ニセ科学を批判するみなさんは気が付いていないようですが、
『水からの伝言』でも、ほんの少し表現を変えれば十分に『科学的に正しい』になるんですよ。
『美しい言葉が美しい結果(結晶)が得られる』と確定的に言うから宗教になるし、科学を詐称すれば『ニセ科学』と呼ばれる。
しかし、これをほんの少し変換して、
『特定の条件が加われば美しい言葉が美しい結果(結晶)を得られる事が有る』なら如何でしょう。?
美しい結晶が必ず確定的に出来るとするから、科学的に間違っている(ニセ科学)とされたが、確率的に出来る(偶然に、たまに出来る)とすれば十分に科学的です。
そう、出来る時もあれば出来ない時も有る。
美しい言葉なら必ず汚い結晶、或いは其の逆も『水からの伝言』と同じで間違いです。
其の原因は美しい言葉と、結晶の間に関係が無いので、それで成功する時もあれば成功しない事も有るわけです。
『確率論と確定論の違い』
科学の関係者が『こんな簡単な違いに気が付かないはずが無い』と普通では思うんですが、何と驚くことにこの違いの判らない人が殆どなんですよ。
つい最近NHKが科学番組の時間枠で『氷作りの裏技』として『熱湯の方が冷水より早く凍る』『温度の高い方が凍りやすい科学では未解明なムペンバ効果』『早く氷が欲しい時は熱湯を冷凍庫に入れれば良い』と放送。
実際にやってみれば誰でも判りますが、この放送は事実では有りません。
『水からの伝言』を批判している理科系のブログならニセ科学であるとする意見に賛成していただけると思ったんですが、事実は正反対。
何と、『科学的に有りうる』なんですよ。
理由は、
『何らかの条件が加われば絶対に起こらないとはいえない。』
溜息しか出ませんね。
確定的な事例と確率的な事例とを混同しているだけではなく、この人たちは宗教と科学の違いも余り判っていないようです。
科学を宗教的に信じている人たちは、私たちが考えている以上に大勢いますよ。
『「水伝」は科学ではありせん』
私の主張(A)『特定の条件が加わればで美しい言葉が美しい結果(結晶)を得られる事が有る』は、
(B)ある特定の条件を加われば、「必ず」美しい言葉が美しい結果が得られる』には決してなりません。
Aでは『・・・・事が有る』で確率論なので事実を断定していないので科学とか反科学とかの範疇には含まれません。
しかしBでは「・・・・得られる』と確定論となって断定しており事実(科学)と相違するのでニセ科学となる。
因みにNHKのムペンバ効果は設定が温度以外は無条件で誰にでも出来る裏技なので確率論ではなく確定論となっておりニセ科学と判定できる。
まあしかし、そんな細かい言葉遣いの議論以前に「水伝」は科学では有りません。
あれは宗教ですよ。
だから『ニセ科学である』といくら科学者が主張しても信奉している信者の連中には全く「ぬかに釘」効き目が無い。
しかも、相手が宗教なので批判する側も、なにやら宗教臭くなってくる。
『それにしても宗教批判は難しい』
水伝騒動がわけがわからなくなるのは、神学論争だからしょう。神学論争の批判はいかなる形であれ、神学論争に取り込まれてしまう。
それが宗教の恐ろしいところだと思います。
「水伝」は自称科学者?が『水からの伝言は科学である』と始めたらしいが、
誰か高名な聖職者、例えば清水寺の管主が『良い行いは必ず良い結果が訪れる、美しい言葉が美しい結果(結晶)を生みます』と説教を垂れても誰も文句は言わなかった筈です。
勿論どんな厳格な科学者でも、この高僧の説教は『ニセ科学で有る』何て野暮なことは言わない。
説教に対して『科学に宗教を持ち込むな』とか『科学と宗教を曖昧に言うな』と主張する潔癖症の科学者も少数は居るかも知れませんが『ニセ科学である』などとは言わない。
もしも誰か、あの説教は『ニセ科学で怪しからん』と言った人物がいたとしても世間から笑われるだけです。
だから誰もニセ科学とは批判しない。
説教を聴く方も、説教の内容が『科学的に正しいか間違っているか』ではなく『宗教的、道徳的に善であるか悪であるか』にしか興味は無い。
科学的な正誤なんて最初から眼中に無いんですよ。
『宗教は科学的正誤に影響されない』
