(人間関係をややこしくしたくない)という本音を隠す目的があると説明しています。
たぶん右京さんに責任は無いのでしょうね
死ぬ前に奇声をあげていたそうですが…
「右京さんは悪くないよ」と言いたかったのが、あまりにも寒くて唇が動かず
「うきょきょきょきょっ」ってなったのかも
逝きしさんは「二人も殺した」って書いていますが普通に見れば素人に毛の生えたような元運転手について行ったんだし半分自殺のようなもんでしょうし、別に二人死のうが三人死のうがどうせ他人なんだから大した問題でもないように思えます
対して日本の最高責任者である天皇ヒロヒトは単なる優秀な軍事官僚に過ぎなかった部下の東条英機などA級戦犯に全ての戦争責任を肩代わりしてもらって自分は全く責任を取らなかった。
普通なら当然の『退位』さえしていないのですよ。無責任の極みです。
これではもう日本国では、『責任者には責任は無い』と言わざるを得ないでしょう。
今歴史修正論者によって、戦前も『天皇は日本の最高責任者ではなかった』なるお馬鹿極まる珍論が唱えられていますが、現在の平和憲法下の現在の象徴天皇制と敗戦までの明治憲法下の絶対天皇制とを混同するお粗末な妄言で話しにもなりません。
もしもですよ。1945年9月2日以前に『天皇は日本の最高責任者ではない』などと公衆の面前で喋ったら即座に憲兵隊に連行されて二度と同じ台詞が言えないようになっていたのですよ。
平和憲法のお蔭で特高も憲兵隊も無くなったが、『新しい歴史教科書を作る会』の連中にはその『ありがたみ』が少しも分かっていないのです。
実はこの『最高責任者に責任は無い』との言葉は私が考え付いたものではなくネットウヨ君の歴史的な名言?なのです。(それ以前は私ももえおじさんと同じ『日本では責任を追求する文化が弱い』だったのですが、)
4年ほど前に護憲派ブログ華氏451度に掲載されていた首相の靖国公式参拝を批判する記事やコメントに対して口汚く暴言を書き連ねていたネットウヨ君の行為が段々エスカレートしていく。
見かねて『ネオナチ紛いの妄言を放置すべきでない』『見てみぬふりをするのは無責任である』とコメントしたのですが、ブログ主は削除も論争もしない主義。
自分で『放置するべきでない』と言い出した手前、仕方なくネットウヨ君の事実の間違いや靖国の問題点を一つ一つ指摘する賽の河原で石を積むような根気の要る仕事をやったのですが、
私に全ての自分の言い分を論破されたこの行儀の悪いネットウヨ君が最後に言い放った言葉が件の、
『最高責任者には責任は無い』だったのです。
これには海千山千大概の議論では負けたことが無い流石の私もこの名言には完全に脱帽。
一言も言い返せない。反論出来ないのですよ(これはもう一発大逆転でネットウヨ君の完全勝利ですね)
もえおじさん、
この言葉は、日本の右翼思想の真髄だと思いませんか。?
以来色々な場面でこの『最高責任者には責任は無い』の言葉を使わしてもらっているのです。
そして、この事件での片山右京の数々の言動は、冬の富士山への入山まえの最初から、最後の悲惨極まる無責任お粗末遭難の顛末から、その後の今の今まで徹底的に、『責任者には責任は無い』で貫かれていると思いませんか。
米国海軍の特殊部隊SEALSでは、訓練時の死亡率の方が実際の軍事作戦時におけるそれよりも高いという。
「本番」よりぬるい「訓練」「練習」などなんの意味もない。そのことを世界で戦ってきた片山氏はよく解っていたはずだ。
第一あの遭難は登山の力量不足によるというよりも全く不運な事故であり、不可抗力である。