《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ちょっと休んでいました。〝「三月」は何年に詠まれたのか〟の続きです。
賢治は昭和3年3月15日取り調べを受けた
そして伊藤氏はさらに続けている。
昭和三年四月十一日の新聞夕刊は、全国一斉に一カ月おくれで三・一五事件を報じ、併せて四月十日に労農党など三団体に解散命令が出たことを報じている。同日の岩手日報夕刊は、本件の検挙は一人もなかったとしながらも、「本県における検挙は同三月十五日午前二時からあかつきまで盛岡市を始め各地で家宅捜査を行つて書類を押収し且つ検束したが何ら治安維持法に抵触しないので留置したのみで釈放した」と報じた。当局からは賢治も不穏分子と見なされていたはずであり、当時の客観情勢に照らしてみれば昭和三年三月十五日に取り調べを受けたことは間違いなかろう。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)22p~より>私も以前似たようなことを考えたことがあり、伊藤氏のこの見方は大いに頷けるものであった。ただし私の場合は昭和3年夏の岩手県下で行われた凄まじい「アカ狩り」に関してであり、「三・一五事件」に関してではなかったのだが。とはいえ、当時
当局からは賢治も不穏分と見なされていた
はずという伊藤氏の判断は私も肯んずるところであり、昭和3年の8月の「アカ狩り」の際に賢治が当局からマークされない訳がないと私は以前から判断していたこともあり、「三・一五事件」の起こった同年の3月にも取り調べを受けなかった訳がないという伊藤氏の推理は大いに説得力があり、共鳴する。
言い方を変えれば、
昭和3年の「三・一五事件」と賢治≒昭和3年の「アカ狩り」と賢治
という近似式が成り立ち、その構造はよく似ていると私には見える。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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