ニセ科学に反対するみなさんも、もう少し冷静になって今一度『水からの伝言』を『果たして、その正体は何であろうか?』と考えてみるのも一つの方法です。
水からの伝言とは『美しい言葉が美しい結果(結晶)をつくる』話で、こんな物をニセ科学で有るとする理由が私には判らない。
何処から見ても典型的な宗教ですよ。
しかも宗教に科学論争を挑んだ段階で、宗教の神学論争に巻き込まれてしまっています。
そう、科学的な正しいか間違っているか(正誤)の範囲を超えて、「水伝はいかに悪であるか」とか(社会道徳的に)悪いとかの善悪(道徳或いは宗教)の話になっている。
科学を詐称する宗教である『水からの伝言』を批判する心算が、悲劇と言うか喜劇と言うか『ニセ科学批判』自身が宗教(カルト)近づいています。
派遣労働という雇用形態が秋葉原無差別殺人の原因であるという命題があったとして、確定論はこれで断定して終了するのであるが、記事にあるいわゆる確率論ではそれで終わらない。なるほど、派遣労働という雇用形態が原因して秋葉原無差別殺人が結果した。しかし、そうではない事例もたくさんある。派遣労働という雇用形態は殺人を引き起こす原因であることに現に事実として発生したのであるから疑いようもないのであるが、原因はそれだけではない。他の客観条件もあるのではないか?例えば、奈良で医学部へ進学させようとスパルタ受験教育をしていた父親の家族を殺すという殺人事件があった。この場合では、殺人の原因は派遣労働ではなく、受験制度を背景とする父親の管理教育にあった。しかし、この場合でもスパルタ受験教育が必ず殺人へ結果するとはいえない。だが、スパルタ受験教育が現実の殺人事件の動機・原因になったこともまた事実であるから、受験制度という存在が殺人の原因であることも疑いようもない。このようにして犯罪原因を積み上げていくことで犯罪を引き起こす原因をなくしていくことが科学となる。ある条件のすべてが揃えば犯罪が必ず発生するという認識論を採用するのではなく、特定の条件が揃うだけで犯罪が実現するという現実における科学論が必要だと思う。つまり、派遣労働だけでは犯罪の原因とはいえず、他の条件もあるのであるから派遣労働を犯罪の原因を断定することは非科学とするのではなく、現実に派遣労働という雇用形態が原因となった犯罪が1件でもある以上、派遣労働を犯罪の原因と認識し、犯罪の原因を1つずつなくしていく運動が必要だということです。犯罪の原因は「いろいろあってわからない」という不可知論ではなく、確実にわかっている犯罪の原因を1つずつでも消していく運動と科学論が必要です。
水の結氷の様な単純な現象でも外気の温度だけではなく風の向きや風力、結晶の核と成る埃や不純物の有無、過冷却を止める振動なんかまで影響してきます。
ましてや秋葉原無差別殺人の原因なんかは無数の要因が複雑に絡み合っている社会現象の一つです。
ところが最近は善悪二元論に近い暴論がまかり通る困った世の中になってきてしまいました。
なんでもブッシュが悪いと言ったのでは、何でも悪いのは日教組のせいにする中山成彬見たいでかっこ悪いが『ブッシュや小泉、麻生風の二つに一つの二元論的な考え方』が蔓延ったのが一因です。
ある程度の社会経験があれば決して陥らない単純思考で、社会全体の幼児化現象でしょうね。
物事は一つや二つの簡単な原因では起こらない。
単純には善悪は判断すべきではなく、色々な要素が複雑に絡み合って出来上がっている社会に対して大人としての慎重な考察が必要に成ってくる。
そこで大事に成ってくるのが、社会にとって自分にとって何が大事かと言う『価値判断の基準』です。
その時各自の世界観、道徳観、哲学が問われる事態が起こる。これが今あやふやになってきているんでしょうね。だから混乱している。
この混乱がブッシュの二元論に近い『ニセ科学は悪』などと言う単純な道徳を振りかざす非科学的な『ニセ科学批判』のような新興カルト宗教が生まれる要因ともなっている。
このカルト集団は自分たちでは決して宗教であるとは思っておらず化学的であると信じているので外からの一切の批判は受け付けない。困った事です
物理学では、実験結果は「標準偏差の3倍以内=99.7%」なら「絶対」と扱います。
