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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治と一緒に暮らした男(33)

2011-09-27 09:00:00 | 賢治渉猟
32. 賢治と千葉恭の同居期間について
 はてさて、宮澤賢治は下根子桜で千葉恭とある期間寝食を共にしているはずだが、一体いつからどれくらいの期間一緒に暮らしていたのか未だもってはっきりさせられないでいる。それはそもそもこの期間や時期に関して賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないせいでもある。
(1) 千葉恭の言っていること
 ただし振り返ってみれば、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
ア).『イーハトーヴォ』復刊2号において
 そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。
 その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。

イ).『イーハトーヴォ』復刊5号(宮沢賢治の会)において
 (下根子桜では)賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
ウ).「宮澤先生を追って(二)」において
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
と。
(2) 今までの推定 
 例えば〝ア〟で千葉恭が
 (宮澤賢治は)次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに(賢治から)『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。
と語っていることとか、千葉恭のご子息Mさんが
 父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と私に語ってくれたことなどから、千葉恭はあるとき穀物検査所勤めに見切りをつけ、下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らし始めたとであろうと推理していた。
 言い換えれば、千葉恭が穀物検査所を辞めた時期と下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らし始めた時期とはほぼ重なるであろうと考えてきた。それゆえ当面の最大の懸案事項は千葉恭はいつ穀物検査所を辞めたのかということであった。
 さりとて、(3)によれば千葉恭は〝昭和四年に役所(穀物検査所)を辞めて帰農し〟たことになるがそれを鵜呑みすることはできない。なぜなら(1)によれば〝家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり〟ましたと語っているが、千葉恭が昭和8年に復職していることは『岩手年鑑』の「県職員等の職員名簿」の記載から確認できるから、もし昭和4年に辞めたとなれば帰農期間は昭和4年~8年の5年間となり9年間とは矛盾するからである。
 一方、大正15年の7月25日に千葉恭は賢治に頼まれて白鳥省吾との面会を断りに行っているから、この時期には千葉恭はもう穀物検査所を辞めていて賢治と一緒に暮らしていたと考えるのは自然である。そしてこの時点から起算すれば丁度昭和8年までの間がほぼ9年間だから『九年間百姓しました』にピッタリ合う。
 それゆえ、〝「宮澤先生を追つて(三)」〟で述べたように
  千葉恭が穀物検査所を辞めたのは大正15年の夏の頃
といままでは推定していた。
(3) 辞職・復職日確定
 それがこの度あるルートから、千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等がこの度あっけなく判明した。それはそれぞれ
 大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
 昭和 7年3月31日 〃 宮守派出所に正式に復職

ということであった。
 したがって、前述の推定は当たらずとも遠からずというところだった。とはいえ何もそれを悔やむことはない、今まで躍起になって探し廻ってきた日、千葉恭が穀物検査所を辞めた日がやっとのことで確定したのだから。これでより自信を持って賢治が千葉恭と一緒に暮らし始めた時期を推定できそうだ。
(4) 現時点での結論
 したがって、6月下旬に突如役所を辞めた千葉恭は少なくとも明けて翌7月からは賢治と一緒に下根子桜で暮らしていたであろうということが十分考えられることになる。
 また以前触れたように、千葉恭は「松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた」と証言しているから、これが事実であるならば千葉恭は下根子桜で松田甚次郎を直に見ていることになる。そして一方、松田甚次郎が盛岡高等農生時代に宮澤家の別荘を訪ねたのは大正15年度は3月8日の一度しかないことも確認できた。
 よって、松田甚次郎が賢治の許を訪れた3月8日に千葉恭は下根子桜の別荘に寄寓していた可能性が大だから、千葉恭はこの頃(昭和2年3月8日の前後)もまだ賢治と一緒に暮らしていたということが十分に考えられる。
 よって〝イ〟の「約半年生活をともにした」の約半年間は、実は少なくとも7月から明けて3月まで8ヶ月間強であると見ても良さそうである。

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