みちのくの山野草

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3356 不穏分子と見なされていた賢治

2013-06-23 09:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
賢治も不穏分子と見なされていた
 さて、では伊藤光弥氏が「当局からは賢治も不穏分子と見なされていたはず」と判断したその「根拠」は何なのであろうか。
 残念ながら、論考「昭和三年三月十五日の肥料相談はなかった」(『イーハトーブの植物学』所収)の中では、同氏はこのことに関しては
   「支部活動に深く関わっていた賢治が
ということにしか言及しておらず、その「根拠」を明確にしていないようだ。
 がしかし、同書『イーハトーブの植物学』の中の他の章「昭和三年三月の謎」の中で(前掲書104p~)名須川溢男の論文「宮沢賢治とその時代」を基にして次のような事柄をリストアップしているので、これが「不穏分子見なされていた」と判断している「根拠」であろうということが推察できる。
・昭和3年2月に行われた第1回普通選挙の際に立候補した地元の労農党候補者を賢治は応援し、選挙事務所の開設を手伝ったりビラ張りもした。
・賢治は事務所の保証人になった上に、八重樫賢師を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援をしてくれたし、演説会などの際も激励のカンパをしてくれた、と当時労農党盛岡支部執行委員の小舘長右衛門が語っている。
・労農党員だった煤孫利吉は、昭和2年3月頃賢治が謄写版一式とカンパ20円を党支部事務所に置いていったと聞いている、と語っている。
・同じく党員だった照井克二は、賢治は「ほんとうに中心になってくれた人だった…(略)…おもてにでないで私たちを精神的、経済的にはげましてくれた」と語っている。
・労農党員だった伊藤秀治は、労農党の事務所の机やテーブル椅子などは賢治の所から借りたものであった、ということを語っている。
・羅須地人協会に出入りしていた八重樫賢師は労農党の活動をしていた若者で、昭和3年10月に行われた「陸軍特別大演習」の際、要注意人物と見なされて北海道に追放された。
 そのとき、小舘長右衛門も同じく北海道に退去させられ、煤孫利吉、照井克二は拘留され、その後どのような活動も警察から徹底的に抑えられたという。
 そして同じく、名須川溢男の同論文の一部を引用して次のようにまとめている。
 名須川氏は「宮沢賢治とその時代」の結びとして「宮沢賢治の羅須地人協会時代は、労働農民党稗和支部の活動時代でもあったが、この両者の密接な関係をもって宮沢賢治が活動していることがあきらかになった。前者は賢治自身の開設したものであって表面にも明確に出ているが、後者は実質的な中心であるが、賢治の自己内部の社会運動的な面を賢治の分身とも言える人びとによって活動させているかの如く、まったく表面にでないのであった」と述べている。
 また、「羅須地人協会の活動のみが従来とりあげられたこと、労農党稗和支部との関係はまったく無視されるか、故意とでも言いたい程にかくされたという歴史性と、賢治研究、解説者が賢治の総合的人間性を一面的にしか把握しなかったからである」と述べ、その理由に研究者の視点の欠如を挙げておられる。
               <『イーハトーブの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)107pより>
 たしかに、この名須川溢男の論文に基づけば
   「当局からは賢治も不穏分子見なされていたはず
という判断は至極当然であろう。ただし、名須川溢男が得たこれらの証言がもし事実であるとしたならば、という条件がついたうえでの話だが。
 そして、それらの証言は実は事実であったという可能性がすこぶる高いということもこの頃やっと私はわかってきた。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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