でなかったら、理論が正しいか間違っているか
判断できません。
物理学では、最終的に理論が正しいかどうかは、実験で確かめるしかないのです。
そこが、数学と違います。
エセ科学が、99.99999999,、、% ではないから、
「絶対ではない」というのが、
世間の人には、説得力を持つ
という「日本人の知的レベル」が、情けないです。
0.99999999,、、は、巡検小数として計算すると
、極限でも何でもなく 1 です。
小中学校で、ちょっと教えればすむこと と思います。
それから、すぐ「不毛な論議」になるのも、情けないです。
学者の議論は、個人の思想(物理のです)攻撃になることもありますが、
議論の目的が、学ぶこと=自分のレベルをUpしたいがための議論ですから、
基本的には、お互いがプラスになる議論で、
これが、科学が前進する原動力だと思います。
自分(達)を、他より優位にしたいだけの ための議論は、
「足の引っ張り合い」=マイナス方向
に、なってしまいます。
政治討論がいい例です。
マイナス方向の議論をしないよう、
小中学校で、議論とは何であるかを、きっちり教えないといけない と思います。
何年も前のブログ記事の中に有った『水からの伝言』を口実にした、個人に対する一部集団(たんぽぽグループ)による卑劣な個人攻撃事件が発生し、護憲左派のブログを震撼させ一年以上たった今でも、連中は暴れまわっており未だに収束していません。
この問題に関連して愚樵空論で、
「文脈」と卑怯・人格攻撃のフレーム2009-03-01
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-224.html
に文脈を無視した卑怯な人格攻撃であると判断されかねない、間違ったコメントが有り、外国科学誌についてのkafukaさんのブログ記事の一部を引用さしてもらいました。
『水からの伝言』をニセ科学で有ると批判している人が、ムペンバ効果は正しいとする立場から「NKKの氷作りの裏技」を批判した大槻義彦氏を非難する。
しかもわざわざ、>ただし、思考実験だけで反証が出来てしまう「水伝」は、ニセ科学以前のデマであることは間違いありませんが・・・
とまで付け加える。
『神はさいころを振らない』
究極の極小の量子力学世界では当てはまらないらしいが、我々の住んでいる世界では一般的物理学の原理原則が確実に働きます。
実際問題としても物理的な原理が、ある時には働き、ある時には働かないでは実験も検証も不可能です。
水伝とムペンバ効果は、笑ってしまうくらいに実に『インチキの構造』がソックリです。
どちらも、片一方が氷の『形』でもう一方が『時間』との違いはあるが水の相転移の話なんですよ。
水の相転移でも個体から液体、液体から気体とかは正確に一律に起こるが、水では不思議な事に液体から個体に相転移する時に僅かに『ばらつき』が発生する事があるのです。
完全に時間(形状)が一律ではないという事です。
同じに実験しても微妙に測定結果が違う。
このは測定方法に原因がありその他の相転移より困難である事が原因している。
不純物の有無、空気中の埃の有無、振動や風、実験に使った容器の形状や表面の凹凸などの各種の条件で少しずつ微妙に違い,条件を全く同じにするのは殆んど不可能に近い難事業です。
どちらも、この『ばらつき』を利用して人をペテンにかけ、煙に巻く。
科学のお遊びとしては面白いかもしれませんが。どちらも『科学の範疇』に入りません。
しかし頑迷な科学教信者達には其の事実が解らない。
NHKは確定論なのでニセ科学で、Wikipediaの記述は確率論(何かの条件では、できる事もある)なので物理学の原理原則、定理や法則などとは本来関係がない話。)
(99,7%以上の)確定論なら間違いだが、(何かの時に、たまには成功する)確率論なら科学的に正しい間違っているの範疇には入らないので、水伝であれムペンバ効果であれ(どんな事でも大概は)成り立つ。
科学的に正しいから宗教にならないではなく、正しい科学ほど逆に宗教的に無条件で信じる人は多くなるので、宗教化する危険があるわけです。
科学の活動ではなく、科学の成果を絶対視すれば、それは宗教になります。
誰であれ科学的な検証を否定して、他からの批判を軽視(敵視)すると、科学は何時でも宗教になります。
以前のニセ科学批判の批判でも指摘したのですが、『科学』にとって一番大事なのは、正しいか間違っているかの問題ではなく、他からのあらゆる検証(他所からの批判)を認める事が出来るかどうかですね。
検証が正しく行なわれるならば、何れは正しい正誤が明らかになる。
科学とは『間違い』を原動力として進歩していくもので、科学的間違いは単なる『間違い』にすぎず『悪』では有りません。
>他からのあらゆる検証(他所からの批判)を認める事が出来るかどうかですね。
まさに、同感です。
「客観性」は、科学以前の前提ですね。
AさんとBさんの主張が異なったとして、
自分を、Aさんにも Bさんにも「代入」して、根拠を検討できるか
(自分を、客観的に、AさんとBさん と匿名的に思えるか)
ということです。
愚論ですが、欧米人は、
人は、神の前では、愚かに迷える子羊です。
(羊は、愚かというのが常識があります)
ですから、神から見れば、
自分(達)の主張が、他者より優れている なんて思うのは、そもそも、おかしいわけです。
それで、客観的議論ができ「客観の極である科学」が、発達したのだと思います。
(強牽附会ですが)
つまり、
日本人には、絶対神がいないため、
多くの人が、自分の意見が「自己中」であるかもしれないと、
自分自身で検討しない のではないかと思うわけです。
近年、日本人が、いわゆる「自己中」を恥じない傾向にあるのは、
情けないと思います。
物事の善悪を判断するのは、其々の哲学(世界観)や宗教である。
このことは簡単な常識であると思うのですが、しかし、この事を明確に理解している人は案外少ない様ですよ。
困った事です。
この人たちは、科学的な間違いは『悪』であると素朴に信じている。
『ニセ科学=間違い』にはなっても『科学的間違い=悪』とはならない事が理解出来ない。
日本人では『科学を科学として理解している人』もいるが『科学を宗教的に信じている人』の割合も可也の数に上っている。
日本人の多くは『自分自身を客観視出来ない』のは事実のようです。
自分を相対化できないし、一部の人は、自分の論が他から批判されると条件反射的に反撃しようとする傾向がある。
他所からの批判を嫌がる傾向は『科学的思考方法』の対極にあるやり方で、科学そのものを理解していない証拠です。
自分と全く違うアプローチで他所の人が同じ主題に違った結論を出したしたら、これ以上に喜ばしいことはなく、双方を比較検討して喧々諤々論争しあう。
其れが議論の醍醐味です。
これが日本人では苦手なようです。
欧米ではディペートで、日本では余り見られませんが自分の考え方だけではなく、自分の反対意見の側に立って弁論を組み立てる訓練を日常的に行っていいるとか。
愚樵空論の続・カルデロン家について~自生的秩序とは2009-01-24
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-206.html
に、『カルデロン家全員強制送還』なる自分の意見とは正反対の方向から日本政府のやっているグロテスクで残酷な一面を揶揄したコメントを送ったのですがブログ主の愚樵さんからは『逝きし世の面影さん。困りましたね、このタイミングでこんな高度な冗談は(苦笑)。』 と注意されました。
自分では結構良い出来具合のコメントだと思ったのですが日本人は基本的にディベートに慣れていないようです。
日本人が自分を客観視出来ない理由の一つが、キリスト教の様に、神との関係で客観視出来ていないからだ。との考え方は・・・・・・・・これは実に面白いですね。
>これ以上に喜ばしいことはなく、双方を比較検討して喧々諤々論争しあう。
>其れが議論の醍醐味です。
まさに、我が意を得たり です。
喧々諤々論争しあって、個々の結論を止揚した、さらに高度な結論に至る
ということですよね。
論争の結論は、出ないか、妥協しかない という方は、
止揚と妥協は、違うってことが、わかってないと思います。
>・・・これは実に面白いですね。
ありがとうございます。笑止千万とは、思いますが、、、
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-224.html
での私のコメント、
>護憲左派のブログ界で、人数的には極限定した小さな集団のたんぽぽ氏とその自警団が大暴れ出来た
背景には、 Looperさんのような善意から偽科学を追求している科学者グループや一般の読者が大勢居た
からですね。
だから、これほどまでの大騒ぎに成ってしまった。
一時期たんぽぽ集団は『ニセ科学退治の十字軍』気取りで、すき放題に暴れまわっていた。
今回の『水騒動』は、科学がイジメの道具にもなるし、宗教にもなる見本のような話です。<
偽科学は『科学的に間違い』ではなく、『偽科学は悪』との信念に凝り固まっている人が、ニセ科学批判を善意からしている人たちの中にもいる。
ニセ科学批判の同じ人物がNHKの裏技はインチキと言う大槻教授を科学的でないと非難する。
殆んど同じ問題(ムペンバと水伝)の扱いが全く正反対の態度をとる。
悲劇的というか喜劇的というか。
それで、「文脈」と卑怯・人格攻撃のフレームと言う表題へのコメントとしては、余りにも相応しくない。 記事の「文脈」から飛躍している上に『卑怯・人格攻撃のフレーム』と他の読者から見られかねない、と注意したが、全く聞き入れる素振りもない。
此方のブログには来ないでしょうから、愚樵さんが、愚樵空論で別立ての対話用エントリーを造ってくれるようです。
今までの経緯から余り期待はしていませんが、行きがかり上、仕方が有りません。
何しろ相手は『ムペン場効果』の存在を信じきっていて、私のような『ムペンバ効果』の存在自体は疑っている相手を敵扱いする。
新手のカルト宗教みたいですね。信じきっている人との対話は難しい。
建設的会話が出来るかどうか自信は有りませんが、対話が始ま、りましたら何か助言なり注意なり反論なり感想なり、何でも結構ですから『愚樵空論』の方にもコメントを御願い致します。
どう書けばよいか考えていました。
直接の関係はありませんが、
EMANさんという方の掲示板(物理の方では全国有数の掲示板です)
http://hpcgi2.nifty.com/eman/bbs080321/yybbs.cgi?mode=by_date
に、こんな質問(?)がきました(No.6535)
>ある世界が3次元空間であり、且つ時間が存在しているのは、
>その3次元空間内に光が存在しているからである事を証明せよ。
という高圧的な書き込みです。
みんな、無視していましたが、甘泉法師さんという方が、No.6566 で、
きっちり答えました。
素晴らしい回答だと思います。
それで、僕の感想は、No.6572 なのですが、
相手に応酬(表現がよくないなぁ)するには
「相手の土俵で」
ということに気づかされた次第です。
『愚樵空論』さんの方で、お互いにプラスになる議論ができるかやってみます。
尚、「論破」や「説伏」は、科学を志す者として、
するつもりは、ありません。
だから創価学会は嫌われる。
ましてやインターネットでの対話では無理。
多分現実に顔を見て話しても駄目でしょうね。
>「相手の土俵で」ということに気づかされた次第です。<
其れが何とも難しい。
対話する気のない相手との対話ほど難しいものはない。
難しくとも少しずつだが『相手は何が不満なのか』『相手が何を言いたいのか』『相手にとっての一番の関心ごとは何か』が分ってくる。
ニセ科学信者やニセ科学批判信者との対話は、カルトやマルチ商法に嵌った被害者との対話に似ています。
こちら側は、ナントカしてマルチに疑問を持ってもらいたいと思っているが、相手側は此方側(世間)が知らない真理を知っていると信じていて、やたらと尊大で、(マルチの)真理を理解できない相手を見下し侮辱する。
オウムの例に見られるように、この人たちの知識や知能に問題が有るのではなく、その逆で自尊心や知識や知能が人並み以上だから騙される。
能力に優れている、人より自分が偉いと思っている人の方がペテンには引っかかりやすい。